【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】

▲賀曽利隆と風間深志の「チーム・ホライゾン」。スズキDR500で「第4回パリ→ダカール・ラリー(1982年)」に参戦

1980年、鈴木忠男さん、風間深志さん、賀曽利隆の3人で「チーム・キリマンジャロ」を結成し、アフリカ大陸の最高峰、キリマンジャロ(5895m)にホンダXR200で挑戦した。

その2年後、今度は「チーム・キリマンジャロ」を「チーム・ホライゾン(地平線)」に変えて、スズキDR500で「パリ→ダカール・ラリー」に参戦することにした。しかし出発間際になって、鈴木忠男さんは東京・上野に新しい店をオープンさせたので、残念ながら出場を断念。「チーム・ホライゾン」は3人が2人になった。

カソリ&カザマは1981年12月22日に東京を出発。パリに飛ぶと、2台のDR500を引き取った。

▲パリの「フランス・スズキ」でDR500を引き取る

▲DR500との再会を喜ぶ風間さん。右は「フランス・スズキ」のマルク

▲これがDR500の強靭なエンジン

▲DR500には37リッターの超ビッグタンクを搭載

クリスマス休暇に入ると、すべてが休みになってしまうので身動きがとれず、我々は観光を楽しむことにした。
まずは「パリ探訪」だ。
パリのシンボルのエッフェル塔に登り、パリの町を一望すると、「パリ→ダカール・ラリー」のコースにもなっているコンコルド広場からシャンゼリゼ通りを歩き、凱旋門を一周した。

▲「パリ探訪」の開始。まずはパリのシンボルのエッフェル塔に登る

▲エッフェル塔から見下ろすセーヌ川の流れ

▲シャンゼリゼ通りを歩く。正面に凱旋門が見えている

▲凱旋門をひとまわりする

次は鉄道旅だ。
パリのターミナル、モンパルナス駅からは列車に乗った。スペインの国境の町、イルンへ。イルンから首都マドリッドへ。クリスマスでにぎわうマドリッドの町を歩いてまわった。

▲モンパルナス駅から列車に乗った。クリスマス休暇の「鉄道旅」

▲スペインの国境の町イルンから首都のマドリッドに向かう

▲クリスマスで大にぎわいのマドリッド

▲スペイン製のバイクに乗って喜ぶ風間さん

パリに戻ると、「24時間耐久レース」で知られるルマンまで、試乗を兼ねてDR500を走らせる。500キロの「ルマン往復」だった。

▲「フランス・スズキ」のみなさんに見送られてパリを出発。DR500の試乗開始!

▲パリからルマンへ。N23(国道23号)をひた走る

▲DR500の37リッタータンクを満タンにする

▲パリから250キロ走ってルマンに到着。ルマンの町を歩く

1981年の大晦日、カソリ&カザマはモンパルナス駅に近い安ホテルに泊まった。
我々は「パリ→ダカール・ラリー」には、1979年に始まったときから興味を持っていた。風間さんはバイク誌の編集者らしい感性で、当時の日本ではまだほとんど知られていなかったこのレースに大きな将来性を感じていた。それを実際に自分で体験してみたかったのだ。

カソリは「パリ→ダカール・ラリー」よりも、むしろその前におこなわれた「アビジャン→ニース」により強い興味を持っていた。1977年と78年の2回にわたっておこなわれた「アビジャン→ニース」こそが、「パリ→ダカール・ラリー」の原点なのだ。

「アビジャン→ニース」の出発点は、西アフリカ・コートジボアールの首都アビジャン。サハラ砂漠を縦断し、北アフリカ・チュニジアの首都チュニスから地中海を渡り、南フランスのニースをゴールにするというものだった。トラックだろうが、クルマだろうが、バイクだろうが、スクーターだろうが、走れるものなら何でも出場できた。

ぼくはそれまでに何度か、サハラ砂漠を縦断していた。
「サハラは俺の庭だ!」ぐらいに思っていた「サハラのカソリ」だったので、「アビジャン→ニース・ラリー」を知ったときはびっくりした。そして驚くのと同時に、「フランス人、やるな!」という賞賛の気持ちをも持った。「アビジャン→ニース」に2度、スクーターで参加したのがテリー・サビーヌだ。彼は参加者から主催者になって、「パリ→ダカール・ラリー」を始めた。
このようないきさつがあったので、ぼくは「パリ→ダカール・ラリー」は第1回大会から、特別な興味を持っていた。

我々は「キリマンジャロ挑戦」を終えて帰国すると、すぐに「チーム・ホライゾン」を作り、「パリ→ダカール・ラリー」への参戦を目指した。
我々の「パリ→ダカール・ラリー」への参戦には、スズキが全面的にサポートしてくれた。スズキは700万円ほどの資金とアメリカ市場向けのDR500 3台を提供してくれた。そのおかげで1982年の「第4回パリ→ダカール・ラリー」に参戦できたのだ。カソリ&カザマは日本人としては、初めての2輪での参戦になる。

