
【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】
1982年の第4回「パリ→ダカール・ラリー」に賀曽利隆と風間深志は「チーム・ホライゾン(地平線)」を結成して、スズキDR500で参戦した。
1982年1月1日9時、パリのコンコルド広場を出発すると、N20(国道20号)を南へ。150キロ南のオルレアンの町を通過したところに、オリベの陸軍演習場がある。そこがスペシャル・ステージで、タイム・トライアルのコースになっている。
▲パリを出発。N20(国道20号)を南へ、オルレアンからトゥールーズに向かった。この地図は「パリ→ダカール・ラリー」で実際に使った「ミッシェラン916」の「フランス」
▲N20(国道20号)を走っていると、何度も何度もサハラ砂漠の大砂丘群の風景が目に浮かんでくるのだった
カソリが先行し、風間さんが後方について走った。ところがここで、風間さんはオリベに入る道を通り過ぎてしまった。あわてて彼を追いかけて停めるとUターンし、もう一度、Uターンしようとした。
オルレアン郊外のN20は道幅が広く、片側3車線の準高速道路といった幹線。路肩で十分に安全を確認してから出ればよかったのだが、すこしでも早くUターンしようと、右端(フランスは右側通行)の車線に入ってしまった。
こっちに向かってくるバイクは気になったが、
「まさかDR500が見えないはずはない、きっと内側の車線に移っていくに違いない」
と、思い込んでしまった。
「あ、なんだ、なんだ、オイ。なんだよ。こっちへ突っ込んでくる!」
逃げようとしたときは、もうすでに遅かった。
N20のこの区間の制限速度は110キロ。そのバイクは100キロ前後の速度で、一直線にDR500に向かってきたのだ。そしてほとんどノーブレーキのままDR500に激突した。
激しい衝撃とともに、ぼくもDR500も吹き飛ばされ、宙に舞い、路面にたたきつけられた。相手のバイクは遥か先の方で、原型をとどめないほどクシャクシャになってころがっていた。相手はタンデム。リアには若い女性が乗っていた。2人ともバイクにはよっぽど慣れていたのだろう、転倒するのと同時にきれいに受け身をとり、無傷同然。それが何ともラッキーなことだった。バイクはヤマハのXS1100の新車。ライダーは反対側車線を走る「パリ→ダカール・ラリー」のバイクやクルマに目を奪われ、前方を見ていなかった。
すぐさまパトカーが2台、3台とやって来た。救急車も2台、やって来た。
「もう、パリ→ダカール・ラリーどころではないな…」
ぼくは絶望的な気分に陥った。全身を突き抜ける猛烈な痛みが絶望感に追い打ちをかける。警官には早口でいろいろと聞かれたが、ぼくのカタコトのフランス語ではついていけない。
その間に風間さんはDR500を見てくれている。一番心配した37リッターのビッグ・タンクはアルミとグラスファイバーの二重構造にしたおかげで、タンク左側のグラスファイバーは割れたが、内側のアルミは無事だ。後輪にぶつけられたので、スイングアームやホイール、ショックアブソーバーにゆがみが出ているが、そのほかは問題ない。DR500は驚くほど強靭なバイクだ。
カソリはといえば、宙に浮いてアスファルトにたたきつけられたので、腰から右膝にかけて、ジーンと痺れるような痛みがある。右足首もやられたが骨折はしていない。
さすが「強運カソリ」。あと30センチ内側にぶつけられていたら、こうはいかなかった。それこそひとたまりもなかった。「30センチ」の差で助かったのだ。
だが「泣きっ面に蜂」とはこのことだ。
DR500の後輪にはクギが刺さっていた。
それを引き抜くと、まるでぼくたちをあざ笑うかのように、「シューッ」と音をたてて空気が抜けていく。風間さんはすぐさまタイヤ・パンドを買いに行ってくれた。
事故現場に「パリ→ダカール・ラリー」を主催するTSO(テリー・サビーヌ・オルガニザシオン)の車が通りかかり、テリー・サビーヌ本人が乗っていた。信じられないことだが、彼の一声で、すべてがスムーズに運ぶことになった。相手の事故車両はTSOの保険でカバーされるという。オルレアンでのリタイアも覚悟したが、、警官は「もう行っていい」と信じられないようなことを言う。調書を取られることもなかった。
レッカー車がやってくると、スクラップ同然になったXS1100を積み込み、彼ら2人はパトカーに乗り込んだ。残りのパトカーと救急車は引き上げた。テリー・サビーヌの乗ったTSOの車も走り去っていった。
風間さんが戻ってくると、タイヤ・パンドでパンクを直し、ぼくたちもスタートした。 しかしDR500の受けたダメージは大きく、ぼく自身の受けたダメージも大きく、再スタートは厳しいものになった。
