【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】

前回:「パリ→ダカール・ラリー参戦記2」(1982年)

1982年1月2日16時、アルジェリア船籍のフェリー「ティパサ号」は、南フランスのセテ港を出港した。甲板に上がると、地中海を渡る潮風に吹かれた。海も空も目のさめるような青さ。
一晩ぐっすり眠ったおかげで、オルレアンの事故の後遺症は大分、薄らいだ。眠りの力はじつに偉大だ。

▲「チーム・ホライゾン」の賀曽利隆と風間深志、第4回「パリ→ダカール・ラリー」(1982年)に参戦。地中海を渡るフェリー「ティパサ号」の船上で

1月3日。朝食時にフランスでの結果が発表された。
「チーム・ホライゾン」の風間深志は115位、賀曽利隆は120位。
「俺たちさ、もうこれ以下に下がることがないから、すごく気が楽だよな」と、風間さん。
「そうだよ、その通り!」と、相槌を打つカソリ。

カソリ&カザマは2人で笑い合ったが、正直なところ、まだこのころは順位などはどうでもよかった。
「俺たち、ダカールまでは走りきろう!」というのが我々の合言葉だった。
「ティパサ号」の船中では多くの参加者たちと出会い、語り合った。それが楽しかった。舞台ではいろいろなアトラクションがあった。「パリ→ダカール・ラリー」の主催者、テリー・サビーヌの話もあった。

▲アルジェの町並みが近づいてくる

▲「ティパサ号」はまもなくアルジェ港に接岸

1月4日14時、「ティパサ号」は北アフリカ・アルジェリアの首都アルジェに到着。アルジェはカソリのサハラ砂漠縦断の出発点であったり、終着点でもあったので、何ともなつかしい。

▲アルジェ港に到着した「カソリ号」のDR500

▲フェリー「ティパサ号」からトラックが降りてくる

▲アルジェ港の岸壁を埋め尽くす四輪車

アルジェ港で「ティパサ号」を下船すると、我々の相棒のスズキDR500を走らせ、アルジェの市街地を走り抜けて郊外のスタジアムへ。

▲アルジェ港からアルジェ郊外のスタジアムへ

▲こちらは「カザマ号」のDR500

16時、アルジェをスタート。いよいよアフリカ大陸を走り始める。前方には澄みきった夕空を背にして、これから越えていくアトラス山脈の青い山並みが横たわっている。

▲アルジェをスタート。いよいよアフリカ大陸を走り始める

地中海沿岸の平野からアトラス山脈に入っていく。標高1300メートルほどの峠を越えると、前方には平坦な高原地帯がはてしなく広がっている。
ボーサダの町を過ぎると、夜道を走りつづけた。アルジェから470キロのオウレッド・ジェラルに到着したのは23時過ぎ。まわりの風景は暗くて何も見えないが、ここはサハラのオアシス。我々はすでにサハラ砂漠に入っていた。
遅い夕食のあと、地面に銀紙を敷き、シュラフにもぐり込んで寝た。夜中の寒さは強烈で、何度も目がさめた。

▲サハラ砂漠のオアシス、オウレッド・ジェラルの夜明け。朝日が昇る

1月5日6時、起床。サハラ砂漠の夜明け。空には雲ひとつない。オウレッド・ジェラルの町のモスク(イスラム教寺院)のスピーカーからは、「アラー・フ・アクバル、アラー・フ・アクバル、アラー・フ・アクバル(アラーは偉大なり)」の祈りの声が聞こえてくる。
「パリ→ダカール・ラリー」をサポートする「アフリカ・ツアー」のトラックに行き、パンとジャム、紅茶の朝食を食べる。

8時、スタート。
最初からサハラの砂道を走る60キロのスペシャル・ステージ。この間のタイムを競う。フランスでの順位の逆から、30秒間隔でのスタート。120位のカソリは、すぐに自分の番になった。広大なサハラの中に道は幾筋もついている。どのルートを行ったらいいのか、迷ってしまう。そのたびに首にぶらさげたコンパスで方向を確認し、太陽の位置に気をつけながら、とにかく南に向かうルートならば大丈夫だろうと、そう見当をつけて走った。

