前回:SX200Rで「サハラ砂漠縦断」(1987年~1988年)第1回目

【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】

▲相棒のSX200Rを止め、サハラの砂と戯れるカソリ

やった~! ボルジュモクタールに到着だ!!

1987年12月13日。アルジェリア最奥のオアシス、レガンを出発。町を一歩出ると、前方には地平線のはてまでも、砂の海が広がっている。見渡す限りの砂、砂、砂…。砂の海の遥かかなたわだちがまで延びている。これがサハラ砂漠縦断路だ。

▲サハラ砂漠最奥のオアシス、レガンからサハラ砂漠縦断路を南下する

ルートを見失わないように、砂の海に延びるピスト(轍)をフォローしていく。スズキSX200Rの満タンにした35リッター・タンクのずっしりとした重さが、ハンドルに伝わってくる。バックミラーに映るレガンの町並みは遠くなり、やがて見えなくなった。
レガンを出てから100キロほどは砂が深かったがスタックすることもなく、最悪の場合でもギアをローまで落とし、両足で砂を蹴りながら走りディープサンドを乗りきった。

砂の深い区間は、それほど長くはつづかない。5、60メートルから100メートルくらいで、長くても500メートルといったところ。そのような砂の深い区間の手前では、ルートをよくみきわめ、アクセルを全開にして、高速のギアで突っ込んでいく。
砂の上を高速でなめていくような走り方で、一気にディープサンドの区間をクリアーするのだ。

▲サハラ砂漠縦断路で大型のタンクローリーとすれ違う。交通量は3日で1台

日が高くなってからのサハラの暑さは強烈。地表のもの、すべてを焼きつくすような時間帯(午後1時から2時ぐらい)にはSX200Rを止め、バイクのつくりだすわずかな日陰に頭だけ突っ込んで横になる。極端に乾いたサハラでは、こうして頭だけでも直射日光を避けると、ずいぶん楽だ。その間に、2、30分ほどの昼寝をする。

サハラのこの一帯のタネズロフ砂漠は真っ平だ。行けども行けども、前方には地平線が見えている。360度の地平線に囲まれ、その中心に、いつも自分がいる。

夕日が地平線に近づくころ、SX200Rを止める。そのわきにシートを広げると、一夜のサハラの宿ができあがる。そこにシュラフを敷く。ブーツを脱ぎ、シュラフの上に座り、地平線に落ちていく夕日を眺めながらの夕食だ。パンにチーズをはさんでかじり、生のタマネギとニンジンをサラダがわりにする。
デザートにデーツを3、4個、食べる。日本の干し柿に似たデーツの甘味が、砂道の走行で疲れた体をいやしてくれる。そんな夕食を食べおわったあと、のどを湿らす程度に水を飲む。

▲サハラ砂漠縦断路の道標。夜は灯台のように明かりが灯る

▲ここがサハラの一夜の宿になる。テントなしの野宿だ

日が沈み、暗くなると、急速に気温が下がってくる。テントなしの野宿なので、あるもの全部を着込んでシュラフにもぐり込む。

すごい星空だ。ザラザラ音をたてて降ってきそうだ。びっしりと星で埋めつくされた天ノ川は、まるでほんものの川が流れているかのようだ。地平線の上にまで星がのっている。手を伸ばせば、その地平線上の星に手が届きそうだ。
そんな星空をスーッと尾を引いて何個もの流れ星が流れていく。大きな流れ星が夜空をよぎると、まるで照明弾でも打ち上げたかのように、サハラはパーッと明るく照らしだされた。

一日の走行の疲れもあって、星空を見上げているうちに眠りに落ちる。しかし、辛いのはそのあとだ。寒さのために、何度も目がさめてしまう。地面からジンジン伝わってくる冷気で、体の地面に接する部分は氷のように冷たくなっている。そこで寝返りを打って姿勢を変え、また眠る。
手足がとくに冷たくなるので、手にはグローブ、足には厚手のソックスという格好で寝るのだが、そのような涙ぐましい努力をしても夜間のサハラの寒さにはかなわない。

真夜中に目をさましたときの恐怖感も耐えがたいものだ。まったく、よその世界と隔絶されたかのような静けさ。あたりはシーンと静まりかえり、もの音ひとつしない。あまりの静けさに、いいようのない恐怖感を感じ、「ウォー!」と、大声を張り上げる。
自分の声の音を聞き、すこし安心してからまた眠るのである。

翌朝は夜明けと同時に出発。ボルジュモクタールを目指し、サハラ縦断路をただひたすらに南下していく。乾燥の極にあるサハラでは、皮膚は水分を失ってカサカサになる。口びるは割れ、血がにじみ出る。手の甲にはヒビが切れ、グローブとすれるたびに悲鳴をあげる。手の指の関節にはアカギレが切れ、パックリと口をあけている。そんな痛みに耐えながらSX200Rを走らせるのだ。

▲サハラ砂漠縦断路は桁外れの道幅。どこでも走れる。道幅はキロ単位!

