前回:「ハスラー50での世界一周」(1990年)第1回目

【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】

国境の「ノーブラ美人」

ニューヨークからロンドンに飛び、「世界一周」の舞台をアメリカからヨーロッパに移した。ハスラー50はエアーカーゴで送った。ロンドンからイスタンブールまで走ったヨーロッパで一番印象深かったのは、オーストリアの首都ウィーンから入った東欧圏だ。

▲ロンドンのビクトリア駅前を出発

▲ドーバーに到着。フェリーでベルギーのオーステンデに渡る

▲ドーバー海峡のフェリーで

▲ベルギーのオーステンデの町

▲ベルギーのゲントの町。石畳とトラム(路面電車)は古い町の象徴

▲オランダの風車

▲オランダから西ドイツ(現ドイツ)に入る

▲ケルンへの道

▲ライン川の河畔で

▲スイスの牧場

東欧といえば“激動の"と決まり文句がつくほどで、1989年から90年にかけては激しく揺れ動き、現代史の流れを大きく変えた。

ウィーンのチェコ大使館でビザを取ると、チェコ国境に向けて出発。西欧から東欧へ。ドナウ川を渡り、ゆるやかに波打つ丘陵地帯を走る。広々としたトウモロコシやジャガイモ畑が広がる。大型のハーベスターがジャガイモを収穫している。北海道の北見に似た風景。緯度も北緯47度ぐらいで、44度の北見地方とそう変わらない。

国境の小さな町に着いた。眠ったような静けさ。さすがにチェコ国境の町だけあって、チェコ特産のボヘミアングラスを売る店が目についた。だが、どの店にも客の姿はなく、ガラーンとしていた。40オーストリア・シリング(約560円)のコインが残っていたので、それを持ってレストランに入り、店の主人に「これで食べられるもの、お願いします」と、頼んだ。するとビーフシチューにパンを出してくれた。うまかった。食べ終わると、いよいよ、国境通過。東欧圏に入るということで緊張した。

▲アルベルグ峠(オーストリア)の売店のお姉さん

オーストリア側はフリーパスだったが、チェコ側ではパスポートに入国スタンプを押され、そのあと銀行で100ドルの強制両替をさせられた。いやな気分で国境事務所内の銀行に行くと、なんと窓口の女性はすごい美人。さらにうれしいことには、胸もとの大きくあいた白いブラウスを着ていた。
それもノーブラだ。なんということ。書類を書き込む彼女の姿をぼくは見下ろすような格好で立っているので、胸がまる見えになってしまう。「東欧って、最高!」と、チェコの国境で「ノーブラ美人」に出会っただけで、すっかり東欧が気に入った。

▲チェコに入る。首都のプラハまで117キロ

“ミツビシ・モーターズ”の旗

チェコから東ドイツ(現ドイツ)に入国したのは、9月11日。第2次世界大戦後の最大級の出来事といってもいい、歴史的な東西ドイツの統合を目前にした時期だった。ビザがどうなっているのか、よくわからなかったが、「国境で取れるよ」といった情報を頼りに、国境までやってきた。だが驚いたことに、国境でのチェックはまったくなく、ビザも不要。フリーパスでの東ドイツ入国となった。

▲東ドイツ(現ドイツ)のドレスデン。中央駅前には「バーガーキング」の横断幕と移動販売車。多くの人たちが並んでいる。時代が変わった!

東西ドイツは、それよりも2ヵ月ほど前の7月1日に、通貨統合を成しとげた。実際には強い西ドイツマルクが、弱い東ドイツマルクを飲み込んだ統合だ。“お金の力"はすごいと思うのだが、通貨統合の時点で、すでに東西ドイツは統一されたも同然だった。

東ドイツに入国してすぐに目についたのは、街道沿いの農家の庭先でパタパタと風にはためく“ミツビシ・モーターズ"と白地に赤く染め抜いた旗だった。そこには2、3台のミツビシの新車が置かれていた。ごく近い将来にミツビシの販売店になるのだろう。それにしても、日本のメーカーの対応はすばやい。通貨統合からわずか2ヵ月たっただけなのに、トヨタ、ニッサン、ホンダ、マツダの日本車は、フォルクスワーゲン、BMW、ベンツ、オペルといった西ドイツ車とともに走っていた。