砂の深いところではリアが振れ、砂の壁に突っ込んで転倒する。そのあとはなかなかエンジンがかからず、大汗をかいた。速く走るよりも、確実に、転倒しないように走るのが賢い走り方だと思い知らされた。
とはいっても、ワークスのライダーにものすごい勢いで追い抜かれると、ムラムラッと闘争心が刺激される。
「よーし!」と、アクセルを全開にして、前方を行く10台あまりをゴボウ抜きにした。

ワジ(涸川)のほとりがスペシャル・ステージのゴール地点。そこでカードにタイムを記入してもらう。ワジに沿って集落があり、風にそよぐナツメヤシの葉を見て、サハラ砂漠に入ったという感を深くした。

▲ここは最初のスペシャル・ステージのゴール地点。ナツメヤシの木の下で小休止

午後はサハラのオアシス、タグワットの町から160キロ間のスペシャル・ステージ。サハラのピスト(ダート)は千差万別で、砂の深い道、砂丘と砂丘の間を縫う道、地平線の果てまでもまっ平な道、石のゴロゴロした道と、次々に変化していく。

どのバイクも40リッター前後のビッグ・タンクを搭載しているので、前輪に負担がかかるからなのだろう、石とか岩の多いピストではフロント・タイヤのパンクしたバイクを何台も見かけた。

夕方、ゲララの町の入口に到着。ここがスペシャル・ステージのゴール地点で、カードにタイムを記入してもらう。

しかし、ゲララで一日の行程が終了するわけではない。
この日の目的地ハシメサウドまでは、まだ300キロ以上もある。舗装路に出るまでの60キロは難路だった。ルートははっきりしないので、道なき道を行くようなものだ。

地図を見ると南南西に行かなくてはならないのに、実際に走っているのは西、ともすれば北西になってしまう。何度も道を間違えたのではないかと思いDRを止め、そのたびにコンパスと地図を見比べた。やがて道らしき道で南に向かうようになり、安堵の胸をなでおろした。

夕暮れが迫るころ、まっ平な砂漠に出た。はるか前方のバイクやクルマ、また後方からやってくるバイクやクルマが、地平線にたなびくように砂けむりを巻き上げて走っている。胸にジーンとくる光景。やがて夕日が地平線に落ちていく。
舗装路に出た。夜道を走り、ワルグラの町を通り、24時過ぎにハシメサウドに到着。1日の走行距離は630キロ。ここはサハラ砂漠の油田地帯の中心地で、ガスを燃やす炎が夜空を赤く染めていた。

▲ハシメサウドに到着。ここがカソリ&カザマの一夜の宿。砂漠でゴロ寝。油田の炎が見えている

1月6日。朝食時にハシメサウドまでの成績が発表されたが、風間さんは60位、カソリは79位と順位を上げた。
ハシメサウドから南下する道はグラン・エルグ・オリエンタル(東方大砂丘群)と呼ばれる大砂丘地帯。果てしなくつづく金色の砂丘のあまりの美しさに、DRに乗りながらも心を奪われてしまう。風間さんと砂丘をバックにして記念写真を撮ったりもした。

▲ハシメサウドをスタート

▲グラン・エルグ・オリエンタル(東方大砂丘群)の砂丘をバックに、「チーム・ホライゾン」の2台のDR500を並べる

この日のコースは楽なもので、舗装路を350キロ走り、60キロのピストでのスペシャル・ステージがあるだけだ。しかし、この60キロのピストがクセ者だった。規則正しく小刻みに波打つ洗濯板状の道で、それを高速で突っ走るので、フロントのサスをやられたバイクが多かった。

スペシャル・ステージのゴール地点がその日のキャンプ地のカトルシェマン。パリを出てから初めて、まだ日のあるうちに1日の行程を走り終えた。

夕食のあとは毎日の日課になっているDRの整備だ。事故で大きなダメージを受けたDRはけなげにも、じつによく走ってくれている。DRの整備が終わると、砂の上にシュラフを敷き、満天の星空を見上げながら眠るのだ。

