前回:「ハスラー50での世界一周」(1990年)第2回目

【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】

ボスポラス海峡を渡り、アジアを行く!

「ラーイッラハイッララー(アラーは唯一の神なり)」
「モハメッドラスラッラー(マホメットは偉大な預言者なり)」
モスク(イスラム教寺院)のスピーカーから流れてくる祈りの声で、イスタンブールの夜が明ける。ここには大小さまざまなモスクがあって、1日5回の礼拝の時間になると祈りの声の大合唱だ。

1990年10月10日、そんなイスラム教の祈りの声を聞いて、イスタンブールを出発。「アジア横断」の開始。ヨーロッパとアジアを分けるボスポラス海峡にかかる有料橋の第一ボスポラス橋を渡る。ハスラー50の通行料金は3000トルコリラ。日本円で150円ほどだ。

▲ウスクダル港からは、イスタンブール行のフェリーが頻繁に出ている。欧亜を結ぶフェリーだ

ボスポラス海峡を渡ると、アジア側のウスクダルの町に入っていく。海峡を渡るフェリーが頻繁に出ている。ウスクダルの食堂で、アジア編の第1食目を食べる。

▲ウスクダルの食堂で食べた「アジア編」の第一食目

ライスに肉汁、それにパンがついている。ライスは長粒米のピラフで、その上に煮豆がのっている。肉汁には、肉団子と野菜、ジャガイモが入っている。ライスとパンが一緒になっているところに、ヨーロッパとアジアの接点を感じた。

アジアの第1食目を食べ終わると、トルコの首都のアンカラに向かって走りはじめる。イスタンブールからアンカラまでは、「東京→大阪」とほぼ同じ、500キロあまりの距離だ。

▲ここはイスタンブール対岸のハイダルバシャ駅。アジアの鉄路、ここより始まる!

街道沿いの宿でひと晩泊まり、標高900メートルのボル山を越え、アナトリア高原に入っていく。ハスラー50で切る風は、いっぺんに冷たくなった。標高1570メートルのアクヤルマ峠を越えてアンカラに近づくと、風の冷たさが一段と身にしみる。

▲イスタンブールからアンカラへ。標高1570メートルのアクヤルマ峠を越える

アンカラに到着すると、中心街にある「OTEL AKMAN」に泊まった。“OTEL"というのはホテルのこと。1泊4万リラ。日本円で2000円ほどだ。

▲トルコの首都アンカラに到着

さっそく、夕暮れのアンカラの町を歩く。旧市街の中心、ウルス広場から市場へ。魚市場は活気にあふれている。魚の量、種類ともに豊富だ。海からも遠く離れた高原の都市アンカラで、市場にこれだけの魚が並んでいるというのは、トルコ人が魚をよく食べる証明のようなもの。米売り場もにぎわっている。トルコ人は日本人と同じようによく米を食べる。食堂に入っても、ご飯はふつうに食べられる。
「我々はヨーロピアン(ヨーロッパ人)でもないし、アラビアン(アラブ人)でもない。ターキッシュ(トルコ人)だ!」といって胸を張るトルコ人だが、日本人と同じようによく米を食べ、魚を食べるという民族性を見ていると、アジアの西と東という違いはあるものの、「同じアジア人!」だと強く思わされるのだった。

▲これぞ世界の奇景。カッパドキアの奇岩地帯を行く

▲標高2160メートルのサカルタン峠で出会ったトルコ交通警察のみなさん

▲「ノアの箱舟」伝説のアララト山(5165m)を背にする

まっ白なオッパイに興奮!

トルコからイランに入り、首都テヘランに着くと、やっと寒さから解放された。

▲トルコからイランに入った!

▲イランの首都テヘランに到着

車やバイクでごったがえすテヘランの中心街を走っていると、ミニバイクに古タイヤを4本も積んで走っている青年に声をかけられた。
「ちょっと、家に寄って、お茶でも飲んでいかないか」
といっているようなので、彼の後について走った。

交通規則などまるで関係ないかのように、渋滞をスリ抜け、一方通行を逆走し、彼の家に行く。2DKの狭い家だが、居間には目のさめるような色鮮やかなペルシャ絨毯が敷かれ、日本製のカラーテレビが置かれてあった。

