前回:SX200Rで「サハラ砂漠縦断」(1987年~1988年)第4回目
【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】
1988年3月3日、地中海の港町オランを出発。イスラム教寺院のモスクからコーランが流れてくる。北アフリカはイスラム教圏。イスラム教徒は1日5回、東のメッカに向かって礼拝する。
オランからは地中海に沿って東に走り、アルジェリアの首都アルジェを目指す。3月初旬の地中海沿岸はまだ寒い。あるもの全部を着込み、フル装備で相棒のスズキSX200Rのハンドルを握り、走らせた。オランは東京とほぼ同じ、北緯36度に位置している。 地中海の沿岸は広々とした牧草地。小麦畑やブドウ園、オリーブ園も見る。どこを見ても緑、緑で一木一草もないサハラ砂漠とは別世界だ。
アルジェを歩く
オランから450キロ走ってアルジェに到着。往路編の「サハラ砂漠縦断」の時には、アルジェの町はほとんど歩けなかったので、今回は3日、滞在した。その間、泊まった安宿でSX200Rをあずかってもらい、徹底的にアルジェの町を歩いた。
ぼくがひかれたのはカスバだ。ここには下町の雰囲気が濃く残っている。足がガクガクするような急な石段を上り下りし、「このまま、もう二度と抜け出せなくなってしまうのでは…」と不安になるような迷路を歩きまわった。
目抜き通りのカスバ銀座は、肩と肩がぶつかるほどの人混み。その両側にはチマチマした店が並んでいる。肉屋の店先には羊の頭がぶら下がっている。鶏肉屋の店先には頭のついたままのニワトリがぶら下がっている。果物屋の店先からはオレンジの香りが漂ってくる。広場では子供たちが夢中になってボールを追っている。広場のカフェに入ると、甘ったるいコーヒーを飲みながら、そんな子供たちの姿を眺めた。
カスバの市場はカラフルだ。野菜売場にはニンジンやトマト、ジャガイモ、インゲン、カブ、カリフラワーなどがていねいに並べられ、色鮮やかな風景になっている。一幅の絵画を見るかのようだ。
カスバの食堂ではクスクスを食べた。ひき割りにした麦を蒸し、その上に肉や野菜の入った汁をかけたもので、アルジェリアの主食のような食べ物だ。デザートのヨーグルトは美味。おいしいだけでなく、食べ終わると、体がスーッと楽になる。こうしてアルジェ滞在中は何度となくカスバに行くのだった。
大雪の峠越え
アルジェを出発し、地中海の沿岸に連なる海岸山脈に入っていく。天気は崩れ、雨が降り出した。やがて雨は雪に変わった。ボソボソ降ってくる。大雪の様相だ。あまりの寒さに我慢できず、街道沿いのカフェに逃げ込んだ。ストーブにかじりつきながらサンドイッチを食べた。
カフェでひと息入れ、体をあたためると、海岸山脈を斧でブチ割ったような大峡谷を越える。気温は0度を割っている。降りつづく雪はゴーグルにこびりつくので、雪を払いのけながら走る。すぐに視界が悪くなってしまうので裸眼になると、ブスブスと雪が目の中に突き刺さってくる。
降りつづく雪の中では1キロを走るのもらくではない。熱砂のサハラを越えたあとで、このような大雪にあうとは…。
「もうダメだ!」と、今度は食堂に飛び込む。
手はかじかみ、まったく指が動かない。食堂の主人はぼくの手にすこしづつ、湯をかけてくれた。手があたたまるにつれて、「ギャーッ」と、叫び声をあげたくなるほどの痛みが体の中を突き抜けていく。
指が動くようになったところで、やっとヘルメットを脱ぐことができた。そのあと、しばらくはストーブにかじりついていた。体が元に戻ったところで昼食のクスクスを食べたのだ。
「よーし!」
食堂の主人にお礼を言って、意を決して雪の中を走り出す。
標高1400メートルほどの峠を越える。積雪は30~40センチ。まさに春の大雪だ。峠道では何台もの車が立ち往生していた。地中海の港町、ベジャイアに向かって下っていくと、雪は雨に変わった。ベジャイアの町に着いた時はSX200Rに乗りながら、「助かった~!」と声を上げた。
ひと晩ベジャイアに泊まり、翌日、アルジェリア東部の中心都市コンスタンチーヌへ。この日も、まったく同じパターンで、雪との戦いの連続。ベジャイアを出たときは雨だったが、海岸山脈に入ると雪に変わった。雪、雪、雪…。もう泣けてくる。しかし、ついに雪との際限のない戦いに打ち勝ち、降雪地帯を突破、コンスタンチーヌに到着した。