▲今日も一日、地平線を目指して走りつづける

レガンを出てから3日目、ついにボルジュモクタールに到着した。町の手前、40キロほどの地点に、人の背丈ほどの木がポツンと1本、はえていた。それが「レガン→ボルジュモクタール」間で見た唯一の緑。タネズロフ砂漠は一木一草もない世界た。

▲レガンを出てから3日目、ボルジュモクタールに到着だ!

ボルジュモクタールに着いたときのうれしさといったらなかった。さっそく食堂に飛び込み、まずは水がめの冷たい水を何杯も飲んだ。そのあとパンと豆汁を食べた。豆汁の塩けがなんともいえずにうまかった。

食事を終えると、ガソリンスタンドで給油する。SX200Rの35リッタータンクには28リッター入った。まだ7リッター残っている。燃費もリッター22キロと、まずまずの結果だ。ぼくの体の燃費はといえば、4リッター持った水のうち、2リッターの水筒の半分を飲んだだけで、2リッターの水を残した。

日仏サハラ縦断隊

ボルジュモクタールではプジョーでサハラ砂漠を縦断中の2人のフランス人に会った。1人はピエール、もう1人はミッシェル。彼らはサハラ縦断のプロなのだ。

▲ボルジュモクタールからは2人のフランス人と一緒に走る

というのは、フランス国内でプジョーの中古車を買い、スペアタイアと食料、水といった程度の軽装備でサハラ砂漠を縦断し、マリやニジェールなど、西アフリカの国々でそれを売っているからだ。西アフリカの国々はどこも外貨事情が悪い。そのため新車の輸入は制限され、また高額の関税がかけられているので、彼らのような商売が成り立つのだ。

ミッシェルは今回が44回目のサハラ縦断。プロに転向してまもないピエールにしても、今回が11回目のサハラ縦断だ。コンピューター会社のプログラマーだったというピエールは、仕事に嫌気がさし、会社を辞めた。そのあと奥さんとも離婚し、サハラ縦断のプロに転向したという。
「世界中どこを探しても、こんなにエキサイティングな仕事はない。ロマンとアバンチュール(冒険)に満ちあふれたこの仕事は、一度やったら、もうやめられないよ」

▲ピーター(手前)とミッシェル。サハラ縦断のフランス人ライダーとも出会う

奇しくも、3人とも1947年生まれ。
「花の47年組だ!」
と、ぼくたちはすっかり意気投合し、ボルジュモクタールからマリのガオまでの670キロを一緒に走ることにした。

でっぷり肥ったミッシェルはまったく英語を話せないが、小柄なピエールは英語が上手。そこでミッシェルはそのまま「ミッシェル」と呼び、ピエールは英語の「ピーター」で呼ぶことにした。ぼくはといえば「タカシ」はきわめて発音しにくいので、「ターキー」にする。

ぼくのフランス語はカタコト語なので、ピーターとは英語で話し、ミッシェルとはカタコトのフランス語+ジェスチャーか、もしくはピーターに通訳してもらって話した。こうしてターキーとピーター、ミッシェルの、即席の「日仏サハラ縦断隊」が誕生した。

ボルジュモクタールの町はずれの国境事務所で出国手続きをし、「日仏サハラ縦断隊」の出発だ。ホーンを2度、3度と鳴らし、一望千里の砂の海に突入していく。

ミッシェルのプジョー504は程度がよかった。ところがピーターのプジョー204は1967年製。よくぞこの車でサハラを越えようという気になるものと感心してしまう。ピーターにいわせると、この1967年製でも、けっこうな値段で売れるという。

2人の砂道でのドライビング・テクニックには驚かされる。2人とも砂にスタックしたときに使う鉄製のサンドマットを持っていない。というより2人には、サンドマットは必要なかった。ディープサンドでのルートの選択がきわめて的確で、その手前で100キロ以上の速度に上げると、あとは飛ぶようにして砂の海を一気に突っ切ってしまう。