その青年、モフセンは闇のブローカーをしている。商売になるものには何にでも手を出すといった感じで、バイタリティーにあふれている。彼は英語を話せない。ぼくのペルシャ語はカタコト語だ。ところが不思議なことに、カタコト語のペルシャ語と身振り手振りでけっこう通じるものだ。
というよりも通じ合った気になるといった方が正確だろう。 モフセンは新婚ホヤホヤ。奥さんのナルゲスは色白のペルシャ美人。イランでは女性は外に出るとき、すっぽり黒いベール(チャドル)をかぶっているが、家の中ではしない。ナルゲスは薄化粧の素顔を見せている。
赤ちゃんが生まれたばかりで、生後7日目。ナルゲスはぼくの目の前で真っ白な、大きなオッパイを出して赤ちゃんに吸わせる。

チャイ(紅茶)をご馳走になり、昼食のピラフまでご馳走になったモフセンとナルゲスに別れを告げ、テヘランを離れる。ハスラー50に乗りながら、ナルゲスの真っ白なオッパイがやたらと目に浮かんでくるのだった。

▲テヘランからパキスタン国境のザヒダンへ

テヘランの町を一歩、出て、南に向かうと、一望千里の大砂漠が広がっている。乾いた熱風が吹き荒れ、風にのって砂が舞う。気温はグングン上がる。日差しは強烈で、のどの渇きが激しい。テヘランまでの寒さがウソのようだ。ハスラー50で切る風は乾ききっているので、あっというまに口びるが割れ、血がにじみ出てくる。痛くてどうしようもないのだが、その痛みを喜んでしまう。
「おー、これぞ、我が世界!」
イラン中央部の大半を占めるカビール砂漠からルート砂漠へとつづく大砂漠の西端に入ったのだ。イランの砂漠はパキスタンのバルチスタン砂漠、インド国境のタール砂漠、さらにはヒンズークッシュ山脈を越えた中国のタクラマカン砂漠、モンゴルのゴビ砂漠へとつづいている。砂漠の熱風に吹かれると、頭の中で、地球儀がクルクル回るのだった。

▲イランの長距離バス。テヘラン経由でイスタンブールまで行く

▲イランのバイクショップ。ここでオイル交換をしてもらった

▲イランの朝食。ナンとヨーグルト、紅茶。ナンにはバターとハニーをつける

▲イランの大砂漠、カビール砂漠を行く

バルチスタン砂漠横断

イランの古都イスファハンからはヤズッド、ケルマン、バムと砂漠のオアシスの町々を通り、国境の町ザヒダンへ。そこからパキスタンに入った。

▲パキスタン国境の町、ザヒダンまでやってきた

イランからパキスタンに入ると、いっぺんに道が悪くなる。「世界一周」最大の難関、バルチスタン砂漠越えが始まった。

広大な砂漠の中に、轍が一本、延びている。曲がりくねった岩山地帯を走り抜けていく。山肌にはまったく緑はない。風化した岩は割れて崩れ、岩の破片をばらまいたような道をガタガタガタ激しく振動させてハスラー50を走らせた。

岩山地帯を抜け、平原に入ると、今度は砂が深くなった。フカフカの砂に何度もスタックする。そのたびに両足で砂を蹴って進み、ソフトサンドの砂漠を突破する。強烈な暑さと砂との戦いに頭がクラクラし、目の前が黄色くなってくるほどだ。

国境から120キロのノックンディに着いたときはホッとした。食堂で昼食を食べる。ナンに肉汁、チャイ。ものすごいハエで、手で振り払いながら食べた。振り払う手をすこしでも休めると、肉汁はたちまち群がるハエでまっ黒になってしまう。

▲パキスタンに入った。食堂でナン作りを見る

ノックンディを過ぎると、舗装路になった。とはいっても、車1台分ぐらいの幅の狭い道。路面は荒れ、穴ぼこだらけ。ダートよりも、かえって走りにくい。
「ガターン!」
と、穴ぼこに車輪を落としたときの衝撃は激しく、思わずハスラー50に「ゴメン」と謝るほどだった。

大砂丘群が見えてくる。はてしなくつづく砂丘。砂丘の風景を見ると、たまらない気持ちになる。道を外れ、砂丘の下まで行くとハスラー50を止め、砂丘を登った。高さは100メートル以上ある大きな砂丘。垂直に切り立った砂の壁を這いつくばって登り、砂丘のてっぺんに立ち、見渡す限りの大砂丘群を一望するのだった。