大晦日から新年にかけてのモンパルナス駅の周辺は、一晩中、大騒ぎ。大通りを行き来する車は新年を祝ってクラクションを鳴らし、さらに爆竹を鳴らしたりするので、あまりよく眠れない。もっとも、よく眠れなかったのは騒音のせいばかりではなく、「いよいよスタートだ!」という緊張感があったからなのだろう。

1982年1月1日午前5時、モトクロス・パンツをはき、ブーツをはき、ゴアテックスのジャケットを着て外に出る。
「カソリさん、俺、いい夢見たよ。2人で17位、18位に入ってさ、ダカールで大喜びしている夢なんだ」
と、風間さんは夢のようなことをいう。
このときは軽く聞き流したが、夢の半分は現実(風間さんは見事に完走し、500ccクラスで6位、総合18位という好成績を残すことになる)のものとなるのだから、風間深志は神がかりのような人間だ。

モンパルナス駅は東京でいえば、上野駅のような感じがする。地下鉄でスタート地点のコンコルド広場へ。そこには「パリ→ダカール・ラリー」に参加するバイクやサイドカー、クルマ、トラック400台あまりの車両がズラズラッと並び、思わず息を飲むほどの壮観な光景が展開されていた。

時間は7時を過ぎたが、まだまっ暗。会場には大勢の見物人がつめかけている。
あちこちでまぶしいくらいにフラッシュが光る。
人垣をかきわけて、ぼくたちのDR500のところへ行く。
37リッターのビッグタンクを搭載したDR500はひときわ頼もしく見えた。
カソリ&カザマは初めて参戦する日本人ライダーということで、プレスや多くの見物人たちに写真を取られた。
「これじゃー、まるで英雄になったみたいだな」と風間さん。
「そうだよ、英雄、英雄。エセ英雄だよ」とカソリ。
2人はコンコルド広場で大笑いした。

バイクの参加台数は全部で131台。クラス分けは125cc以下、126~250cc、251cc~500cc、500cc以上、サイドカーと5部門に分かれていたが、125ccクラスの参加は1台もなかった。参加台数の半分以上は500ccで、250ccが20台、500cc以上が40台。

レース前の下馬評では、優勝候補の筆頭はフランス・ホンダのヌブー、リゴニ、バサード、ドロベック、デシュールの5人で、彼らはXR550に乗る。それを4台のランドクルーザーと2台のオーストリア製六輪駆動車ピンズガーがサポートについている。これらサポートカーも形の上ではレースの参加車だが、もっぱら5台のバイクをサポートする。フランス・ホンダはものすごい物量作戦で「パリ→ダカール・ラリー」に臨んでいるのがよくわかった。
フランス・ホンダのヌブーは過去2回、ヤマハ車で優勝している。彼も「アビジャン→ニース」には、スクーターで参加した。

つづいてはBMWチームのオリオール、フェノウリ、ロイザックの3人で、3台のBMW980GSでの参戦だ。オリオールは前年の優勝者。BMWチームには3台のサポートカーがついている。

3番手の強力チームはソノト・ヤマハ。バクー、メレール、ミンゲルの3人がXT570で参戦する。バクーは前年2位。ソノト・ヤマハにも3台のサポート車がついている。

優勝者がこれらファクトリー・チームから出るのは目に見えていた。大物量作戦のメーカーチームにプライベートの参加者が、かなうはずはない。同じ土俵で大人と子供が相撲を取るようなものだ。
参加者を国別で見るとフランス人が圧倒的に多い。そのほかはベルギー人、オランダ人、ドイツ人、イタリア人、スペイン人、スイス人、日本人の順になる。

8時、いよいよスタートだ。
空は若干、うす明るくなっている。
テレビ・カメラ用のライトがこうこうと照り輝き、ラジオの中継放送ががなりたてる中、ゼッケン1番から順々にスタートしていく。
風間さんは81番、カソリは82番。ぼくたちのスタート時間は9時近くになってからだった。
やっと明るくなってくる。しかし冬のパリはそれまでの何日かと同じように、どんよりとした厚い雲に覆われている。
まずは81番の風間さんがスタート。つづいてカソリの番だ。
「チーム・オリゾン(ホライゾンの仏語発音)、ジャポネ(日本人)、タカシ・カソリ」 とアナウンスされる。
「5、4、3、2、1」
と、カウントダウンされ、いよいよスタートだ。

オベリスクの立つコンコルド広場を後にすると、見物人で埋めつくされたシャンゼリゼ通りを走り抜けていく。それにしてもすさまじい数の見物人。凱旋門をぐるりとひと回りし、環状線からN20(国道20号)に入っていく。

N20を南下し、オルレアンに向かっていく。交差点とか歩道橋の上には大勢の見物人。信じられないような光景で、フランス中が「パリ→ダカール・ラリー」に沸き立ち、熱狂的な声援を送ってくれているのがよくわかった。

次回:「パリ→ダカール・ラリー参戦記2」(1982年)

この記事にいいねする


コメントを残す