東ドイツ製の車はトランバントだが、日本車や西ドイツ車と比べると、それはあまりにもみすぼらしい。バタバタとうるさい音をたてて走り、坂道にさしかかると、黒い排気煙を巻き上げ、スピードはガクッと落ちてしまう。ハスラー50に追い抜かれてしまうような車なのだ。そのようなトラバントを手に入れるのに、東ドイツの国民は2年も3年も、辛抱強く待たなくてはならなかった。

東ドイツのトラバントを見ると、1989年から90年にかけての東欧諸国の旧体制の崩壊は、共産主義・社会主義VS資本主義といったイデオロギーの問題ではなく、「国境の向こうでみんなが乗っているあの車が欲しい、国境の向こうの人たちが見ているあのテレビが欲しい!」といった程度の問題でしかないと、そう思ってしまうのだ。

企業間の競争原理を忘れた計画経済の東欧では、技術力が著しく低下してしまった。それはそうだろう、国民は子供のオモチャのようなトラバントを2年も、3年も待って買ってくれるのだから。そのため1970年代、80年代と、この20年あまりの間で、日本や西ドイツ(現ドイツ)などの西側世界との間で、決定的な差をつけられてしまった。東西間のあまりにも大きくなったギャップこそが、今回の東欧大激変の大きな要因になったと、ぼくは確信するのだった。
1990年の音を聞いた!

東西ドイツの統一を目前にしたベルリンの町に入っていく。もうすでに東ベルリンも西ベルリンもなかった。東から西へ、西から東へと、誰もが自由に行き来できた。だが、東西ベルリンの違いははっきりしていた。

▲ベルリンに到着

西側世界のショーウインドのような西ベルリンの町並みは明るく華やかで、物があふれていた。シェルやBP、エッソ、モービルといった大手石油資本のガソリン・スタンドがやたらと目についた。それがいったん東ベルリンに入ると、町並みは光を失い、くすんだ灰色に変わる。ガソリン・スタンドは数が少ないので、みつけるのも大変だ。町を走っている車の大半は、東ドイツ製のトラバントなのである。

▲東ベルリンではずらりと並んだ東ドイツ製の「トラバント」を見る

ベルリンのシンボル、ブランデンブルク門に行き、世界中から集まってくる人たちを眺めた。このブランデンブルク門の東側、つまり東ベルリン側の一等地にヤマハのショールームができていた。

▲東ベルリンの一等地にオープンした「ヤマハ」のショールーム

ブランデンブルグ門の近くには、“ベルリンの壁"を越えようとして失敗し、命を落とした大勢の人たちの墓地があった。なんと、一番新しい墓標は1989年。もうすこし辛抱していれば…。なんとも冷酷な歴史の一断面だ。

ブランデンブルグ門から、チェックポイント・チャーリーへ。ここは外国人旅行者が、西ベルリンから東ベルリンへと通り抜けることのできた唯一の検問所。その周辺には、まだ一部に“ベルリンの壁"が残っていた。世界各地からやってきた旅行者が、ハンマーやバールで壁をブチ壊し、そのカケラを拾っている。ぼくもオーストラリアから来たという若者に鉄パイプを借りて、ベルリンの壁をブッたたいた。
「ガーン、ガーン」という音が、耳の奥底にこびりついた。

▲「ベルリンの壁」の前で

▲「ベルリンの壁」をたたき壊している

▲多くの人たちが「ベルリンの壁」を壊している。その前の露店では「ベルリンの壁」の石を売っている

▲「ベルリンの壁」に空いた穴

自由に往来できるようになったチェックポイント・チャーリーのすぐ近くには、「ベルリンの壁博物館」がある。1961年8月13日に築かれたこのベルリンの壁を東から西へと多くの人たちが命を賭けて越えようとした。改造した車のトランクにもぐり込んだり、手製の軽飛行機を飛ばしたり…と、そのようなベルリンの壁にまつわるドラマチックないろいろな物が展示されている。そして歴史的な1989年11月9日のベルリンの壁崩壊。展示されているその大きな写真を見ていると、胸には熱いものがこみあげてきた。

