
【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】
9月18日10時15分、四国の4端を踏破し、意気揚々とした気分で徳島に戻ってきた。徳島駅前から徳島港へ。「南海フェリー」の和歌山港行に乗船。11時00分、徳島港を出港。船内で昼食の弁当を食べ、そのあとひと眠り。これがフェリー旅の良さというものだ。
▲徳島港のフェリーターミナルに到着
和歌山港到着は13時05分。和歌山港から本州最南端の潮岬に向かった。
和歌山の町を走り抜け、和歌山ICから高速に入る。阪和道→紀勢道と、Vストローム250を走らせ、終点のすさみ南ICで高速道を降りる。そこから国道42号で串本へ。JR紀勢本線の串本駅前で止まり、ひと息入れた。
▲JR紀勢本線の串本駅。ここから潮岬へ
串本駅前から本州最南端の潮岬へ。本州最南端の潮岬到着は16時。和歌山から150キロ。ここが「西日本編」最後の第10端目になる。
広々とした岬の園地を歩き、新旧2つの「本州最南端碑」を見る。展望台に立ち、潮岬突端のゴツゴツした岩場を見る。太平洋の水平線上を大型の貨物船が通り過ぎていく。
つづいて潮岬灯台へ。ここは登れる灯台だが、残念ながらすでに閉まっていた。灯台入口の手前には潮御崎神社の石柱。そこから参道を歩き、潮御崎神社を参拝する。台風銀座の潮岬だけあって潮御崎神社は防風林と丸石を積み上げた石垣で囲まれている。
▲潮岬の灯台。ここは上まで登れる
潮岬周辺の旧潮岬村は、移民の盛んな村として知られていた。明治17年の木曜島(オーストラリア)への移民を皮切りに、ジャワ島、フィリピン、ブラジル、ハワイと、戦前までに500人以上の村人たちが海を越えて移り住んでいった。その中でもオーストラリアへの移民が一番多く、大半は木曜島への移民で、アラフラ海で真珠貝を採った。
昭和9年には直接アラフラ海に出漁するようになり、それ以降、村は「アラフラ景気」に沸いた。昭和13年にはアラフラ船団のうち2隻が遭難し、死者40人という大惨事が起きた。それにもかかわらずアラフラ海への出漁は昭和36年までつづいた。潮岬にはそのような歴史がある。
夕暮れの潮岬を後にして串本に戻ったが、1時間半をかけての「串本~潮岬」の往復は心に残るものだった。
串本から国道42号を行く。夕暮れの橋杭岩を見て、JR紀勢本線那智駅の駅舎温泉「丹敷の湯」に入り、19時、新宮に到着。飛び込みで国道42号沿いの「新宮セントラルホテル」に泊まった。高松から新宮までは405キロ。夕食のコンビニ弁当をホテルの部屋で食べた。
9月19日午前5時、新宮を出発。国道42号で熊野川を渡って三重県に入る。熊野、尾鷲と通り、紀伊長島から荷坂峠を越える。三重県は旧国でいうと紀伊、伊勢、志摩、伊賀の4国からなっているが、荷坂峠は紀伊と伊勢の紀勢国境の峠。荷坂峠を越えると伊勢になる。
紀勢大内山ICで紀勢道に入り、勢和多気JCTから伊勢道で伊勢へ。伊勢神宮内宮を参拝し、門前で赤福を食べる。
伊勢から志摩に入ると鳥羽港へ。9時30分発の伊勢湾フェリーに乗船。10時30分には渥美半島突端の伊良湖港に到着した。
伊良湖岬を歩いたあと、国道42号で渥美半島を横断し、静岡県に入る。
国道1号に合流し、浜松ICから東名に入る。愛鷹PAで黒はんぺんの唐揚げと釜揚げシラスがのった「黒はん丼」を食べ、「神奈川県に入り、厚木ICで東名を降りた。ひと晩、伊勢原の自宅に泊まったが、このままゴールの日本橋にまっすぐ向かわないところがカソリ旅なのだ。
9月20日午前5時、伊勢原を出発。いよいよ今日が「西日本編」の最終日だ。平塚から国道134号で鎌倉、逗子を通って三浦半島に入っていく。久里浜港7時20分発の「東京湾フェリー」に乗って対岸の金谷港へ。8時には金谷港に到着だ。
金谷からは国道127号を南下し、房総半島の岬めぐりを開始する。
第1番目は房総国境の明鐘岬だ。普段、あまり意味を考えないで「房総」を使っているが、「房総」は北の上総と南の安房の合成語(総国が二分されて上総と下総の2国になった)。房総国境は鋸山から清澄山につづく房総丘陵の稜線。この房総国境を越えて安房に入ると、日の光が強くなり、山々の緑は濃くなる。
それにしても国道127号沿いの光景はすさまじいものだった。台風15号で屋根を飛ばされたり、屋根を破損された家々がつづく。多くの家々の屋根にはブルーシートがかけられている。台風15号から何日もたっているのに、いまだに停電がつづいている。「災害派遣」の自衛隊の車両が国道127号を頻繁に往来していた。
8時45分、館山に到着。このあたりが台風15号の被害を一番、受けたように見える。今年は千葉県にとって最悪の年になってしまったが、台風15号のみならず、この後の台風19号、台風21号でも甚大な被害を受け、トリプルパンチをくらってしまった。