「もし、パリ・ダカに出たら、俺たちは上位入賞は間違いないね」と言うミッシェルとピーターだ。
マリに入り、日が落ちたところで野宿する。SX200Rと2台のプジョーを止め、キャンピングガスで料理する。ぼくは自炊道具は一切持っていないので、ミッシェル、ピーターの2人に全面的にご馳走になる。

フライパンで目玉焼きをつくり、スープをつくり、かんづめのソーセージ入の「カスリ」をゆで、パンにフランス産のハムをはさむ。

食事の用意ができたところで、ワインの栓を抜く。なんとそのワインは「ボージョレー・ヌーボー」だ。ミッシェルはサハラで飲むために、ボージョレー・ヌーボーを買い込み、ここまで持ってきた。ボージョレー・ヌーボーで乾杯。新酒特有のすこし角のあるような、それでいて軽い、さわやかな味覚が口の中いっぱいに広がっていく。
「カスリ」はフランス人の大好きな煮豆料理。ピーターは「カソリがカスリを食べた!」といって大喜びだ。

サハラの星空のもとでの夕食はなんとも優雅なものだった。食後のデザートは、フランス産の何種ものチーズ。そのあとでコーヒーを飲みながら話した。やり玉にあがったのは、未だに独身のミッシェルだ。彼がフランス人やアフリカ人のガールフレンドの写真を見せびらかすと、ピーターはすかさず冷やかした。
「ミッシェルはママと一緒に住んでいるんだ。ガールフレンドよりも、ママの方がズーッといいんだって」
ピーターも今は独身だが、「女よりサハラの方がよっぽどいい!」と言う。

翌日、ボルジュモクタールから160キロ南のテッサリットに到着。アラブ人からアフリカ人へと変わる。国境の役人たちは、すべてがアフリカ人。肌の黒さと歯の白さ、陽気な笑顔が印象的。同じアフリカ大陸でもアラブ世界からアフリカ世界に変わった。

入国手続きがすむと、町の食堂に行く。すると電気冷蔵庫があるではないか。日干しレンガに草屋根の家と電気冷蔵庫のアンバランスな取り合わせがおもしろい。冷蔵庫の中には冷えたコーラやジュース、ビールがあった。

▲日干しレンガをつくっている

テッサリットから南下するにつれて草木の緑がどんどん増えていく。ラクダやヤギ、ヒツジの群れをひきつれた遊牧民のトアレグ族を見るようになる。

ボルジュモクタールを出てから3日目、ミッシェル、ピーターと抜きつ抜かれつしながら、ニジェール川の河畔の町、ガオに着いた。サハラ砂漠の玄関口の町。地中海のアルジェからちょうど3000キロ。ガオでミッシェル、ピーターと別れた。

▲ボルジュモクタールを出てから3日目にガオに到着。ここで2人のフランス人と別れる

▲アフリカの大河、ニジェール川の流れ

▲ニジェール川のフェリー。ラクダも次々に乗ってくる

サバンナの村

ガオからマリの首都バマコへ。バマコからギニア湾を目指して南下する。

▲バオバブの木の下で

▲マリの首都バマコの市場を歩く

バマコから100キロほど南のザンブグーという村でひと晩、泊めてもらったが、なんとも居心地のいい村で、そのまま1週間ほど滞在させてもらった。

ザンブグーはサバンナの村。サバンナ地帯とは、1年が雨期と乾期にはっきりと分かれている気候帯。ぼくが訪れた12月から1月にかけては乾期の最中で、1滴の雨も降らない。この村での主食は「サンヨー」と呼ぶ棒状の穂をした雑穀。雑穀の収穫を終えてまもない時期なので、どの家の穀物倉にも、雑穀の穂がぎっしりと詰まっている。

雑穀の脱穀は男たちの仕事だ。男たちは細い、枝つきの木を切り、枝の方を手に持って雑穀をたたき、穂から穀粒を落とす。

▲ザンブグー村の脱穀。これは男の仕事

脱穀が終わると、女たちはそれを集め、ヒョウタンの器に入れ、目の高さぐらいの位置から落とす。風の力で殻やゴミなどは飛び散り、重い雑穀の粒だけが真下に落ちる。このあと雑穀は穀物倉に入れられるが、トウモロコシや豆類を入れる倉もある。
家のまわりにいくつもの穀物倉のある風景が、アフリカのサバンナの村を象徴している。