東西ベルリンをひと回りしたところで、ポーランド国境に向かう。ちょうどモスクワ方面に向かって引き揚げていくソ連(現ロシア)軍の大部隊のトラックと一緒になった。何百台という数えきれないほどのトラックが行進をつづけている。荷台に乗っている兵士たちに手を振ると、気軽に手を振り返してくれた。気の毒なのは、なんともスピードの出ないトラックで、後続車に次々に抜かれてしまう。ハスラー50にも追い抜かれる。

▲ベルリンからポーランド国境に向かう

▲ポーランドのガソリンスタンド。店の主人はコーヒーを入れてくれた

ソ連軍部隊のトラックは遅いだけでなく、しょっちゅう故障する。道端で立ち往生したトラックを何台見たことか。ボンネットをあけたトラック、まっ白な蒸気を吹き出しているトラック、タイヤがバーストしたトラック。兵士が油まみれになってトラックの下にもぐり込んで修理している光景をよく見かけた。

町に入ると、行進をつづけるソ連軍のトラックは、石畳の道を走り、「ガタガタガタ」と激しい振動音をあたりにまきちらす。その時、ぼくは思った。東ドイツに入ってすぐに聞いた“ミツビシ・モータース"の旗がたなびく「パタパタ」という音、ベルリンの壁を鉄パイプでブッたたいて壊した「ガーン、ガーン」という音、本国へと引き揚げていくソ連軍トラックの石畳を走る「ガタガタガタ」という音。これらの音はまさに「1990年の音」だと思った。

オーデル川を越えて

東ドイツからオーデル川を渡って、ポーランドに入った。
「それにしても近いな。近すぎる!」

▲ポーランドの首都ワルシャワに到着

ベルリンからポーランド国境までは、わずか70キロでしかない。その間は平原で、自然の障壁は何もない。オーデル川にしても川幅は200メートルほどで、多摩川を渡るようなものだ。オーデル川を渡ってしまえば、ポーランドの首都ワルシャワまでは大平原がつづく。その距離は500キロ。ドイツ軍の機動部隊ならば、ベルリンから2時間でオーデル川に達し、1日でワルシャワに到着できるという事実を肌で感じた。

東西ドイツの統一を不安に感じ、ほかのどの民族よりも恐れたのはポーランド人だ。
これでまた悪夢の再現か…と。
1939年9月1日、ドイツ軍の機動部隊はこの北ヨーロッパの平原を疾駆し、オーデル川を渡り、ポーランドに侵攻した。第2次世界大戦の幕が切って落とされ、ドイツ軍は電光石火の早業でポーランドの全土を占領した。

今はオーデル川とその支流ナイセ川の線、いわゆる「オーデル・ナイセ・ライン」で一応、国境線が確定されているが、このオーデル・ナイセ・ライン以東にドイツ人の住むシュレジエンがある。ここはドイツが主張するドイツ固有の領土なのだ。
「統一ドイツが領土問題を持ち出してくるときは危ない!」という話は、ポーランドでは何度となく聞いた。それを機に戦争になり、戦火がヨーロッパ全土に拡大する危険性をはらんでいるという。そうなれば第3次世界大戦の勃発だ。そんな国境のオーデル川から首都ワルシャワへ。ワルシャワからは南下し、オーストリアのウィーンに戻った。

ウィーンからさらに南へとハスラー50を走らせる。
ハンガリーのブダペスト、ユーゴスラビア(現セルビア)のベオグラード、ギリシャのアテネを通ってトルコのイスタンブールへ。欧亜の接点のイスタンブールに着いたのは、ロンドンを発ってから42日目の10月7日。8266キロの「ロンドン→イスタンブール」だった。

▲ハンガリーの首都ブダペスト。ドナウ川の河畔で

▲ハンガリーで泊まった宿。レストランのメニューは10ヵ国語

▲ヨーロッパの国境をまたいで走る「TIR」のトラック軍団

▲ユーゴスラビア(現セルビア)の首都ベオグラードを流れるドナウ川

▲ギリシャのメテオラの奇岩

▲イスタンブールに到着!

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