【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】

▲コロンビアのペレイラを出発。「南米一周」が始まった!

1984年10月22日、成田発20時20分の日本航空064便ブラジル・サンパウロ行きに乗って、「南米一周」に旅立った。サンパウロでアビアンカ航空804便に乗り換えて、コロンビアの首都ボゴタへ。コロンビア太平洋岸のブエナベントゥーラ港で日本から送り出した相棒のスズキDR250Sを引き取ったのだが、このバイクの引き取りには3週間もかかった。

11月21日、「スズキ・コロンビア」のある高原の町ペレイラを出発。パンアメリカンハイウェイを南下し、カリの町を通ってエクアドルに入った。

▲ペレイラからパンアメリカンハイウェイを南下する

エクアドルは「赤道の国」。標高3000メートル前後の高原を行く。アルプスの牧場を思わせるような緑豊かな風景。DR250Sで切る風は冷たく、身震いしてしまうほど。ガタガタ震えながら赤道に到達した。パンアメリカンハイウェイの脇には、赤道のモニュメントが建っている。石造りの地球に赤道線が引かれている。

▲これが「南米一周」の最初の給油

▲コロンビアとエクアドルの国境に到着

▲エクアドルのパンアメリカンハイウェイを南下する

▲エクアドルの赤道

赤道を越えて南半球に入ると、南米の先住民、インディオの姿を多く見かけるようになる。男も女もおさげ髪で、山高帽をかぶっている。腰をかがめて大きな荷物を背負って歩く男たち。赤ん坊を背負って歩く女たち。シトシト降る雨の中、木の下で羊毛のポンチョにくるまり、じっと辛抱強くバスを待つ人たち。子供たちがなんとも愛くるしい表情をしている。

▲インディオの露店で昼食

エクアドルの首都キトに到着。ひんやりとした高原の空気で、赤道直下にいるとは思えないほど。標高は2850メートル。日本でいえば八ヶ岳山頂ぐらいの高地だ。こじんまりとした「ズマックホテル」に連泊し、キトの町を歩いた。

▲エクアドルの首都キトの町並みを見下ろす

▲エクアドルの白バイ隊員としばしのバイク談義

11月28日、キトを出発。パンアメリカンハイウェイを南下し、太平洋岸の低地に下るとやっと寒さから解放された。キトから470キロのグアヤキルに到着。エクアドル最大の港町であるのと同時に、エクアドル最大の都市にもなっている。キトが政治の中心地だとすると、グアヤキルは経済の中心地。南米解放の両巨頭、シモン・ボリバールとサン・マルティンがこの地で会談し、1822年にスペイン軍に対して独立戦争を起こした。太平洋に流れ出るグアイヤス川の河畔に記念碑が建っている。

▲グアヤキルの町に入っていく

グアヤキルからパンアメリカンハイウェイを300キロ走ると、ペルーとの国境に到着。国境を越えたとたんに気候が変わり、砂まじりの熱風が吹きつけてくる。パンアメリカンハイウェイの沿線からみるみるうちに緑が消え、あっというまに砂漠に変ってしまう。これが国境越えのおもしろさ。国境線という目に見えない1本の線を境にして、エクアドルは濃い緑色の世界、ペルーは不毛の砂色の世界になる。それにしてもペルーに入ってすぐに砂漠になるとは想像もしなかった。ペルーの太平洋岸の砂漠は、そのままチリのアタカマ砂漠へとつづいている。

▲エクアドルとペルーの国境に到着

▲ペルーの太平洋岸を南下する

▲ペルー太平洋岸の砂丘地帯に突入

ペルーの砂漠の風景は一様ではない。一面の砂の海だったり、深さ3、40センチの亀裂の入ったヒビ割れた土漠だったり、緑のまったくないゴツゴツした岩山地帯だったり。砂丘群があらわれてくると砂丘の美しさに魅せられ、その下までDR250Sを走らせ、高さ100メートルほどの大砂丘に登った。砂丘の頂上からの眺めはすごい。茫々と広がる大砂漠の中に、パンアメリカンハイウェイの黒々とした舗装路が延びている。

▲大砂丘の下にDRを止めて、大砂丘をよじ登る

▲ペルーの太平洋岸で見た葦舟

▲ペルー太平洋岸のひび割れた大地

国境から南に600キロ走り、トルヒーヨの町に着く。セントロ(中心街)のプラサ・デ・アルマス(アルマス広場)のまわりには、カテドラル(大聖堂)や市庁舎、ホテルなどスペイン時代の面影を残す白い建物が、見事な配列で建ち並んでいる。白壁、古風な出窓、ガス燈の形をした街路灯。アルマス広場から四方に道が延び、碁盤の目状の整然とした町になっている。

