【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】
前回:賀曽利隆の「南米一周4万3402キロ」(1984年~1985年)第1回目
「インカの都」クスコは、標高3430メートルの高地に位置している。町のあちこちにインカ時代の石造りの遺跡が残されているが、「カミソリの刃、1枚通さない」といわれるほどの精巧な石組みだ。
クスコではインカ時代の太陽の神殿(コリカンチャ)の上に建てられたサント・ドミンゴ教会や、スンツルワシ神殿の上に建てられたカテドラル(大聖堂)、メルセド寺院などを見てまわる。
クスコの中心、プラサ・アルマス(アルマス広場)の正面にそびえたつカテドラルは壮大な建物で、インカを征服し、旧インカ帝国領を支配したスペインの力を見せつけている。メルセド寺院には、寺宝のクストディア(聖なる台)がある。これは純金の台に2個の大きな真珠(1個は世界最大)と615個の真珠、1518個のダイアモンド、そのほかエメラルド、ルビー、トパーズなどの宝石がちりばめられたもの。キリスト教を植民地支配の道具にしたスペインの権力を象徴するかのようだ。
クスコを拠点にして、周辺のインカ帝国時代の遺跡をめぐる。まず最初に行ったのは、クスコを見下ろす丘の上のサクサワマン。1日3万人という膨大な労働力を投入し、それでも完成までに80年かかったといわれるほどの巨大な要塞だ。見上げるような巨岩をふんだんに使い、3段の石垣をめぐらせている。正面の広場では毎年6月24日、インカ帝国の全盛期を再現した太陽神の祭りがおこなわれる。インカ帝国の皇帝や高官、従者などに扮したインディオたちが、色とりどりの民族衣装をまとい、それは華やかなものだという。サクサワマンにつづいて、インカ時代の神聖な沐浴場だったタンボマチャイ、関所が置かれていたプカプカラをまわった。
次にクスコから列車に乗って、マチュピチュ遺跡に行く。スペイン語圏の南米ではほとんど英語が通用しないが、マチュピチュ行きの観光列車内は別世界。世界中から観光客がやってくるので、英語のみならず、ドイツ語やフランス語も聞こえてくる。
山上の要塞都市マチュピチュには、神殿や宮殿、浴場、住居などがある。それらは1000を超える無数の石の階段で結ばれている。都市遺跡に隣りあって、石垣で築かれた何段もの段々畑がある。マチュピチュで必要な食料は、すべてマチュピチュでまかなっていたという。
1984年12月13日、クスコを出発。DR250Sを走らせ、ボリビアの首都ラパスを目指す。ウルバンバ川上流のビルカノタ川に沿った道で、夕暮れのラヤ峠を越えた。 ラヤ峠は標高4312メートル。アマゾン川の水系とチチカカ湖の水系を分ける峠だ。夕空を背にして聳える周辺の雪山は、夕日を浴びて茜色に染まっている。無数のアルパカが放牧されているが、アルパカの白い毛並みも夕日に赤く染まっている。
ラヤ峠でDRを止めた。感無量だ。というのは、アンティコナ峠(チクリヨ峠)を越えて出会った「アマゾン」とここでお別れになるからだ。ビルカノタ川はウルバンバ川、ウカヤリ川と名前を変え、アマゾン川の本流となって大西洋へと流れていく。
ラヤ峠を越えたところには、アルパカを放牧している牧場の牧童の家があった。DRを止めて、「ひと晩、泊めて下さ~い」と頼むと、快く泊めてくれた。突然にやってきた異邦人にもかかわらず、牧童の一家(夫婦と3人の子供)は大歓迎してくれた。
牧童の顔は凍傷にやられて痛々しい。口びるも黒紫色になっている。アルパカの群を引き連れて、寒風をついてラヤ峠の周辺をまわるからだ。峠を吹き抜けていく風はそれほどまでに冷たい。
夕食にはアルパカの肉を焼いてくれた。羊肉に似た味。夜は土間にアルパカの毛皮を敷いてくれた。その上にシュラフ敷いて寝たが、夜半から雪がチラチラ降るような寒さだったのにもかかわらず、薄っぺらなシュラフでも汗ばむほどだった。
翌朝、牧童の一家にお礼をいってラヤ峠を下り、富士山よりも高い標高3870メートルのプーノの町へ。そこからチチカカ湖の湖畔に出た。湖水面の高さが標高3812メートルのチチカカ湖は、世界最高所の大湖として知られている。透明感のある青空を映し、湖面の色も吸い込まれそうになるほど青い。パルサ・デ・トトラと呼ばれる葦舟が、湖岸のあちこちで見られた。