▲「チーム・ホライゾン」の賀曽利隆と風間深志。カソリは初っ端で大事故。全身を痛めて足を引きずっている。左は「ディージョン・スズキ」のフィリップ・ジョアノー
スペシャル・ステージのオリベの入口で、タイム・コントロールがあった。
パリからオルレアンまでは150キロだが、その間を3時間で走るように指示されていた。ぼくたちは事故で1時間以上もロスしたが、規定時間よりは17分、遅れただけですんだ。その分だけペナルティーでタイムを加算されていくのだが、ここでもし1時間以上遅れていたら、15時間のペナルティーを食らうところだった。
オリベのスペシャル・ステージは全長6キロ。陸軍の演習地内のコースだが、沼のような水たまりを走り抜け、戦車道を駆け抜ける。ここでもコースのまわりには大勢の観客がつめかけていた。
オリベを出発。ここから南フランスのニームまでは850キロ。その間を21時間で走らなくてはならない。つまりパリからニームまでの1000キロを24時間で走れという指示だ。フランス内でのステージは足慣らしのつもりだったが、事故で大きなダメージを受けて、何ともきついものになった。
N20(国道20号)を南へ。シャトルー、リモージュと通り、トゥールーズを目指した。沿道はどこも大勢の見物人。町に入ると、皆、手を振って歓迎してくれた。
途中の小さな町ではカフェに入った。コーヒーを飲み、フランスパンにハムをはさんで食べた。このわずかな小休止で生き返った。
夕方になると雨が降り出してきた。寒さが身にこたえた。
ライトを点灯したが、「しまった!」と、ライトの暗さに背筋が凍りついてしまう。
日本を出発するまでの間は、ほとんど時間がなかった。時間がないままにDR500をパリに空輸したので、ライトまでは手がまわらなかったのだ。このライトの暗さが致命傷になるのではないか…といった漠然とした不安が、その時、頭をかすめた。
真夜中、トゥールーズに到着。ザーザー降りの雨だ。大勢の人たちに囲まれてチェック・ポイントでタイムカードにスタンプを押してもらう。このスタンプが「確かにチェック・ポイントを通過しましたよ」という証明になる。スタンプをもらいそこねると5時間のペナルティーを食らうことになる。
トゥールーズのチェック・ポイントには休憩所があり、そこではコーヒーと軽食のサービスを受けられた。コーヒーを飲み、サンドイッチを食べ、オレンジを食べたあと、テント内で30分ほど仮眠した。
オルレアンの事故で路面にたたきつけられた痛みが、ズキーン、ズキーン、ズキーンと、全身を突き抜けてくる。最初のうちは右半身全体が痛かったが、時間がたつにつれて腰の周辺と膝の周辺に、痛みが収れんしてきた。
「30分寝」で元気を取り戻すと、降りつづく雨の中を走り出す。
「ニームまであと300キロ、がんばろう!」
と、風間さんと励まし合った。
トゥールーズからはN113(国道113号)を行く。
ナルボーン、モンペリエを通り、ニームを目指す。
1982年1月2日5時、パリから1000キロのニームに到着。
ニーム郊外のガリゲ丘陵へ。ガリゲのモトクロスコースがスペシャル・ステージになっている。それを見るため、泊まりがけで大勢の人たちが集まっている。ここでも「パリ→ダカール・ラリー」の人気ぶりを見せつけられた。
▲パリから1000キロ、南フランス・ニーム郊外のガリゲ丘陵に到着
▲オルレアンでの事故にもめげず、けなげにも走りつづける「カソリ号」のDR500
ガリゲの朝は寒い。厳しい底冷え。チェック・ポイントでタイムカードにスタンプをもらったあと、8時、スペシャル・ステージの開始。全長14キロの山あり谷ありのモトクロス・コースでタイムを競った。
ガリゲのタイム・トライアルが終わると、ニームの町に入っていく。ガソリンスタンドでDR500をきれいに洗い、満タンにする。
ニームから地中海の港町セテへ。セテの空は青く、明るい日差しが射している。北フランスと南フランスの違いを実感した。セテ港に到着すると、風間さんとカフェに入り、ビールで乾杯。苦しみながらも、とにかくフランスのステージを走りきったのだ。
セテ港には大勢の観衆が押しかけていた。身動きがとれないほどの人の波。大群衆をかきわけ、かきわけしながらアルジェリア船籍のフェリー「ティパサ号」に乗り込んだ。
フランスから舞台をアフリカ大陸に移すのだ。
「待ってろよ~!」
と、カソリ、サハラに向かって叫んでやった。
▲セテ港には大観衆が押し寄せていた。ものすごいパリダカ人気!
▲セテ港でアルジェリア船籍のフェリー「ティパサ号」に乗り込む
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