館山からは海沿いの県道257号で房総半島南西端の洲崎へ。東京湾岸の「内房」と太平洋岸の「外房」はここで分かれる。岬はこのように大きな境目になる。灯台からは三浦半島や伊豆半島、伊豆大島、富士山を眺める。
洲崎の灯台も台風15号で大きな被害を受けて修理中。灯台入口の「森田屋商店」は休業中だ。屋根瓦が飛ばされ、屋根にはブルーシートが張られている。洲崎に来ると、いつもここで自家製の「ところてん」を食べていたので残念…。洲崎の周辺では「ところてん」の原料となるテングサがよく採れるのだ。
洲崎近くの洲崎神社は安房の一宮。急な石段を登って参拝する。境内の御手洗山は斧のまったく入らない自然林。山の下半分はシイやカシ、上半分はヒメユズリハなどの照葉樹林に覆われ、光り輝く緑をつくっている。この御手洗山は千葉県でも一番といっていいほどの自然林の山になっている。
▲洲崎の洲崎神社。ここは安房の一宮
洲崎から外房海岸の房総フラワーラインを走り、国道410号に出る。この交差点近くにある安房神社も安房の一宮だ。
洲崎から房総半島最南端の野島崎までのシーサイドランは楽しめる。切る風に黒潮の香りをかぎながら走る気分は最高。10時、野島崎に到着。野島崎は地名通りで、もともとは「野島」という島だった。それが元禄大地震(1703年)で陸地につながった。さらに関東大震災で隆起し、岬周辺の岩礁地帯が生まれた。
野島崎では漁港の岸壁に立って漁船を眺め、岬の厳島神社に参拝する。見事な男根と貝の女陰が奉納されている。そして灯台へ。漁港と神社と灯台は岬の3点セット。
▲野島崎の灯台
「野島埼灯台」には登れる。灯台の上から白浜海岸を一望する。名前は白浜だが海岸線は黒浜だ。それでも白浜なのは、この地が紀州の白浜と黒潮で結びついているからなのだろう。南紀の白浜の漁民が黒潮に乗って移住し、進んだ紀州の漁法を房州にもたらした。黒潮でつながっている紀州と房州は「黒潮文化圏」。
野島崎を出発。海沿いの道を走り、国道128号に合流。鴨川の手前の太海には、外房海岸で唯一の渡れる島、仁右衛門島がある。太海港から手漕ぎの舟で渡るのだが、仁右衛門島は見るだけにして、太海の食堂「まるよ」で昼食の「冷し中華」を食べた。
鴨川、天津、小湊と通り、安房から上総に入る。
勝浦では勝浦湾の東側に突き出た八幡岬に行く。この岬のおかげで勝浦港は天然の良港になっている。岬の展望台には徳川家康の側室「お万の方」の銅像。要害の地の八幡岬には勝浦城跡があるが、お万の方はこの城の姫だった。落城の際、お万の方は断崖に布をたらし、海上に逃れたといわれている。八幡岬のその断崖は今でも「お万布さらし」といわれているほどだ。
▲八幡岬の「お万の方の像
お万の方といえば、徳川御三家のうち、紀州家の藩祖(頼宣)と水戸家の藩祖(頼房)を産んだ。「お万の方」を通して外房海岸の勝浦と名古屋、水戸がつながっているところが歴史のおもしろさ。もし、お万の方が落城とともに命を落としていたら、今の名古屋や水戸はまったく違う顔になっていたかもしれない。歴史で「もし」を考えるのはなんとも楽しい。これも旅の醍醐味というものだ。
勝浦からは国道297号→国道465号で上総中野駅へ。ここは小湊鉄道といすみ鉄道の終着駅。2本のローカル鉄道が上総中野駅で接続している。
上総中野駅前から養老渓谷に向かった。その途中の店で止まったときのことだ。郵便バイクも止まり、「カソリさ~ん!」と声をかけられた。大多喜郵便局の局員さんだった。うれしいことに「カソリさんに会いたかったんですよ~!」と言ってくれた。
大多喜郵便局の局員さんはいったん退職して、セローで長年の夢だった「日本一周」を成しとげた。「日本一周」を終えると復職し、仕事をしながら、次の「日本一周」を計画しているという。「ぜひとも2度目の日本一周も成しとげてくださいね!」とエールを送った。
「日本一周談義」で大盛り上がりしたところで、大多喜郵便局の局員さんは、何とその店で買ったバームクーヘン、フルーツとクルミのケーキ、カロリーメイト、ワンダ(缶コーヒー)、伊右衛門茶の差し入れをしてくれた。店の前で別れたが、小湊鉄道の養老渓谷駅前でVストローム250を止めると、局員さんの差し入れをいただいた。胸がジーンとしてくる差し入れだった。
養老渓谷を最後に東京へ。県道81号→国道297号で館山道の市原ICへ。京葉道路→東関東道→首都高と高速道を走り繋ぎ、17時、日本橋に到着。「日本16端めぐり」の「西日本編」、これにて終了。9月11日から9月20日までの10日間で4,802キロを走った。Vストローム250には、「次の東日本編もよろしく頼む!」と声をかけるのだった。
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