
小説家を名乗りながら名作と言われる文学を避けてきた著者が、自身に鞭を振るうつもりでバイクツーリングの目的地を地方の文学館と決めて走る。バイク小説家がツーリングと文学の魅力を綴る書き下ろしエッセイ、文学ツーリングシリーズ。第3回「井上靖文学館」
バイク小説家がバイクで行く「目的地を地方の文学館にしてみた」第3回井上靖文学館
"自称"バイク小説家
「自分は小説家を名乗ってよいのか」
そんなことを、以前から今でも思っている。”バイク小説家”という肩書きは、わかりやすくて覚えてもらいやすいからそうしているのであり、実際は烏滸がましい気持ちになる。小説で報酬を得ることがあるとはいえ、何かの文学賞を受賞したわけでもないし、始まりは好きに書いた小説をバイク雑誌の読者ページへ投稿したことであり、また自作のフリーペーパーであって、だいたい最初の有償掲載が、つまりデビューがいつだったかも今となっては曖昧だ。肩書きの始まりに”自称”をつけるべきではないかと今も思っている。
1月下旬、厳しかった寒さが少し和らいだ平日に、僕は静岡県東部の駿東郡長泉町にある「井上靖文学館」へSV650Xと共に向かった。
静岡県藤枝市から東へ向かうのに国道1号バイパスを利用する。県内移動ならこのバイパスが有効だ。トイレ休憩で由比港漁協組合の直売所に立ち寄った。
沼津の町が近づいてくると道も混雑してくる。沼津駅から伸びている道との交差点で左折した。この県道22号線「根方街道」は、狭い道路なのに交通量が多い。SV650Xをクネクネと東へ走らせて抜けていく。門池公園を過ぎて黄瀬川を渡る手前の五叉路を、城山通りへ左折する。そのまま北上すると目的の「井上靖文学館」がある。
静かな住宅街のバス通りを登っていく。ヘアピンカーブを数回楽しんだところで、無事駐車場に到着した。
企画展「井上靖と松本清張」
井上靖は大学卒業後、1936年に毎日新聞社に入社し、43歳で芥川賞を受賞するまで新聞記者として働いていた。翌年1951年、44歳で退社し、文筆活動に専念していく。代表作に「あすなろ物語」や「しろばんば」などの自伝的小説に加え「敦煌」や「楼蘭」といったシルクロード物、他にも現代小説や歴史小説など作品のジャンルは多岐に渡り、60年代にはノーベル文学賞候補にもなった。
井上靖文学館は富士山の麓、駿河平自然公園の一角にある。ここはベルナール・ビュフェ美術館も隣接する、緑豊かな文化と自然に触れられる場所だ。
文学館に入っていった。この日は「井上靖と松本清張」という企画展が開催されていた。「松本清張」は推理小説で有名な作家だけど、二人は同世代で新聞社出身の芥川賞作家という共通点がある。
旅について、二人の残した文章が展示されていた。
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旅の効用をただ一つあげよといわれれば。私は躊躇なしに自分をひとりにすることができることだと思う。(井上靖 旅と人生)
私は独り旅が好きである。(中略)旅は、自身があらゆる環境から切り離されて、自由な「個」になっていることである。一切の煩わしさから離れて、遠い土地をさ迷うことによって、自己を凝視し、観照できる。こういうことは、同行者のある旅ではなかなか味わえない。(松本清張 旅の画集)
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井上は「旅の効用はひとりになれること」だと言い、松本は「独り旅が好きだ」と言う。つまり「旅はひとりが良い」ということだ。だったらバイクの旅はうってつけではないか。
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私にはいま正確なものだけが美しく見える。文章も風景も人と人との関係も。(井上靖 「小説新潮」巻頭筆蹟)
美しい文章より真実の文字を(松本清張 松本清張への質問)
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この二つの文章の比較は一見すると、違うことを言っているように見える。だけど二人とも、正確なもの、真実を大事にしていることがわかる。正しいこと、確かなもの、本当のことを追求すべきであり、それが良いことなのだと言っている気がする。二つの文章は同じ考えを述べていると僕は読み取った。
井上靖の映像が視聴スペースで流れていた。以前、テレビ放送されていた「私の履歴書」という番組で井上靖が取り上げられた時のものだ。人の良さそうな優しい顔をしたお爺さんが、新聞社を辞めて小説家になろうとした時のことを、確かこのように話していた。
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私は、小説が書きたかった。だから新聞記者を辞めた。新聞社に居たら、書けないと思った。小説家になる資格は、小説を書きたいという気持ちがあることです。
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小説家になる資格
「小説を書きたいという気持ちがあれば、小説家になる資格がある」
何だか彼に「いいんだよ」と言われたみたいで、救われた気持ちになれた。館内を一通り見て回った僕は、気に入った展示の文章を自分の手帳に書き写した。
外へ出てSV650Xの停めてある駐車場へ向かった。階段を降りているときに、館内の受付にいた方に呼び止められ「よろしければ」と井上靖に関する冊子の入った封筒を手渡され、ありがたく受け取った。
僕とSVは「井上靖文学館」を後にした。
彼の文壇デビューは43歳、新聞社を退社したのは44歳のとき。奇しくも自分がフリーランスとなったのも44歳。勇気をもらった気がした。
下りのヘアピンカーブをていねいに、しかしメリハリをつけて抜けていく。そしてしばらくまっすぐな下り道が続く。前方の眼下に三島の町が広がる。後ろにはまるで見守るかのように大きな富士山が威厳ある姿を見せている。
僕とSVは熱くなった気持ちを抱いて、冷えてきた風を切りながら帰路についた。
作:武田宗徳
出版:オートバイブックス(https://autobikebooks.wixsite.com/story/)
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