翌日は1日かけて、トルヒーヨとその周辺のアンデス文明の遺跡群を見てまわった。まずは町の中心にある考古学博物館。ここでおおよそのアンデス文明の流れを頭の中に入れた。次に郊外のパンアメリカンハイウェイ沿いにあるカシネリ博物館に行く。とはいっても、ここはガソリンスタンドの地下室で、カシネリさんという経営者のコレクションが展示されている。モチーカ文明(紀元前後~7世紀)の土器などを中心に、約2000点が展示されている。モチーカ文明の土器類には人間の生きる喜びが満ちあふれ、日本の縄文式土器に相通じるものがあった。

▲トルヒーヨのカシネリ博物館のカシネリさん

そのあとモチーカ文明のウアカ・エル・ドラゴン遺跡に行く。ウアカ・デル・ソールとウアカ・デル・ルナ、太陽と月の2つのピラミッドがある。

最後にチムー帝国(11世紀~14世紀)の都だったチャンチャン遺跡に行く。チャンチャンは全部で9つの都市から成る大規模な都市遺跡。その最盛期には北はグアヤキルから南はパラモンガ(リマの北)まで、南北1000キロの広大な地域を支配したが、インカ帝国に併合されてしまう。

▲トルヒーヨのチャンチャン遺跡。ここはチムー帝国の都跡

南米の文明というと、我々はすぐにインカ帝国(15世紀に最盛期を迎え、1532年、スペインの侵攻によって滅亡)を思い浮かべるが、それ以前(プレインカ時代)の歴史がじつにおもしろい。幾多の興亡を繰り返したアンデス諸文明の、最後に咲いた大輪の花がインカ文明ということになる。

▲DRのフロントタイヤがパンク。村人がパンク修理を手伝ってくれた

12月4日、ペルーの首都リマに到着。日系人のヤマモトさんが経営する「ペンション・ヤマモト」に泊まった。ペルーは日本人移民の多い国。和歌山県出身のヤマモトさんは1957年に移住した。連泊した「ペンション・ヤマモト」での毎日は快適だった。日本の民宿や旅館と同じように、朝食と夕食がついた。久しぶりに味わう日本食に感激してしまう。夕食のメニューといえば、ご飯に味噌汁、刺し身、のり、冷やっこ、魚の干物、漬物といった具合なのだ。

▲ペルーの首都、リマの「ペンション・ヤマモト」。ヤマモト夫妻の見送りを受けてリマを出発

「ペンション・ヤマモト」のヤマモト夫妻の見送りを受け、リマを出発。アンデスのアンティコナ峠(チクリヨ峠)を越えて、インカ帝国の都のクスコを目指す。40キロ先のチョシカという町までは4車線の広い道。交通量も多い。そこを過ぎると、道幅が狭くなり、交通量もガクッと減り、リマック川の谷間に入っていく。標高4843メートルのアンティコナ峠への登りが始まった。

▲リマからアンデス山脈のアンティコナ峠に向かう

峠道を登るにつれて気温がどんどん下がり、雨雲が垂れ込め、そのうちに雨が降り出してくる。冷たい雨だ。さらに高度を上げていくと、雲の中に突っ込み、視界はほとんどなくなってしまった。

突然バラバラッと自動小銃を構えた兵士たちが岩山から駆け降りてきたときは、ギョッとした。軍の検問だ。パスポートを調べられ、荷物もすべて調べられた。
「この先は、テロリストの多い地域なので、十分に注意して行くように!」
と、強い口調でいわれた。

寒さと息苦しさとの戦いの末に、標高4843メートルのアンティコナ峠に到達。身を切られるような寒さだ。小雪が舞っている。太平洋岸のリマは砂漠に囲まれた都市なので、乾ききった熱風が吹き荒れていた。ところが距離にしたらわずか100キロ、東京から小田原ぐらいの距離で、雪の降る峠に立っている。

▲標高4843メートルのアンティコナ峠に到達!

アンティコナ峠を越えると、アマゾン川の水系に入っていく。もう大西洋の世界だ。峠道を下るにつれて、寒さと息苦しさから解放された。

リマから300キロのワンカイヨで泊まり、翌日、アヤクーチョへの道を走る。検問の連続で、そのたびにパスポートを調べられ、荷物を調べられた。アヤクーチョの周辺は「南米の火薬庫」といわれていたが、政府軍と反政府軍のゲリラ組織「センデロ・ルミノソ(輝く道)」が激しい戦闘をつづけていた。

▲ワンカイヨの町では大勢の子供たちに囲まれた

▲激戦の地、アヤクーチョ県に入ると荒れた道がつづく

アヤクーチョ県に入ると、道はとたんに悪くなる。荒れ放題だ。いたるところで崖崩れが起き、大粒の石がゴロゴロしている。夕方、マヨという村に着くと、1軒だけある食堂で夕食にする。自動小銃を肩にかけた政府軍の兵士たちが続々と食堂にやってくる。そのうちの1人のモイセーヌ・ラソ・メサさんと親しくなり、アヤクーチョ経由のクスコまでのルートの情報をあれこれと詳しく教えてもらった。