アフリカ大陸最北端の岬
アルジェリア東部の中心都市コンスタンチーヌから地中海の港町アンナバを通り、チュニジアに入った。国境の町タバルカの地中海の砂浜で昼食にする。ザックの中に残っているアルジェリアのパンとチーズをかじり、水筒に残っているアルジェリアの水を飲んだ。
その夜は「アフリカ最北の町」ピゼルトに泊まり、翌日、「アフリカ大陸最北端の岬」ブラン岬に行く。ピゼルトからブラン岬までは10キロほど。青空を映した地中海は、底抜けに明るい。海岸には何軒かのリゾートホテルが建っていた。
軍の施設(レーダーサイト)を過ぎると、「カプ・ブラン」(白い岬)の名前通り、白っぽい岩山が地中海に落ち込んでいるブラン岬が見えてきた。感動の瞬間だ。
日本だったら宗谷岬や佐多岬のように観光地になるであろう「アフリカ大陸最北端の岬」には、観光施設は何もなく、訪れる人もいない。波が断崖にぶつかり、白く砕け散っている。
ブラン岬は北緯37度20分。
ぼくは「アフリカ大陸最南端の岬」アグラス岬にも立った。南アフリカのアグラス岬は南緯34度52分。さらに言えば、「アフリカ大陸最西端の岬」、西経17度33分のベルデ岬(セネガル)にも立った。残るのは「アフリカ大陸最東端の岬」、東経51度11分のグアルダフィ岬(ソマリア)だが、ここは行くのが難しい。しかしいつの日か、グアルダフィ岬にも立って、「アフリカ大陸の4極」を極めたい。
ブラン岬からピゼルトに戻ると、70キロ南の首都チュニスへ。アルジェから1000キロ走っての到着だ。
チュニスからシチリア島(イタリア)のタラパニ港にフェリーで渡るつもりにしていた。このフェリーは週1便で、チュニスに着いた日に出たという。ということでチュニスで1週間、待たなくてはならなかった。
さっそくホテルを探す。中心街に「ホテル・リパブリック」という1泊2ディナール(約350円)の安宿をみつけた。SX200Rは物置がわりに使っている部屋に置かせてもらい、アルジェの時と同じようにチュニスの町を歩いた。電車に乗って、チュニスの郊外にあるカルタゴ遺跡にも行った。カルタゴは古代フェニキア人の植民都市。地中海貿易の拠点として繁栄を謳歌したが、ローマ帝国に滅ぼされてしまう。
3月16日、チュニスの食堂でショルバ(スープ)とクスクスを食べ、チュニスの中心街から10キロほどのラ・グレッテ港に行く。ここからタラパニ港行きのフェリーが出る。16時、タラパニ港からやって来た「ベルガ号」が到着。フェリーはナポリ船籍で、真っ白な船体に青いストライプが入っている。18時に出国手続きを終え、「ベルガ号」に乗船。甲板に上がる。暮れゆく地中海に町明かりが映っていた。20時、定刻通りに出港。「ベルガ号」は汽笛を鳴らすと静かに岸壁を離れ、すっかり暗くなった地中海に出ていった。無我夢中で駆け抜けたサハラ砂漠が、自分の掌からポロリとこぼれ落ちていくような気分を味わった。
SX200Rよ、エッフェル塔だ!
翌朝、夜明けととも目覚めると、甲板に上がった。シチリア島の山々が見えている。タラパニの町並みも見える。
「イタリアだ!」
アフリカからヨーロッパへ、世界が変わった。
6時、「ベルガ号」はタラパニ港に到着。チュニスから22時間の船旅。タラパニ港に上陸すると、パリを目指して出発する。3000キロあまりの距離だ。
シチリア島最大の都市パレルモを通り、メッシナ海峡を渡ってイタリア本土へ。パリを目指してイタリア半島を北上する。
途中、ポンペイの遺跡を歩き、ローマの旧市街をひとまわりし、ピサでは有名な斜塔を見た。イタリア北部のジェノバからは高速道路のアウトストラーダを走る。
イタリアからフランスに入ると、そのまま高速道路(オートルート)を走りつづける。ニース、マルセイユ、リヨンと通り、宿泊はオートルートのサービスエリア内のホテル。 パリを出発してから118日目の1988年3月22日、パリに到着した。出発した時とは逆のコースで、環状線から凱旋門へ。そこからシャンゼリゼ通りを走り、セーヌ川を渡り、エッフェル塔の下でSX200Rを止めた。
「SX200Rよ、エッフェル塔だ!」
全行程2万2504キロの「サハラ砂漠往復縦断」。SX200Rは2本のサハラ砂漠縦断路を走りきってくれた。ありがとう、SX200Rよ!
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