
【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】
前回:賀曽利隆の「Vストローム250を相棒に 東北一周3000キロ」(2)
8月7日。大間崎の民宿「海翁」の朝食を食べ、7時に出発。大間崎の「本州最北端の碑」前から走り出す。大間の町を走り抜け、国道279号に出ると、フェリー乗り場の大間港まで行った。津軽海峡フェリーの「大間~函館」便は1日2往復で、7時発の函館行きの「大函丸」が出たばかりだった。
▲朝の大間崎。弁天島の大間埼灯台が見えている
この国道279号は大間港で途切れるのではなく、国道フェリーで函館につながっている。国道279号の起点は函館で、大間から大畑、むつ、横浜を通り、野辺地が終点になっている。
大間からは「海峡ライン」の国道338号を南下する。建設中の大間原子力発電所の前を通り、大間町から佐井村に入る。
下北半島の名所、仏ヶ浦への観光船の出る佐井港でVストローム250を止める。「津軽海峡文化館アルサス」には箭根森八幡宮の豪華絢爛の山車が展示されている。
佐井からは海沿いの国道338号を南下。海に落ち込む大岩の願掛岩を過ぎ、長後、福浦の漁港を通り、仏ヶ浦の展望台に出る。そこからは仏ヶ浦の仏像群を思わせる白っぽい大岩を見下ろす。自然の造形美に思わず感動だ。
▲佐井の願掛岩
牛滝との分岐を過ぎると、一気に山上に駆け登り、名無し峠に到達。国道338号はここで右折し、脇野沢に下っていく。
脇野沢に到着したのは10時。ここからはむつ湾フェリーで対岸の蟹田に渡るつもりにしていたが、10時50分発なので、まだ50分ある。50分で下北半島南西端の北海岬までの往復を走る。
行き止まり地点の九艘泊に向かってVストローム250を走らせると、波静かな陸奥湾に浮かぶ鯛島が見えてくる。見れば見るほど鯛にそっくりな形をしている。この島には坂上田村麻呂と村の娘の悲恋伝説が伝わっている。
蝦夷征伐でこの地にやってきた坂上田村麻呂は、村の娘と恋仲になり子を孕ませた。しかし田村麻呂は役目を果たすと都へ戻ってしまい、悲嘆に暮れた娘は子供を生んだ後、自ら命を絶った。哀れんだ村人たちは少しでも田村麻呂に近づけようと、この鯛の形をした島に娘を葬った。ところがその後、鯛島の周辺では海難事故がつづくようになり、娘の祟りだと恐れられるようになった。後の南北朝時代、都落ちした藤原藤房はその話を聞くと、鎮魂のために鯛島に弁天の社を建てたという。
行止り地点の九艘泊漁港まで行くと、漁港の岸壁にVストローム250を止めて歩き、切り立った断崖が海に落ちる北海岬の風景を眺めるのだった。
脇野沢に戻ると、10時50分発のむつ湾フェリー「かもしか」に乗船。津軽半島の蟹田までの1時間の船旅を楽しんだ。
蟹田からは国道280を行く。奥州街道(松前街道)の松並木を走り、霧笛つきの平舘の灯台を過ぎると、津軽海峡越しに北海道が見えてくる。
高野崎ではVストローム250を止めた。赤白2色の灯台の立つ岬の突端からは、白神岬から汐首岬へとつづく北海道の海岸線を一望する。右手には下北半島の大間崎が、左手には津軽半島の龍飛崎が見える。
奥州街道(松前街道)終点の三厩では、JR津軽線の終着駅の三厩駅、三厩漁港と見てまわり、「よしのねの湯」(入浴料300円)に入った。
三厩から国道339号で龍飛崎へ。国道のルートナンバーは下北半島が338号、津軽半島は339号になる。
龍飛崎に到着すると、龍飛漁港の入口に建つ太宰治の『津軽』の文学碑を見る。それには「ここは本州の袋小路だ。読者も銘記せよ。(中略)そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである」と書かれている。
ぼくが初めて龍飛崎に来たのは「30代編日本一周」(1978年)の時だ。その時の龍飛崎はまさに太宰治の言う通りの袋小路で、来た道を戻るしかなかった。しかし今では国道339号の「龍泊ライン」で小泊に抜けられる。
龍飛漁港から自動車道で高さ100メートルほどの海岸段丘上に登る。龍飛崎といえば「階段国道」、日本で唯一の階段国道を歩いてみた。龍飛崎の大駐車場からは岬の灯台へ。その先に海上自衛隊のレーダー基地がある。岬のレーダー基地越しに北海道を見る。龍飛崎は昔も今も北方警備の要衝の地。弘前藩は文化5年(1808年)、ここに台場を築き、狼煙台と砲台を設置した。
龍飛崎を出発。ここからは絶景ルートの「龍泊ライン」を行く。眺瞰台でVストローム250を止め、大展望を楽しんだ。小さくなった龍飛崎を見下ろし、津軽海峡の向こうの北海道を見る。位置を変えると、日本海に下っていく「龍泊ライン」を見下ろせる。細長く延びる小半島の小泊半島と権現崎がよく見える。
