
【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】
▲ティミアウンの出発を前にDR500の整備に余念のない風間深志さん
1982年1月9日。この日は「第4回パリ→ダカール・ラリー」の大会第9日目だ。「チーム・ホライゾン」の賀曽利隆と風間深志は意気揚々とした気分でアルジェリアのティミアウンをスタート。相棒のスズキDR500を走らせる。
ティミアウンをスタートするとすぐに、国境を越えてマリに入った。マリ側ではカソリ、道を間違え、2時間ほどのロスをしてしまった。
これが痛かった…。
▲国境を越えてマリに入った。これが風間さんを見る最後になってしまった
サハラ砂漠の終点、ガオに通じるサハラ砂漠縦断路に合流。南に走るにつれて草木が見えてくる。サハラからサヘル(サハラの縁の意味)に入った。さらに下るとステップ(草原)地帯に入っていく。
▲ガオに通じるサハラ砂漠縦断路。このあたりでアルジェリアのティミアウンとボルジュモクタールからの道が合流する。道路標識は一切ない
▲草木が見えてくる。サハラからサヘル(サハラ砂漠の南縁)に入った
そんなサハラ砂漠縦断路のテッサリット村で1時間のロスがあり、次のアゲルホック村ではガソリンを入れるのに1時間もかかってしまったりと、時間のロスがつづいた。そのロスを取り戻したくて、また一刻も早くゴールのガオに到着したくて、DR500のアクセルを全開にして走りつづけた。
フランスのオルレアンでの事故以降というもの、DR500をかばう気持ちが強く、なかなかアクセルを全開で走りつづけることはできなかった。事故による大きなダメージを受けたDRの痛みが、そのまま自分自身の痛みのように感じられていたからだ。
しかしガオに向かうこの日のコースでは、フルスロットルでDRを走らせ、先行するバイクやクルマを次々に抜いていく。
「悪いな、DRよ。もうすこしでガオだ。ガオに着いたら1日、休みがあるからな。そしたらスイングアームもショックアブゾーバーもホイールも直すからな。走ってくれ、DRよ、ガオまで走ってくれ!」
いつしか夕日は西の地平線に沈み、東の空からは大きな月が昇る。おりしも満月だ。
あたりが暗くなってくる。DRのライトではあまりにも心もとない。提灯で砂漠を走るようなものだ。砂の深い道になると、よく見えないので砂の壁にブチ当たり、転倒してしまう。すでにサイドスタンドは折れて脱落してしまったので、DRを立てることもできず、苦しい格好でキックしつづけてエンジンをかけた。
ガオまではまだ100キロある。
「こうなったら、クルマの前を走ろう」
と、そう決めた。
後方からくるクルマを待ち、近づいてくると、その前を走った。どのクルマもラリー仕様で、とくにライトは明るくしている。そのクルマのライトを借りて走ろうとしたのだ。 しかし、クルマの方も時間との勝負なので、何とかしてDRを追い抜こうとする。ぼくは抜かれまいとして、必死になってDRを走らせる。
クルマのライトを借りるといっても、ある程度の距離を置いて前を走るのだから、明るさは十分ではない。さらにクルマとの絶対的な速度差もあり、どうしても抜かれてしまう。
抜かれたあとはクルマの尾灯を目印にして、モウモウとたちこめる土煙の中を走った。 だが、尾灯ははるかかなたへと消え去っていく。そんなことを3、4台のクルマで繰り返した。
4台目ぐらいのクルマに抜かれ、その後をムキになって追っているときのことだった。 1メートル先も見えないような土煙の中から、突然、立ち木が目の前に現れた。
「あーっ!」
ブレーキをかける間もなく、立ち木に激突した。
100キロ以上のスピードでぶつかったものだから、ひとたまりもなかった。
頑丈なDR500の二重構造のタンクが真っ二つに裂け、吹き出したガソリンを頭からかぶった。猛烈な勢いで地面に叩きつけられ、まったく動くことができなかった。
何ともラッキーだったのは、スパークしなかったことだ。
もし火花が飛んでいたら、瞬時にしてぼくもDRもまる焼けになっていた。