▲カトルシェマンにゴール。パリを出てから初めて、まだ日のあるうちに1日の行程を走り終えた。

▲カトルシェマン到着を喜ぶカソリ&カザマ

1月7日。この日はカトルシェマンからティットまでの707キロのコース。そのうちの570キロのピストがスペシャル・ステージ。大きな難関だ。距離が長いし、幹線道路ではないので、道を間違える危険性がきわめて高い。運を天にまかせるような気持ちでスタートした。

最初のうちは石のゴロゴロした道だったが、そのうちにまっ平な砂漠になり、地平線を目指して突っ走る。ドラムカンを置いたり、ケルンを積み上げたり、鉄製の道標の立つルートはあるが、それを無視して走る。ルートは路面が荒れていて走りにくいことこの上もない。とはいっても、絶えずルートを確認しながら走らなくてはならない。ルートを見失うことは即、サハラでの遭難につながってしまうからだ。

中間地点ではタンクローリーで給油。バイクの長い列ができている。並んでいる間にクッキーとデーツ(ナツメヤシの実)、ジュースの昼食を食べる。昼食兼給油のつかのまの休憩のあとは、ふたたび地平線を目指して走りつづける。

▲「カトルシェマン→ティット」間では中間点にタンクローリーが出た

▲1台1台、ビッグタンクにバケツ給油してもらう

午後になると、バイクのあとにスタートしたクルマに追い抜かれるようになる。
追い抜かれるたびに土けむりに巻き込まれ、一瞬、何も見えなくなる。
恐怖の土けむり。2台で競い合っていたバイクがクルマに追い抜かれ、土けむりの中で衝突した。先行するバイクがブレーキをかけたのだろうか、後方のバイクがぶつかり、2台ともものすごい勢いで吹っ飛んだ。それを目の当たりにして「次は自分の番だな」といった恐怖感を味わうのだった。

この日の午後には、XT570に乗るオランダ人ライダーが平原のギャップにはまり、50メートルあまりも吹っ飛んで死亡した。真昼のサハラの太陽光線は強烈で、大地を焼き尽くすだけでなく、すべての色が消え、まっ白に見えてしまう。
そのため時速140キロとか150キロという高速で平原を走っていると、ギャップに気づかずにそのまま突っ込み、バイクは大きく吹っ飛ばされてしまう。このオランダ人ライダーをふくめて第4回大会では4人が死んだ。

夕日が西の空に傾いてきたころ、ホガール山地の岩山が見えてくる。平坦なサハラにポコッ、ポコッといった感じでいろいろな形をした岩山がのっている。そのような岩山地帯を縫って走りつづけた。

DR500はほんとうによく走ってくれた。
オルレアンでの事故の影響などまるで感じさせないような走りだ。コースの途中ではトラブルに見舞われて、立ち往生しているバイクを何台も見かけた。前年優勝のオリオールのBMWもリタイアした。
それなのに歪んだスイングアーム、ホイール、ショックアブソーバーでこれだけ走るのだから、「DR500は世界最強のオフロードバイクだ!」と、みんなに自慢しくなる。

日暮れ前に、イン・エケールのスペシャル・ステージのゴールに到着。思わず「ヤッタゼ!」と、ガッツポーズをするカソリ。
イン・エケールからタマンラセットに通じるN1(国道1号)を130キロ走り、キャンプ地のティットに着いた。大きな難関を突破した。

▲ティットに到着。バイクの整備がすぐに始まる。ここはソノト・ヤマハの修理工場

▲サハラの夜は強烈な冷え込み。焚き火がありがたい

1月8日。朝食時にティットまでの成績が発表された。風間深志49位、賀曽利隆52位。我々はまたしても大幅に順位を上げた。
この日のコースは、ティットからマリ国境に近いティミアウンまでの537キロ。全コースがスペシャル・ステージで、その間のタイムを競う。ルートは前日よりもさらに心もとないピストで、ティミアウンまでのルートを走り切れるかどうかが、今回の「パリ→ダカール・ラリー」の勝負を決めるといわれていた。(世界中で大騒ぎになったイギリスのサッチャー首相の息子、マーク・サッチャーの遭難や前年2位のソノト・ヤマハのバクーの遭難を含め、3台のクルマ、3台のバイクがこの区間で遭難した)