▲バルチスタン砂漠を越えてクエッタまで行くバス

▲バルチスタン砂漠横断ルートを行く

▲バルチスタン砂漠の砂丘群

▲クエッタからカラチまで行くバス

▲バルチスタン砂漠を越えて、クエッタの町に到着

▲荷物を積んだラクダが行く

バルチスタン砂漠を越え、クエッタからカラチに出た。猛烈な暑さ。カラチから北上し、ラホールからインドに入った。

▲パキスタン最大の都市、カラチに到着

▲カラチから北上。世界の大河、インダス川を渡る

▲パキスタン北部のラホールの町を歩く

インドの国道1号→2号を行く

「インド横断」の開始だ。パキスタン国境から国道1号で首都のニューデリーへ。つづいて国道2号で「世界一周」のゴール、カルカッタを目指す。頑張れ、ハスラー50!

▲パキスタンからインドに入った。デリーまで490キロ

▲インドの首都ニューデリーに到着

▲ニューデリーから国道2号でカルカッタを目指す

通りすぎていく町々では、すさまじい雑踏にもみくちゃにされた。町中でハスラー50を止めると、たちまち黒山の人だかりになる。チャイを飲んだり、サモサ(インド風揚げパン)を食べたりするぼくの一挙手一投足に大勢の人たちの視線が注がれる。それはまるで、動物園でバナナを食べるチンパンジーか何かを見るような目つきだ。

町中の雑踏もさることながら、国道1号、国道2号のインド版東海道の雑踏のすさまじさは筆舌に尽くしがたい。バスやトラック、乗用車などの車と一緒に通る牛車、馬車、水牛車、ロバ車、ラクダ車、荷物運搬用のゾウ、人力車、自転車をかきわけかきわけしながらハスラー50を走らせるのだ。

▲国道2号沿いの食堂でチャパティ作りを見る

▲国道2号を行く象。道路脇で一休み

▲ヒンドスタン平原に立つ!

▲インドの町の雑踏。この雑踏をかきわけてハスラー50を走らせる

▲カルカッタまであと67キロ

動きのピタッと止まった大渋滞になると、後のトラックやバスは「ピーピーブーブー」と、クラクションを鳴らす。日本だったら、“クラクション殺人事件"になりかねないところだが、インド人はこのくらいのクラクションでは誰も何とも思わない。このような大渋滞の中、どの車も右側通行なのか、左側通行なのかわからないような左右に入り乱れた走り方をする。

カルカッタへの入口は、いかにもインドらしい大渋滞。1キロも2キロも渋滞がつづく。何百台ものバスやトラックが数珠つなぎになってぴたっと止まったまま動かない。てっきり事故渋滞だろうと思ったら、そうではなく、自然渋滞なのだ。それもインド風の自然渋滞だった。

▲大渋滞の国道2号。延々とつづく車列をすり抜けていく

原因は渋滞にしびれを切らしたカルカッタに向かうバスやトラックのドライバーたちが左側通行なのに、右側の車線を走ってしまうからだ。その結果がどうなるのか、子供でもわかりそうなものなのだが…。

当然、対向車と鉢合わせになる。同じことをカルカッタから出てくるバスやトラックもやるので、両方向ともまったく身動きがとれず、にっちもさっちもいかない大渋滞になる。これが「ニューデリー→カルカッタ」間のインド第一の幹線、国道2号線なのだ。

そんな大渋滞をすり抜け、フグリー川にかかる橋を渡り、1990年11月12日、カルカッタに到着した。ハスラーのメーターは4万3792キロを指している。「日本一周」にひきつづいての「世界一周」の距離。「ロサンゼルス→カルカッタ」の「世界一周」に限れば、2万4791キロになる。

▲フグリー川を渡る。この川を渡るとカルカッタ

アメリカ・ネバダの灼熱の砂漠で焼かれ、ロッキー山脈の3000メートル級の峠をあえぎあえぎ登り、北ヨーロッパの大平原で寒風に吹きさらされ、トルコの山岳地帯で氷点下の寒さに凍りつき、西アジアのはてしなく広がる砂漠で砂まみれになり、最後は地平線のはてまでもつづくヒンドスタン平原を走りきってのカルカッタに到着だ。
「ハスラー50よ、ここがカルカッタだ。ほんとうによくやった!」

▲「世界一周」のゴール、カルカッタに到着!

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