チチカカ湖から流れ出る唯一の川、デサグアデロ川がペルーとボリビアの国境になっている。川にかかる長さ2、30メートルほどの橋を渡り、ペルーからボリビアに入った。 ボリビアの首都ラパスへ。夕暮れの峠を越えると、正面には20峰近い雪山が一列に並び、雪は残照に照らされてうっすらと色づいている。その右手には、灯りはじめたラパスの町明かりが見えた。
ボリビアの首都ラパスに到着。すり鉢のような地形で、一番底が中心街になっている。標高3600メートルの世界最高所の首都。ちなみに第2位はエクアドルのキト、第3位はコロンビアのボゴタで、1位から3位までが南米になる。
ラパスでは「エルドラドホテル」に泊まったが、連泊してティワナコ遺跡のツアーに参加する。8時、ホテルに車がやってきた。ツアーの参加者はアメリカ人が2人、ドイツ人が1人、それとぼくの4人。英語を話せるボリビア人のガイドが1人ついている。
ティワナコ遺跡はラパスから80キロほどのチチカカ湖に近いティワナコの町にある。プレインカ時代の石造遺跡で、神殿や石門、ピラミッドなどから成っている。そのうちの「太陽の門」と呼ばれる神殿入口の石門は高さが4・5メートルあり、見事な細工がほどこされている。
巨大な1枚岩でできているが、その重さは100トンをはるかに超えるという。これと同じ石質の岩はこの近くにはないので、チチカカ湖の対岸で切り出されたものだろうという。いったいどのようにしてこれだけの大岩を切り出したのか、またどのようにしてティワナコまで運んだのか、すべては謎なのだとガイドはいう。
ラパスを出発し、銀山で栄えたポトシへ。ポトシは標高4180メートルの世界最高所の都市。歴史の古い町で、石畳の坂道をDRで走る。町のどこからでも銀山のボタ山が見える。銀山の歴史は古い。1545年に銀が発見されるとポトシの町が建設され、1562年にはスペイン王室の造幣局が設置された。それ以降、ポトシは300年間、銀をスペイン本国に送りつづけた。最盛期には人口16万人を超え、南米最大の都市だった。
ポトシからウユニ塩湖へ。チリ国境までの200キロが大きな難関だ。チリに通じる道はウユニ塩湖の南側を通っている。乾期ならば干上がった塩湖の上を高速で走れるが、季節はあいにくと雨期に入っていた。そのため水をたっぷり吸った塩湖はズボズボ状態で、交通はまったく途絶えていた。その中を突っ込んでいこうというのだ。
運を天にまかせるような気分でウユニ塩湖に突入。塩湖が固かったのは最初のうちだけで、やがてどんどん柔らかくなっていく。バイクの車輪がズボッともぐるようになり、そのたびに、大汗をかいて脱出した。それでも、戻ろうという気にはならずに、強引に塩湖を走りつづけた。
塩を巻き散らしながら80キロぐらいのスピードで突っ走っていると、柔らかな泥沼状の中にフロントタイヤがめりこみ、車輪はロックし、急停車した。全身泥まみれになってDR250Sを泥沼の中から引きずり出したが、「もう、これ以上は無理だ」と判断し、並行して走る鉄道の線路に上がった。
盛土した線路の上を走る。この鉄道はチリの太平洋岸の港町、アントファガスタに通じている。列車は週1本。列車のダイヤは事前に調べてあるので、線路内で列車と衝突する危険性はなかったが、線路内に敷きつめられた砂利と枕木で猛烈な振動だ。
前方に火山群が見えてくる。平坦なアタカマ高地にポコッ、ポコッと富士山型の火山がいくつものっている。そこがボリビアとペルーの国境地帯。塩と泥、線路の砂利と枕木との大格闘の200キロだったが、無事、国境に到着。ボリビア側で出国手続きをし、チリ側に入った。チリ側のイミグレーションの係官たちは、「いったい、どこからやってきたんだ!?」といわんばかりで、誰もがびっくりしたような顔をした。
ボリビアからチリに入ると、道はよくなった。DR250Sのエンジンやマフラーに厚くこびりついた塩混じりの泥を落とし、アタカマ高地を下っていく。アタカマ砂漠に入ると、今度は猛烈な暑さと乾き。それに耐えながら走りつづける。世界最大の露天堀り銅山のチュキカマタを通り、太平洋岸の町、アントファガスタに出た。
アントファガスタからチリの首都サンチャゴに向かう前に、太平洋岸を走るパンアメリカンハイウェイで、ペルーの首都リマまでの間を往復した。片道2000キロ、往復で4000キロ。パンアメリカンハイウェイの全線を走りたかったのだ。アントファガスタに戻ると、パンアメリカンハイウェイを南下。12月30日にチリの首都サンチャゴに到着した。