▲ザンブグー村の風選。これは女の仕事

▲井戸から水をくんで家畜に飲ませる。これは子供の仕事

雑穀の食べ方だが、木の臼に粒を入れ、握りの部分がくびれている竪杵で搗き、雑穀の粒を覆う固い皮を落とし、精白する。そのときに出る糠は、ヒツジやヤギの餌になる。精白した粒をもう一度、木の臼で搗く。搗き砕いて荒い粉にし、それをフルイでふるい、さらに搗いてきめの細かい粉にするのだ。

▲村のあちこちで臼を搗いている

臼を搗くのは女の仕事になっている。「トントントン」と、女たちが汗を流しながら臼を搗く。こうして製粉を終えると、鍋で湯をわかす。沸騰してくると粉を入れる。ヘラでかきまぜ、練り固め、トーと呼ぶ餅ができあがる。

▲夕食の準備をしている

夕食にはホウロウの器に餅を盛り、別の器にナンと呼ぶ汁を入れ、それをみんなで囲んで食べる。食べ方は手づかみだ。餅をつまみ、手の中で丸め、団子にする。それを親指で押してへこみをつくり、汁をすくうようにして食べる。

汁にはすりつぶしてドロドロになった南京豆やシーラという木の葉を粉にしたもの、家まわりにはえている野草などが入っている。乾燥させたオクラを石臼ですった粉も入っているので、トロリとしたとろみがある。それに塩とシートゥルーという木の実からつくった油をいれて味つけしている。辛味をつけるために唐辛子を入れることもある。

日本でも「同じ釜の飯を食う」というように、アフリカ人と同じようにして同じものを食べていると、言葉の不自由さをおぎなってあまりあるほどに心を通い合わせることができるのだった。

▲ザンブグー村の家。どこも同じような家だ

▲ザンブグー村を離れる日、村人たちは井戸でSR200Rをきれいに洗い、ピカピカに磨いてくれた

「これがギニア湾の海だ!」

1988年の元日にザンブグー村を出発。マリからコートジボアールに入った。

▲ザンブグー村との別れ…

▲マリからコートジボアールに入った

ギニア湾を目指して南下するにつれて、風景はサバンナから熱帯雨林へと鮮やかに変わっていく。密林から伐り出された巨木を積んだシャシだけのトレーラーと、ひんぱんにすれ違う。

▲コートジボアールの熱帯雨林地帯を行く

密林を伐りはらって焼いた焼畑をあちこちで見る。そこではキャサバやタロイモ、ヤムイモ、バナナ、プランタイン、パパイア、パイナップル、オクラ、唐辛子、コーヒー、カカオなど、様々な熱帯の作物がつくられている。

▲密林を切り開いた焼畑

通りすぎていく熱帯雨林の村々をみて気のつくのは、サバンナの村とは違い、どこにも穀物倉がないことだ。一年中、高温で、なおかつ雨期、乾期の別なく雨の降る熱帯雨林地帯では、雑穀などの穀物をつくっていないからだ。

熱帯雨林の主食はキャッサバやヤムイモ、タロイモのイモ類と、プランタイン(料理用バナナ)だが、これらのイモ類とプランタインにはこれといった収穫期がない。畑に行けばいつでも収穫できる。熱帯雨林は畑が食料庫になっている世界なのだ。

それらイモ類とプランタインの食べ方はといえば、包丁でその皮を削りとり、鍋でゆで、木の臼で搗いて餅にする。その餅を汁につけて食べる食べ方は、サバンナの村での雑穀の食べ方とまったく同じ。これがアフリカの食文化なのだ。

▲街道沿いの市場

▲ひと晩、泊めてもらった熱帯雨林の村で

▲夕食のキャッサバ。右側の汁につけて食べる

1988年1月8日、地中海のアルジェから5176キロ走り、ギニア湾のサンペドロに着いた。

▲ギニア湾の海岸に出た!

「SX200Rよ、これがギニア湾の海だ!」

▲SX200Rよ、これがギニア湾の海だ!

サハラ砂漠縦断中の苦しいときは、いつもきまってギニア湾の浜辺に立つ日を思い浮かべ、難関を乗り越えてきた。その夢が今、現実のものになった。ブーツを脱ぎ、ソックスを脱ぎ、波打ちぎわに走っていく。寄せる波を手ですくい、顔を洗った。
「これがギニア湾の海だ!!」

「サハラ砂漠横断」はまだまだつづく。今度は別ルートでサハラを縦断。地中海を渡り、出発点のパリに戻るのだ。

この記事にいいねする


コメント一覧
  1. より:

    これぞロマンの冒険って感じがして思わず引き込まれる記事でした
    素敵だなあ

コメントをもっと見る
コメントを残す