
【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】
「東北一周」の第5日目。午前4時30分、青森駅前を出発。国道280号の旧道で津軽半島に入っていく。
青森から町つづきの油川でVストローム250を止めた。造り酒屋「西田酒造店」前に羽州街道と松前街道(奥州街道)の「合流之地」碑が建っているのだ。ここは東北の二大街道の奥州街道と羽州街道の合流地点。
東京から青森までの奥州街道はさらに津軽半島の三厩(みんまや)までつづいているが、青森から三厩までは松前街道と呼ばれている。
津軽半島といえば津軽で生まれ、津軽で育った太宰治が頭に浮かぶ…。
太宰治の名作『津軽』は「或るとしの春、私は、生まれてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかって一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであった」で始まる。津軽半島をまわるときは、太宰治の『津軽』を一読していくことをおすすめする。
国道280号の旧道で蓬田を通り蟹田へ。蟹田も『津軽』の重要な舞台で、太宰治の碑が建っている。蟹田港には下北半島の脇野沢港に行くむつ湾フェリーの「かもしか」が停泊している。「さー、モーニングコーヒーだ!」と、展望台の「トップマスト」を見上げながら自販機の缶コーヒーを飲んだ。
蟹田から平舘へ。松前街道の松並木を走り抜けると平舘岬に到着。そこには霧笛のついた灯台。海岸の松林内には平舘台場跡。対岸の下北半島が大きな島のように見える。
津軽海峡に出ると北海道が見えてくる。キャンプ場のある高野崎からは、右手に下北半島の大間崎、左手に津軽半島の龍飛崎を見る。正面には北海道の山並みが連なっている。
松前街道終点の三厩に到着すると、まずはJR津軽線の終着駅、三厩駅に行く。蟹田行きの2両編成の列車が停車していた。つづいて三厩魚港へ。漁港前には「松前街道終点」の碑が建っている。しかし松前街道は三厩が終点ではなく、さらに海路で蝦夷地の松前に通じているのだ。
「松前街道終点」の碑に隣りあって、「源義経渡道之地」碑が建っている。断崖上には義経寺がある。津軽海峡を渡った北海道・日高の平取には義経神社がある。義経はここでは「競馬の神様」になっている。東北でも北海道でも、義経・弁慶の主従は神として崇め奉られているが、これはいったいどういうことなのか。
平家を打ち破り、源氏に大勝利をもたらした源義経は兄頼朝の反感をかって都を追われた。義経は弁慶を従え、命がけで奥州・平泉に逃げ落ち、奥州の雄、藤原氏三代目の秀衡の庇護を受けた。しかし頼朝の義経追求の手は厳しさを増した。
秀衡の死後、その子泰衡は頼朝を恐れ、義経一家が居を構えていた北上川を見下ろす高館を急襲。弁慶は無数の矢を射られ、仁王立ちになって死んだ。義経は妻子とともに自害した。頼朝の平泉攻撃の3ヵ月前、文治5年(1189年)4月30日のことだった。
こうして悲劇の英雄、義経は、奥州・平泉の地で最期をとげたことになっている。だが、なんとも不思議なことに平泉以北の東北各地には、義経・弁慶の主従が北へ、北へと逃げのびていったという「義経北行伝説」の地が点々とつづいているのだ。
それは義経や弁慶をまつる神社や寺だったり、義経と弁慶が泊まったという民家だったり、義経と弁慶が入った風呂だったり…。その「義経北行伝説」の地を結んでいくと、1本のきれいな線になって北上山地を越え、三陸海岸から八戸、青森、そして津軽半島の三厩へとつづいている。
三厩には「義経北行伝説」の「厩石」がある。
蝦夷地を望むこの地までやってきた義経一行は、荒れ狂う津軽海峡に行く手を阻まれてしまった。そこで義経は海岸の奇岩の上に座って3日3晩、観音に海峡の波風を鎮めてくれるよう一心に祈願した。すると満願の暁に白髪の翁が現れ、「3頭の龍馬を与えよう。これに乗って海峡を渡るがよい」と言って消えた。岩から降りると、岩穴には3頭の龍馬が繋がれていた。海は鎮まり、波ひとつなかった。義経一行は3頭の龍馬に乗り、蝦夷地に渡ることができた。
それ以降、この奇岩を「厩石」、この地を「三厩」と呼ぶようになったという。
三厩までやって来るとこの地が街道の終点ではなく、さらに北へ、北へと延びていることがよくわかる。「義経北行伝説」はそれを証明しているようなものだ。三厩漁港の岸壁に立っていると、遙かな北の世界に胸を躍らせてしまう。
三厩から国道339号で龍飛へ。青森からの国道280号は龍飛が終点ではなく、津軽海峡を渡り、福島から国道228号との重複国道となって函館が終点になる。
三厩から国道339号で龍飛に向かっていくと、津軽海峡越しに北海道の山々を見る。6月も下旬になろうかというのに、まだ雪が残っている。
津軽半島最北端の龍飛に到着。龍飛の入口には太宰治の『津軽』の文学碑が建っている。それには次のような一文が彫り刻まれている。
「ここは、本州の袋小路だ。讀者も銘記せよ。諸君が北に向かって歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ濵街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すっぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く盡きるのである。」
▲龍飛の太宰治ゆかりの宿「奥谷旅館」。今は観光案内所になっている
ぼくが初めて龍飛崎に来たのは1978年。「30代編日本一周」の時で、そのときの龍飛はまさに太宰治のいう通りの袋小路だった。龍飛からは、来た道を戻るしかなかった。国道339号が全線開通し、日本海側の小泊に抜けられるようになったのは1984年のことである。
龍飛漁港から地つづきの帯島に渡る。「義経北行伝説」の伝わる小島で、弁天がまつられている。その先は大岩が手を広げるような形をして立ちふさがっている。帯島は龍飛漁港の天然の大防波堤になっている。
国道339号といえば、日本で唯一の階段国道。Vストローム250を止めると、階段国道を歩いて登った。高台上には、「津軽海峡冬景色」の歌謡碑が建っている。
“ごらんあれが 竜飛岬
北のはずれと
見知らぬ人が 指をさす
息でくもる 窓のガラス
ふいてみたけど
はるかにかすみ 見えるだけ…”
と彫り刻まれた歌碑の前に立ち、赤いボタンを押すと、石川さゆりの歌が流れてくる。 階段国道を登り降りして往復すると、今度はVストローム250を走らせ、自動車道で高台上の龍飛崎へ。真下に龍飛漁港と帯島を見下ろす。
▲龍飛崎から見下ろす龍飛漁港。津軽海峡の向こうに北海道を見る
駐車場にVストローム250を止めると、龍飛崎の突端へ。強い風に吹かれながら歩く。この一帯は海からの強い風が吹きつけるので、周囲の丘陵地帯には風力発電の風車が何基も見られる。白い灯台の前を通り、岬突端に立ち、海上自衛隊のレーダー基地を見る。レーダー基地越しの北海道を見る。龍飛崎から北海道最南端の白神岬までは19.5キロでしかない。
戦前まではここに旧日本海軍の望楼があった(2007年に撤去)。明治以前の文化5年(1808年)、弘前藩はこの地に台場を築き、狼煙台と砲台を設置した。龍飛崎は昔も今も、日本の北方警備の要衝の地になっている。
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