サンチャゴを出発したのは、1985年の元旦の朝だ。南半球のサンチャゴは、正月といえば真夏。空は青く澄み渡り、朝から強い日差しが射していた。
サンチャゴから南に1000キロのプエルトモントまで行く。ベネズエラの首都カラカスからコロンビア、エクアドル、ペルー、チリと南米の太平洋岸を縦貫するパンアメリカンハイウェイは、ここが終点。チリ鉄道網の終着駅でもある。
プエルトモントから100キロほど戻ったところに、オソルノという町がある。オソルノからアンデス山脈のプジェウェ峠を越えてアルゼンチンに入った。峠下がアルゼンチンでも有数のリゾート地のバリローチェ。夏は避暑でにぎわい、冬はスキーでにぎわう。
バリローチェからパタゴニア縦貫の国道40号(ルータ・クワレンタ)を南下する。「吠える40度」といわれているとおりで、南緯40度以南のパタゴニアに入ると四六時中、猛烈な風が吹きまくる。
パタゴニアの風というのは、太平洋側から吹きつける偏西風だ。水分をたっぷりと含んだ風がアンデス山脈にぶつかり、チリ側は「地上最悪の気候」といわれるほどの暴風雨、暴風雪に見舞われる。年間の降水量も5000ミリを超える。それにひきかえアルゼンチン側というのは、すでに雨や雪を降らせた乾いた風で、アンデス山脈を越えて吹きおろしてくる。そのためアルゼンチン側のパタゴニアは砂漠同然で、年間の降水量は300ミリを割る。同じパタゴニアとはいっても、アンデス山脈をはさんだ西と東では、まるで違う世界になっている。
国道40号はアンデス山脈の東麓を通っている。そのルートはアンデス山脈に近寄ったり、遠ざかったりしているので、アンデス山脈から離れると四方を地平線に囲まれた大平原になる。トゲのついている草が、はるかかなたの地平線まで、地を這うようにしてはえている。かわいらしい白や紫の花を咲かせている草もある。
それにしてもパタゴニアの風は猛烈だ。アンデス山脈から吹き下ろしてくる真横からの風に吹かれると、道路の右端を走っていてもあっというまに左端までもっていかれる。風が真正面から吹きつけてくると、アクセルを目いっぱい開いても速度は80キロから70キロ、60キロと、スーッと落ちてしまう。その反対に、真後から吹かれると、まるで無風状態の中を走っているようで、それでいてアクセルから手を離しても70キロぐらいの速度をキープしている。
バリローチェから国道40号を1200キロほど南下すると、エメラルドグリーンのアルゼンチナ湖が見えてくる。国道40号から「パルケ・ナショナル・ロス・グラシアス(氷河国立公園)」の玄関口のカラファテへ。胸をドキドキさせてモレノ氷河を見に行った。氷河をひと目、見た瞬間の驚きといったらない。
「すごい!」
アンデス山脈の稜線に端を発する全長350キロのモレノ氷河は、最後は4キロもの幅となって、アルゼンチナ湖に流れ落ちる。それは文字通りの「氷の河」。氷河先端の壁は100メートルほどの高さ。その氷の壁はあちこちで崩れ、そのたびに雷が落ちるような轟音をとどろかせて、巨大な氷の塊になって湖に落ちていく。
パタゴニアをさらに南下し、マゼラン海峡を越えて、フエゴ島に渡った。世界地図で見ると、南米大陸の先端にチョコンとついているぐらいにしか見えないフエゴ島だが、面積は4万8000平方キロで、九州よりもはるかに大きい。一歩、フエゴ島を走りはじめると、とても島とは思えないほどの広大さだ。
すでに南緯50度を越えているので、日が落ちてからの寒さといったらなかった。ガタガタ震えながらDRを走らせた。
フエゴ島最大の町、リオグランデを過ぎると、平地から山地に入っていく。高さは1000メートル前後でしかないのに、どの山も雪をかぶっている。雪に手が届きそうなくらいの峠を越えた。峠道を下り、谷間を抜け出ると、前方にビーグル海峡が見えてきた。
夕方、ビーグル海峡に面したウスワイアの町に到着。コロンビアのペレイラから1万7134キロ。それは1985年1月9日、日本を出発してから110日目のことだった。ウスワイアは南緯55度の世界最南の町。それにしても南緯55度という極南の世界は寒い。夏の真っ盛りだというのに、まわりの山々は冬景色同然で、雪化粧をしていた。
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