それともうひとつ、意識がはっきりしていたことだ。
この2つの幸運で、カソリは命を拾った。
「生きたい!」
事故現場でぼくが思ったのは、ただそれだけだった。
左足が骨折しているのはすぐにわかった。
左足のモトクロス・パンツに入っている膝当てのパッドが砕け、気持ち悪いほど出血しているのもわかった。
左膝は相当のダメージだ。
棘の多い砂漠の木に激突したので、顔にも首にも無数の棘が突き刺さっている。
「生きたい!」
と、ぼくは改めて思った。
今の自分の置かれている状況が、きわめて危険なことは十分にわかっていた。
助かるためには、まずクルマがどこを通るのかを見極めなくてはならないと考えた。
満月に照らされた地平線にポツンと灯がともり、それがだんだん大きくなり、近づき、やがて爆音を残して走り去っていく。
クルマが通ったところまで4、50メートルぐらいはありそうだ。ぼくはそこに自分の全てを賭けた。
ルートは何本にも分かれているので、次のクルマがまたそこを通るかどうかはわからなかったが、とにかくそこに自分の命を賭けたのだ。
左半身はまったく動かなかったが、かろうじて動く右腕と右膝を使ってその地点まで這いずっていく。わずか4、50メートルの距離が4キロにも5キロにも感じられた。
ルートらしきものに出ると、じっとうずくまり、クルマを待った。バイクが2台、3台と通り過ぎていく。
そのあとにクルマが来た。
近づいてくる。
ぼくは全身の力をこめて立ち上がった。その瞬間、足の骨がボリボリボリッと鈍い音をたてた。骨が砕け散るような何とも気持ち悪い音だった。
ドライバーには聞こえるはずもないのだが、大声で、
「ヘルプ、ヘルプ・ミー!」
と叫びつづけ、かろうじて動く右手を振った。
ぼくの「生きたい!」という執念が通じたのか、そのクルマは止まってくれた。
これはもう奇跡としかいいようがない。
イタリア人チームのクルマだった。
しかしドライバーが乗り、ナビゲーターが乗り、メカニックが乗り、さらに荷物を満載にしたラリー車に、ぼくを乗せる余裕などあるわけがない。
ドライバーは懐中電灯を貸してくれた。
「がんばるんだ、必ずレスキュー車が来るから」
と、そのようなことをいい残して走り去っていった。
ぼくはもう、2度と立ち上がることはできなかった。
道端にうずくまる。猛烈な寒さに苛まれる。あまりの寒さに歯がカチカチ鳴って止まらない。寒くて寒くてどうしようもない。砂漠の夜の寒さ、骨折、出血による寒さ、疲労、空腹による寒さ、それらがすべて重なっての寒さなのだろう。
自分の体が急速に弱っていくのがよくわかる。もう自分の体ではないような気さえしてくる。
クルマが近づいてくるたびに、うずくまったままの姿で懐中電灯を点滅させて合図を送ったが、どのクルマも止まってはくれない。
猛スピードで土けむりを巻き上げて走り去っていく。
このまま砂漠でのたれ死ぬのだろうかと、漠然とした不安に襲われはじめたころ、ついにクルマが止まってくれた。
だが、それはレスキュー車ではなかった。
スイス人チームの車で、そのクルマにも3人乗っていた。
彼らは口々に、
「もう少しだ。がんばるんだ。必ずレスキュー車が来るから」
と、ぼくを励ましてくれた。
彼らは枯れ木を集めて火をたいてくれた。
安心感もあってか、何度もスーッと気が遠くなる。彼らはそのたびにぼくのほほをたたいた。
事故から4時間ぐらいたっただろうか、満月を真上に見る頃、ついにレスキュー車がやって来た。
若い看護婦さんがクルマから降りてくる。
ずっとぼくについていてくれていた3人のスイス人たちは、手みじかに事情を話すと、彼らのクルマに飛び乗り、ガオに向かって走り去っていった。
「ありがとう!」
手を合わせたいほどの気持ちだった。
彼ら3人は、ぼくの命の恩人だ。
彼らにとって2時間も、3時間ものロスはほんとうに大きい。ぼくは途中で何度か、もう大丈夫だからといったが、彼らはそのたびに気にしなくてもいいんだという顔をして、最後までぼくについてくれていた。
ありがとう、ほんとうにありがとう!
