【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】
カンボジアに入る!
ベトナム縦断を終えてホーチミン(サイゴン)に着いた時、ぼくの心は重かった。カンボジア各地でプノンペン政府軍とポルポト派との間でひんぱんに戦闘が起き、多数の死傷者が出ていると、ベトナムの英字新聞が伝えていたからだ。
カンボジアの領事館に行き、ビザ(入国査証)を申請する。バイクでカンボジアを横断したいというと、担当の職員は領事を呼びにいった。まずいことになった。
「アナタは何を考えているのですか。我が国は戦争しているも同然。そこをバイクで行くなんて」ぐらいのことを言われ、ビザの発行を拒否されるのではないかと思った。
だが紳士然とした領事はやってくなり、「オー、ウエルカム! バイクでインドシナをまわるなんて、キミは勇敢だ。我が国は自由な国。どこへでも行けますよ」と言うのだ。そのおかげで、わずか30分でカンボジアのビザを発給してくれた。
それを持って今度はベトナムのイミグレーションに行く。陸路入国でさんざん苦労したベトナムだが、プノンペンへの陸路出国を申請すると、なんとその日のうちに出国許可証がおりた。陸路出国許可証がおりるかどうか、さんざん頭を痛めたのがウソのようだ。
1993年4月29日、ホーチミンを出発。西に70キロ走ると、カンボジア国境に到着。ベトナム側の出国手続きはスムーズに終わり、国境の役人たちは手を振ってぼくを見送ってくれた。これでまずは最初の壁を越えた。
カンボジア側に入る。カンボジアへの入国は不安だらけだったが、イミグレーションではパスポートにポンとスタンプを押され、RMX250Sの持ち込みに関しては税関の申告用紙に「Motor Cycle」と書き込むだけですんだ。「インドシナ一周」ではどの国でもバイクの持ち込みで苦労したが、唯一、カンボジアだけはフリーパス同然だった。
動乱のカンボジア横断
ベトナム国境から首都プノンペンに通じる国道1号を走り始める。沿道の風景は荒涼としたもので、長年の内戦の影響で水田は荒れ果て、まるで砂漠のような荒野が広がっている。ベトナムの豊かな緑を見続けてきた目には、なんとも異様な光景に映った。
国境から100キロ地点でメコン川を渡る。「メコン」は「インドシナ一周」のキーワード。何度、このアジアの大河を目にしたことか。メコン川をフェリーで渡ると、プノンペンは近い。交通量も増えてくる。国境から160キロ走ると首都プノンペンに到着だ。
5月1日。バッタンバンに向け、夜明けのプノンペンを出発。国道5号を西へ。プノンペンから190キロのプサットを過ぎると、交通量はガクッと減る。
バッタンバン県との境にはプノンペン政府軍の陣地があった。高射砲が西の空に向いている。恐怖感を振り切るかのようにして、RMX250Sの速度を上げて突っ走る。プノンペンから300キロのバッタンバンに無事に到着。
バッタンバンの町を夜明け前に出発。国道5号でシソポンへ。トンレサップ湖周辺の大平原が広がる。赤土のダート。ウエアはあっという間に赤くなる。つい最近まで、地雷が埋められていた国道5号だが、国道上からは撤去されたという。
アンコールワット遺跡を見たくて、シェムレアップの町に寄っていく。この一帯は、動乱のカンボジアの中でも、一番の危険地帯。アジア最大の仏教遺跡、アンコールワット遺跡は人の姿もなく、ガラーンとしていた。アンコールワット遺跡を歩き終えると、町の中心にある「グランドホテル」に一晩、泊まった。
夜中の3時ごろから砲声が聞こえてきた。最初のうちは「ドーン、ドーン」と花火を打ち上げるような音。それが4時すぎになると、砲声は俄然、激しさを増してくる。「ドドドドドーン!」と地面を揺らし、窓ガラスを震わせる砲声が連続する。すぐ近くの街路では「パンパンパン」と乾いた銃声の音がする。市街戦もはじまった。カンボジア横断の最後になって、ついに懸念していた戦闘に巻き込まれてしまった。
1991年11月のパリ和平協定以降、最大という1993年5月3日のシェムレアップの戦闘だ。ぼくはタイ国境に向けて突っ走る決心をした。このままシェムレアップにいたら、どうなるかわからないという恐怖感に襲われたほどの戦闘の激しさだ。
6時、相変わらず激しい砲声が響き渡る中、RMX250Sのエンジンをかけ、タイ国境に向かって走り出す。砲声が北と東の2方向からで、西からは砲声が聞こえてこないというなかで下した決断だ。
RMX250Sのアクセル全開で走った。このくらいの速度ならば、狙い射ちされても当たらないだろうと考えたからだ。赤土のダートを120キロ超の速度で走り続け、ついにタイ国境の町、ポイペトに到着。町が平穏なのを見てホッとした。命を落とすこともなく動乱のカンボジアを横断したのだ。
「インドシナ一周」、終了!
国境の町ポイペトから、カンボジア側は簡単に出国できた。フリーパス同然の出国だ。 ところが同じ地点の国境なのに、タイへの入国はきわめて難しいもので、「この国境はタイ人とカンボジア人以外の外国人の通行は認められない。カンボジアに戻りなさい」と言われた。だが、命がけで大きな戦闘をくぐり抜けて国境にたどり着いたので、そう簡単には戻れない。
▲戦乱のカンボジアを走り抜け、タイ国境に到着。このシーンがタイの英字紙「BANGKOK POST」の一面に大きく載った
国境で留め置かれてしまったが、1週間目の5月10日、タイのイミグレーションは、陸路での入国を認めないままバンコクのイミグレーション本部にぼくの身柄を移送した。イミグレーション本部に着くと、「今日中にタイを出国するように」と言われ、パスポートにタイ語で「出国を許可する」と書き込まれた。入国は認められないのに、出国は認められたのだ。
イミグレーションの車でバンコク市内の旅行社に連れていかれ、まずはマレーシアのペナンまでの往復航空券を購入。すぐさまバンコク郊外のドンムアン国際空港に連れていかれ、15時00分発のマレーシア航空MH781便に搭乗した。
マレーシアのペナンで一晩泊まり、翌日、バンコクのドンムアン国際空港に戻ると、この時点で初めてパスポートにタイの入国印が押された。タイ政府はぼくの陸路での入国を絶対に認めないという原則を貫いたのだ。
バンコクからは列車でカンボジア国境の町、アランヤプラテートへ。そして国境でRMX250Sを引き取った。
アランヤプラテートから753キロ走り、バンコクに到着したのは1993年5月16日の午前0時過ぎ。これにて「インドシナ一周」、終了。RMX250Sのメーターは9930キロを指している。全行程1万キロの「インドシナ一周」だった。
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