▲最大の難関の「ティット→ティミアウン」を行く

いつもどおり8時のスタート。この日も中間地点にタンクローリーが出ている。その給油地点では長いバイクの列ができてしまうので、そこに着くまでに1台でも多くのバイクを追い抜こうと、焦る気持ちを抑えきれずにDR500を走らせる。

▲サハラを疾走するバイクが1台

知らず知らずのうちに、すっかり「パリ→ダカール・ラリー」のペースに飲み込まれている自分を感じた。
あと2、30キロで給油地点という砂深いところでは、落ちついてルートを見極めればどうということもなかったのだが、一刻も速く給油地点に着きたかったばかりに闇雲に砂の海に突っ込んだ。
ハンドルをとられて転倒。そのあとなかなかエンジンがかからず、せっかく追い抜いた何台ものバイクにまた抜かれてしまった。

給油地点からティミアウンまでの後半戦は疲れ果ててしまった。
太陽光線の強さはこれまでとは比べものにならないほど強く、白く輝く太陽がすべてのものから色を奪ってしまう。そのため砂漠は凹凸をなくし、すべてがのっぺりとして見えてしまう。砂の深いところでは凹凸が見えないので、ルートを選べないまま砂にハンドルをとられて転倒。転倒すると疲労感が増し、また転倒といった悪循環を繰り返した。

転倒して、砂の海に投げ出された拍子に口の中まで砂が入ったときは、ペッ、ペッと砂を吐き出しながら、「自分はいったい何をしているのだろう…」といった虚しい気持ちに襲われた。

▲「カソリ号」のDR500はサイドスタンドが折れ曲がって使えない。道標に立てかけて止まる

▲「ティット→ティミアウン」間でも中間点にタンクローリーが出た

この「パリ→ダカール・ラリー」は、ぼくにとっては第10回目の「サハラ砂漠縦断」になる。それまでの胸を焼き焦がすような「サハラ旅」が無性になつかしく思い出された。一望千里の砂の海で、「あ~、自由な旅をしたい!」と、悲痛な声を上げるカソリだった。
537キロを走り切り、夕方ティミアウンに着いたときは、口をきけないほどに疲れ果てていた。

▲ティミアウンに到着。「おやすみなさ~い!」

1月9日。サハラの冷気で目覚めると、ぼくはすっかり回復していた。またしても一晩の眠りの威力を強く感じた。眠れば、人間の体というのはリセットされるものなのだ。

心身ともにさわやかで、「今日もやってやる!」と、体の芯から力が湧いてきた。
朝食時に、ティムアウンまでの成績が発表された。
その結果がよけいにぼくを喜ばせた。1位はフランス・ホンダのリゴニでタイムは14時間12分52秒。カソリは23時間03分23秒で38位に上がっていた。トップから40時間の差がつくと失格になるのだが、まだ10時間以内でつけている。

風間さんはティット→ティミアウン間のチェック・ポイントをミスして5時間のペナルティーを食らい、55位と順位を下げた。

ぼくは自分自身の気持ちの変化に信じられないような思いがした。
「パリ→ダカール・ラリー」の出発前までは「成績なんて、順位なんて、どうでもいい。タイム・オーバーで失格したって、ダカールまで走り切れればそれでいい」と、思っていた。
それだから最初は120位だったときも、別にどうということはなかった。
ところが120位から79位、52位、38位と順位が上がっていくと、「1分でも、1秒でも速く走りたい。少しでも順位を上げたい」ということしか、頭になくなってしまった。

そんな心のはやり、焦りによって、カソリは危うく命を落とすことになる。

次回:「パリ→ダカール・ラリー参戦記4」(1982年)

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