食堂の主人は年配の人だったが、太平洋戦争には連合軍の一員として参戦し、日本軍と戦った。ぼくに話すというよりも、若いペルー軍の兵士たちに聞かせるかのように、「日本軍は強かった。それにひきかえ、我がペルー軍は弱かったよ」という。そんな話をハラハラしながら聞くのだった。

日が暮れると、軍のチーフがワインを持ってやってきた。電気のない村なので、ローソクの灯のもとでの宴会だ。
「サルー、アミーゴ!」(乾杯、友よ!)
ぼくもつがれるままに、遠慮なくワインを飲み、兵士たちと乾杯をくりかえした。戦場での宴会がお開きになると、恐怖の夜がやってくる。食堂のすみにシュラフを敷いて寝かせてもらったが、兵士たちはテーブルやイスを食堂の入口にうず高く積み上げると、「夜中に銃撃戦がはじまっても、絶対に動いてはいけない。じっとしているように」といい残して兵舎に帰っていった。雨が降り出した。雨足は次第に速くなり、ひと晩中、降りつづいた。雨の音のせいもあって夜中に何度も目がさめ、そのたびに耳を澄ましたが、夜明けまで銃声は一発も聞こえなかった。

マヨを出発。食堂の主人や兵士たちに別れを告げ、断崖上の道を走る。足下をアマゾン水系のマンタロー川が流れている。夜通し降りつづいた雨で、あふれんばかりの水量だ。赤土を溶かしたような色をしている。

▲アヤクーチョ県で出会った政府軍の若き兵士たち

河畔に下り、橋を渡る。その橋の手前には、軍の検問所があった。昨夜、一緒にワインを飲んだ兵士が何人かいたので、フリーパスで通過できた。

マンタロー川にかかる橋を渡ると、その先はズボズボの泥沼状態。トラックが泥の中に埋まり、道をふさいでいた。そのため10台近いトラックが数珠つなぎになって立ち往生していたが、バイクの強みをいかんなく発揮し、そのわきをすり抜けた。

アヤクーチョ県の中心地、アヤクーチョの町の手前では、走行中の軍用トラックが爆破され、十数人の兵士が死亡した現場を通りかかった。焼けただれた軍用トラックには、死亡者の人数分の機関銃が立てかけられていた。それはまるで墓標のように見えた。この爆破事件の影響で、アヤクーチョの町は騒然としていた。セントロに通じる道は、戦車や装甲車で完全に封鎖されていた。自動小銃を肩にかけた兵士たちがパトロールし、アリの這い出る隙間もないような大警備網を敷いていた。そんなアヤクーチョの町を必死の思いで走り抜けていくのだった。

クスコへとつづくアンデスの山道は、アマゾン源流の谷を何本も渡っていく。谷底は標高1000メートル前後で、熱風が渦巻き、ムッとする暑さ。そこから4000メートル級の峠を目指す。峠道を登り、標高2000メートルになるとトウモロコシ畑が見えてくる。標高3000メートルになるとジャガイモ畑が見えてくる。標高4000メートルの高地に達すると、雪が舞うようなような寒さになる。

▲アンデス山脈の峠越え

▲ジャガイモの植え付けを見る

アンデスの4000メートルの世界も、人々の生活の舞台になっている。インディオたちは、ヒツジやアンデス特有の家畜のリャマやアルパカの群を牧草地へと追っていく。おもしろいのはブタだ。ここではブタも放牧されている。数頭のブタがチョコチョコとリャマやアルパカの群についていく光景は笑いをさそった。

▲峠道を登っていく家畜の群れ

アマゾンの谷間は夏。それが峠道を登っていくと季節は夏から秋に変わり、峠にたどり着くと冬になる。峠を下っていくと、今度は冬から春に変わり、次の谷間でまた夏を迎えるという具合で、1日に何度となく春夏秋冬を迎えるアンデスの峠越えだ。

▲峠の市まで歩いていく二人

▲峠に立つ市

▲峠の小さな村

アンデス山中のアンダワイラス、アバンカイの町を通り、最後に標高3598メートルのアルコプンコ峠を越え、クスコ盆地へと下っていく。峠を下った食堂で、羊の頭の入ったスープを飲み、頭の骨についた肉をむさぼり喰う。羊の頭をパワー源にしてひた走り、1984年12月10日、「インカの都」クスコに到着。リマから1200キロ、4日かかっての到着だった。

▲峠の食堂で昼食

▲クスコへの最後の峠、アルコプンコ峠からの眺め

▲クスコの町に入っていく

▲クスコの町のジャガイモ市

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