【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】
前回:賀曽利隆の「南米一周4万3402キロ」(1984年~1985年)第2回目
1985年1月11日、世界最南の町ウスワアイアを出発。「南米一周」の後半戦の開始だ。DR250Sを走らせ、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスを目指す。天気は崩れ、本降りの雨になる。氷のように冷たい雨。あまりの寒さに歯がカチカチ鳴ってくる。峠に達すると、雨は雪に変わった。DRに乗りながら考えることは、北の燦々と輝いているであろう真夏の太陽のことばかりだった。
▲驚きの旅人。フエゴ島からブエノスアイレスまで馬で行くという
マゼラン海峡をフェリーで渡り、ブエノスアイレスを目指して国道3号を北上。夕方、リオガジェゴスに着き、町中でDRを止めた。
「今晩はどうしようかな、もう少し走って、野宿でもしようか」などと考えながら地図を広げていると、通りがかりの人に声をかけられた。
「よかったら、家に来ないか。シャワーでも浴びて、泊まっていったらいい」
と、なんともありがたいことをいってくれる。
その人は軍人のモナレスさん。彼の言葉に甘え、家に行くと奥さんのスサーナ、4歳の長男クリスチャン、生後4ヵ月のヤミーリャの家族を紹介された。夕食をご馳走になり、食後はワインを飲みながら夫妻と話した。
若くてきれいなスサーナは、
「あなたの奥さんは、よく何ヵ月もの旅を許したわね。私だったら絶対に許さない!」
と、力を込めてそういうのだった。
国道3号を北上。南緯50度線を越え、南緯40度の世界に入ると、寒さは急速にやわらいだ。シエラグランデという、その地名どおりに大きな山の見える町に着くと、ガソリンスタンドの片すみで寝かせてもらった。シートを広げ、シュラフのみで寝る。寒さにやられなくなったかわりに、今度はさんざん蚊にやられた。
シエラグランデから首都ブエノスアイレスまでの1300キロは一気走り。
7時に出発。天気は快晴。澄みきった青空が気持ちいい。日が高くなるにつれて気温が上がり、昼を過ぎると、あまりの暑さにもうグッタリ。つい何日か前までの寒さがウソのよう。冷たいコカコーラをたてつづけに2本、3本と飲んだ。
リオ・ネグロ(ネグロ川)を渡る。その名前(ネグロは黒いの意味)どおりで、黒い色をした流れだ。このリオ・ネグロと北のリオ・コロラド(コロラド川)の間は大平原。農業用水路を何本も渡る。地平線の果てまでつづく小麦畑では、大型のコンバインが小麦を収穫している。牧場も見かける。牧草は青々している。家畜は羊から牛に変わった。まるまるとした肉牛だ。
リオ・ネグロから170キロでリオ・コロラドを渡る。リオ・コロラド(コロラドは赤いの意味)も名前どおりの川で、赤い流れをしている。黒川と赤川、なんともシンプルでいいではないか。
リオ・コロラドの河口がほぼ南緯40度。この川がパタゴニアと大平原パンパとの境で、川を渡ると緑が一段と濃くなった。
20時、平原に夕日が落ちる。北に来た分だけ、日没の時間が早くなる。
21時、バイアブランカでパンとハム、チーズ、トマト、タマネギを買い、サンドイッチにして食べた。
23時、給油。猛烈な睡魔に我慢できず、ガソリンスタンドで1時間、仮眠する。
3時、トレスアリョスの24時間営業のカフェでコーヒーを飲み、眠気をさます。
4時30分、東の空がほんのりと白みはじめてくる。うれしい夜明け。
6時、地平線に朝日が昇る。眠気は吹っ飛び、新たな力がよみがえってくる。
10時30分、ブエノスアイレスまであと100キロ。食堂で朝食兼昼食。
13時、ブエノスアイレスに到着。30時間かけて1300キロの一気走りだ。
ブエノスアイレスではターミナル駅のひとつ、オンセ駅に近い「ホテル・コーラル」という安宿に連泊した。トイレ、シャワーは共同だが、このホテルでありがたいのは中庭があることだ。そこにDRを止めておくことができた。