看護婦さんが応急の手当てをしてくれる。モトクロス・ブーツを脱がされるときは、強烈な痛さ。足首はパンパンに腫れ上がっている。モトクロス・パンツはハサミで切られた。膝からの出血がひどく、モトクロス・パンツは血で染まり、ベトベトになっていた。
看護婦さんはすばやく止血をしてくれ、エアーバックで両足を固定してくれた。そのような状態でレスキュー車に乗せられた。
事故現場を離れていくときは、涙があふれ出た。
DR500があまりにもかわいそうだったからだ。
DR500はフランスのオルレアンでの事故をものともせずに、サハラ砂漠を走りつづけてくれた。サハラ砂漠を抜け出し、あともう一歩でガオに着くというところで、その最期を迎えてしまった。
「ゴメン、DRよ!」
命をともにしたDR500の墓標をこの地に刻んでしまったやるせなさに、胸がキリキリ痛んだ。
レスキュー車はガオに向かって走る。
車がすこしでも振動すると頭を突き破るような痛みを感じるので、ゆっくり、ゆっくりと走ってくれた。
ガオに着いたのは夜明け近かった。
ここで医師の応急処置を受け、ぼくは別のクルマでガオの空港に移された。
風間さんにも会えず、そのままベッドが3つあるレスキュー用の超音速小型ジェット機に乗せられた。これは奇跡的な幸運といっていい。小型ジェット機内には3つのベッドがあるが、そのうちの2つはすでに埋まっていた。残りはひとつだけだった。それともうひとつの幸運は、緊急を要するというのに、ぼくの到着を待ってくれていたことだ。
ジェット機は鋭い金属音を響かせて、夜明けのガオ空港を飛び立った。滑走路は舗装されていないので、小さな窓からは舞い上がるものすごい土煙が見えて。
サハラ砂漠はひとっ飛びだった。
地中海もあっというまに越えた。
まずはイタリアの空港でイタリア人選手を下ろし、スイスの空港ではほとんど意識のない重体のスイス人選手を下ろした。
夕方、雪で白一色のパリの空港に着陸。ジェット機に横付けされた救急車に乗せられ、総合大学病院に収容された。救急車の窓から見るパリの雪景色が、カソリの「パリ→ダカール・ラリー」の終わりを実感させた。
▲ピンク線が「第4回パリ→ダカール・ラリー」の「サハラ縦断ルート」(アルジェ→ガオ)。地図はミッシェランの「アフリカ953」
その夜、膝の手術を受けた。
左膝の負傷が一番ひどいという。
それから2、3日というものは、麻酔からさめたあとの痛みと熱のため、一日中、夢うつつの状態。何度も何度も、立ち木が目の前に現れ、立ち木に激突するシーンが目に浮かび、そのたびに激しくうなされるのだった。
救急病棟から一般病棟に移されたのは、手術を受けてから5日目のことだ。
パリの町並みを見下ろす眺めのよい病室。遅い日の出の冬のパリ。朝日を浴びたモンパルナスの高層ビルのガラスがピカッと光るのを見たとき、ぼくは生きている喜びを強く感じた。
▲パリの病院で救急病棟から一般病棟に移された。「不死身のカソリ」はここでも死ななかった!
▲病室から見るパリの夜明け。モンパルナスの高層ビルが見えている。この瞬間、「生きている!」という喜びを強烈に感じた
担当の若い看護婦さんは毎朝、「パリ→ダカール・ラリー」の結果の出ている新聞を見せてくれた。
風間さんが完走し、総合で18位に入って大会が終了した記事を見たときは、
「これ、カマラート(友人)!」
と、看護婦さんに自慢した。
「我々は最善を尽くした。また歩けるようになるかどうかは、キミの運次第だ」
手術を担当した先生にはそう言われたが、さすが「強運カソリ」、その後の経過は順調で、日に日によくなり、病院内を松葉杖で歩けるようになった。
歩けるようになると、ぼくの夢はふくらんだ。
バイクに乗れるようになったら、「今度こそ、南米をやろう!」と、パリの病院で「南米一周計画」を立ち上げた。さらに「(第11回目になる)サハラ砂漠縦断もやらなくては!」と、サハラへの想いを熱くさせるのだった。
松葉杖を突いて日本に帰国したのは1982年1月30日のことだった。
賀曽利隆と風間深志の「パリ→ダカール・ラリー」(1982年)参戦は、大きなニュースになった。
1982年2月5日付けの読売新聞は社会面の一面ブチ抜きで、我々の「パリ→ダカール・ラリー」参戦を報じた。江本嘉伸記者の署名入りの記事だった。
共同通信も大きな扱いで、「賀曽利隆の巻」(上)、「風間深志の巻」(下)の上下2回で、全国の地方紙に配信した。
賀曽利隆と風間深志の「パリ→ダカール・ラリー」参戦は、「パリ→ダカール・ラリー」を一躍、日本中に広めることになった。
▲「読売新聞」の賀曽利隆・風間深志の「パリ→ダカール・ラリー」参戦記事
▲「共同通信」配信の「パリ→ダカール・ラリー」参戦記の「賀曽利隆編」
▲「共同通信」配信の「パリ→ダカール・ラリー」参戦記の「風間深志編」
ぼくがまたバイクに乗れるようになったのは、1982年の夏が過ぎてからのことだ。 1984年~1985年には4万3402キロの「南米一周」を成しとげた。
1988年~1989年には「サハラ砂漠往復縦断」を成しとげた。
この「サハラ砂漠往復縦断」は、パリが出発点でパリが終着点。ぼくにとっては第11回目と第12回目のサハラ砂漠縦断で、2ルートでのサハラ縦断を走り終えてパリに戻ってきた時、風間さんとの「パリ→ダカール・ラリー」のすべてが「終わった!」と強く感じるのだった。
この記事にいいねする