「ホテル・コーラル」は華僑の経営なのだが、オーナーの親戚だという台湾人の女子大生が休暇で来ていた。台南市に住む林美智(リン・メイチー)さん。彼女とはすっかり仲良くなり、「お昼にカレーライスをつくるから、一緒に食べましょう」といわれた。。
ホテルの中庭にイスとテーブルを出して彼女と向かいあって食べた。サラッとしたインド風カレーとトロッとした日本風カレーの中間ぐらいの台湾風カレーで、ご飯もパサパサのインド米とネバネバの日本米の中間ぐらいの粘りけだ。カレーライスを食べ終わると、メイチーはスイカを切ってくれた。
1985年1月17日、ブエノスアイレスを出発。アンデス山脈の峠を越えてチリの首都サンチャゴまで行き、そこからふたたびブエノスアイレスに戻ってくる。「ブエノスアイレス~サンチャゴ」の往復だ。
ブエノスアイレスを抜け出ると、パンパがはてしなく広がる。パンパはケチュア語で大草原の意味。ブエノスアイレスを中心とする半径数百キロほどの扇形のエリアで、その面積は日本の2倍以上にもなる。
パンパは桁外れの大平原だ。まるでローラーでならしたかのようにまっ平。パンパがいかに平かを証明しているのが、アンデス山脈から流れ出る何本もの川だ。どの川も水量が豊かなのにもかかわらず、1本として大西洋には届かない。パンパがあまりにも平なので、パンパの湖沼に流れ込んだり、パンパの地下にもぐり込んでしまう。それだからパンパは平なだけではなく、水の豊富なところでもある。
360度の地平線に囲まれたパンパを走っていると、地球が円板のように見えてくる。DRを止めると、円板の中心に自分が立っている。100キロ走っても、200キロ走っても前方に見えるのは地平線だけだ。
パンパは世界の穀倉地帯。小麦畑やトウモロコシ畑、大豆畑が地平線の果てまでつづく。夏のパンパはヒマワリの季節。それは見事な光景で、大平原はヒマワリ色、一色に塗りつぶされる。風が吹くと、黄色い大平原は波立つように揺れる。
ブエノスアイレスから800キロ走ると、前方にはアンデス山脈の山々が見えてくる。アンデス山麓は果物の一大産地でモモやスモモなどの果樹園が目につく。街道沿いではスイカやメロンを山積みにして売っている。厳しい暑さに疲れると、露店のスイカにかぶりつくのだった。
アンデス山麓のメンドサの町に到着。ここはワインの産地。町中のレストランで昼食にする。昨日もビフテキ、今日もビフテキ。ぶ厚い肉だ。それでいてやわらかい。あまりのボリュームにもてあまし気味になるが、残したくはないので必死の思いでビフテキをたいらげた。
▲メンドサの町でビフテキを食べる。昨日もビフテキ、今日もビフテキ
日本でこれだけのビフテキを食べたら大変な金額になるが、肉の安いアルゼンチンでは貧乏旅行者でも平気で食べられる。というよりも、ほかにこれといったメニューがないので、ビフテキを食べるしかないのだ。
メンドサからチリ国境へ。その途中で南米最高峰のアコンカグアを見る。標高6959メートルの堂々とした山の姿が目に残る。青空を背にした雪の輝きがまぶしい。コンドルがアンデスの空をゆうゆうと飛んでいる。
アンデス山脈の峠が両国の国境で、全長3キロの長いトンネルで貫かれている。標高3185メートルの地点がトンネルの入口で、トンネルを抜け出るとそこはチリだ。
チリの首都サンチャゴからは標高4765メートルのアグアネグラ峠を越えてアルゼンチンに入ろうとしたが、残念ながら大崩落で通行止。サンチャゴから往路と同じルートでアルゼンチンに入り、メンドサからはコルドバ、ロサリオ経由でブエノスアイレスに戻った。「ホテル・コーラル」に泊まったが、うれしいことにまだメイチーがいた。彼女は夕食に日本風の「のりまき」をつくってくれた。
1985年1月29日、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスを出発。ラプラタ川のブエノスアイレス港へ。何隻もの貨物船が停泊している岸壁に立つ。アマゾン川に次ぐ南米第2の大河、ラプラタ川は海のような広さ。対岸にはウルグアイのコロニア・デル・サクラメントの町になるが、目をこらしても何も見えない。一直線の水平線が広がっているだけだ。
アルゼンチンからウルグアイに入ると、風景が一変する。アルゼンチン側は行けども行けども、まっ平な平原。まさに「直線の世界」。それが国境のウルグアイ川を渡り、ウルグアイに入ると、緑の丘陵がゆるく波打つ「曲線の世界」に変わった。
日が暮れ、すっかり暗くなったころ、ラプラタ川河畔の町コロニア・デル・サクラメントに着いた。ブエノスアイレスの対岸だが、ここに来るまでに400キロ以上も走った。
ウルグアイの首都モンテビデオに到着。濃い緑に包まれたこじんまりとした町。ラプラタ川の河口に面しているが、対岸のアルゼンチン側はまったく見えない。ここでは到着早々、驚かされてしまった。目抜き通りを走っていると、日本製バイクに乗った若い警官に声をかけられた。なんと彼は町をぐるりとひとまわりし、ぼくを案内してくれた。警官に先導されてのモンテビデオ見物。最後には「ホテル・メリーランド」という安宿に連れていってくれた。
モンテビデオを出発。北に180キロ行ったドゥラスノという町に着くと、ガソリンスタンドで給油し、隣りのレストランで昼食にする。ビフテキを半分くらい食べたところで、突然、ハンディーマイクを持った若い女性がやってきた。地元ラジオ局のレポーターだという。ガソリンスタンドの人が連絡したのかもしれない。彼女はドキッとするくらいの美人レポーターだ。
「私は今、ルータ・シンコ(国道5号)沿いのセルビシオ・エスタシオン(ガソリンスタンド)に来ています。モトシクレッタ(バイク)で南米一周中のハポネス(日本人)、セニョール・カソリがここのレストランで食事中なので、ちょっとお話を聞いてみましょう。なお、セニョール・カソリはカスティリャーノ(スペイン語)はあまり話せません」
美人レポーターはそんなことをいうと、次々に質問をぶつけてくる。
「いつハポン(日本)を発ったのですか?」
「南米のどんな国を走ってきたのですか?」
「どんなモトシクレッタに乗っているのですか?」
「これからどこへ行くのですか?」
「ウルグアイにはどんな印象を持ちましたか?」
そんな質問にカタコトのスペイン語で答えていく。
「ウルグアイはとってもきれいで、安全な国だと思いました。ビフェ(肉)がうらやましいくらいに安いですね」
そう言うと、美人レポーターは手をたたいて喜んでくれた。
ラジオ局の美人レポーターが帰り、残りのステーキを食べていると、ボールペンと紙を持った子供たちが「サインして下さ~い!」と言ってやってきた。大人たちも来たのには驚いた。きっと彼女は地元局の人気レポーターなのだろう。レストランに集まった町の人たちの見送りを受け、ドゥラスノの町を走り出すのだった。
1985年2月4日、パラグアイの首都アスンシオンに到着。亜熱帯のアスンシオンは温帯のモンテビデオよりもさらに緑の濃い町。ジャカランダの紫色の花が今を盛りと咲いていた。豊かな川の流れ、町を覆いつくす木々の緑、色とりどりの花々、アスンシオンは「森と水の都」と讃えられているが、まさにそのとおりにの町だ。
パラグアイには日本人をはじめとして中国人、韓国人など東洋系移民が多く住んでいる。そのため町を走ると、日本語や中国語、韓国語の看板をよく見かける。
「関東ゾウスイ、肉のオカユ、アワビのオカユ、ホルモン料理、その他、各種の日本料理を用意しています」
と書かれた看板を目にして、その店に入った。刺し身、豆腐、塩辛、納豆…と、何でもそろっている。ご飯に納豆、味噌汁を食べたが、アルゼンチンでもウルグアイでもぶ厚いビフテキと格闘するような毎日だったので、日本食に生き返るような思いがした。
アスンシオンを出発するとブラジル国境の町ストロエスネールに向かう。国境では世界最大級の滝、イグアス滝を見た。イグアス川にかかる大滝で、高さ80メートル、幅は4キロもある。水しぶきを全身で浴びながら、地響きをたてて流れ落ちるイグアス滝を眺めた。まるで地球が荒れ狂い、唸りを上げ、吠えまくっているかのようだった。
▲パラグアイを貫く一筋の道。ゆるやかなアップダウンを繰り返す
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