「龍泊ライン」で小泊(中泊町)へ。小泊を過ぎたところで、国道339号沿いにある「おさかな海岸」で昼食。「おさかな海岸定食」を食べた。
国道339号と分岐すると、海沿いの十三道(県道12号)で十三へ。十三湖を見る。十三湖は岩木川河口の汽水湖。中世の頃はここに十三湊(とさみなと)があった。北国第一の港で、安東氏の国際貿易港として繁栄を謳歌した。十三の町並みは十三湖と日本海の間に細長くつづく。
十三の町並みを抜けたところで県道12号と分かれ、快走路の広域農道「メロンロード」に入っていく。「メロンロード」を南下するにつれて、「津軽富士」の岩木山(1,624m)が大きく見えてくる。
国道101号に合流すると鰺ヶ沢へ。鰺ヶ沢では鰺ヶ沢漁港前の海の駅「わんど」で「冷やし納豆そば」を食べた。ひきわり納豆ののったそばだ。
鰺ヶ沢からは国道101号を南下する。日本海を右手に見ながら走れる快走路。北金ヶ沢では樹齢1000年以上といわれる日本一の大イチョウを見る。日本海の名所の千畳敷では広々とした千畳敷の岩場を歩いた。
JR五能線の深浦駅前で小休止すると、さらに国道101号を南下。沢辺PAからは白神山地を一望できる。岩崎を通り過ぎ、青森・秋田県境の須郷岬に到達。白神山地の山並みが日本海に落ちる地点で、展望台からは北に延びる海岸線を一望する。
国道101号で秋田県に入った。
道の駅「はちもり」の名水「お殿水」を飲み、八森いさりび温泉「ハタハタ館」の湯に入り、能代に到着。能代郊外の船沢温泉にひと晩、泊まった。
8月8日。船沢温泉の朝湯に入り、朝食を食べ、7時に出発。能代から国道101号で男鹿半島に向かう。「風車街道」といったところで、国道101号沿いには発電用の風車がつづく。
男鹿半島に入ると、まずは寒風山へ。国道101号を左折して、県道55号のワインディングルートで妻恋峠まで登っていく。妻恋峠から標高354メートルの寒風山の山頂へ。そこには回転式の展望台がある。寒風山の山頂からは真山(567m)、本山(715m)、毛無山(677m)の「男鹿三山」がよく見える。目の向きを変えると、秋田の市街地へと延びる海岸線を一望。まるで実物大の地図を見ているかのような壮大な気分になってくる。
寒風山から国道101号に戻ると、「なまはげライン」で男鹿半島最北端の入道崎へ。その途中では、「なまはげ」で知られる真山神社に寄っていく。
▲男鹿半島最北端の入道崎。白黒2色の灯台が見える
真山神社の参拝を終えると、神社に隣りあったなまはげ資料館の「なまはげ館」を見学し、「男鹿真山伝承館」では「なまはげ」の実演を見る。「なまはげ」は大晦日の夜、男鹿半島の広い地域でおこなわれる民俗行事。80近い集落では、それぞれ独自のなまはげの面を持ち、なまはげがおこなわれている。
なまはげは「男鹿三山」に鎮座する神々の化身と信じられている。災いを払い、豊作、豊漁、家内安全をもたらす来訪神として各家々では食事を用意し、なまはげを丁重にもてなしている。
北緯40度線のモニュメントの建つ入道崎に到着。白黒2色の灯台に登り、足下の園地や岬北側の水島を見下ろした。
入道崎のすぐ近くに畠漁港がある。急坂を下って漁港に降りてみた。この一帯はハタハタ漁で知られているが、漁から帰ったばかりの漁師さんは、
「最近は獲れなくなったなあ…」
といって嘆いていた。
漁師さんには秋田名物の「しょっつる」についても聞いた。
「昔はどの家でも自家製のしょっつるをつくっていたよ。しょっつるを買うなんて考えられなかった。それが今ではどの家も醤油を買っている。しょっつるはハタハタだけでなく、コウナゴからもつくっていたな。ハタハタやコウナゴを半年から1年、桶に漬け込んで塩辛にして、袋に入れて搾った汁がしょっつるだ」
男鹿半島の「しょっつる」は、日本に最後まで残った魚醤油。食の文化財といってもいい。半島というのは古い文化の残るところなのである。
入道崎を出発。男鹿半島の西岸を走り、五社堂のある門前へ。そこでは巨大な「なまはげ」のお出迎え。
▲男鹿半島のなまはげ。門前で
潮瀬崎では岬の岩場にVストローム250を止め、灯台まで歩いた。その途中に「ゴジラ岩」がある。日本海に向かって吠えるゴジラのような大岩。ここには帆掛島もある。その名の通り帆を張った千石船のようにも見えるし、ミニ軍艦のようにも見える大岩だ。
男鹿半島の玄関口、JR男鹿線の終点の男鹿駅前から国道101号→国道7号で秋田へ。秋田からは国道7号を南下する。
本荘(由利本荘市)を通り、仁賀保(にかほ市)では町中に入っていく。JR羽越本線の仁賀保駅前から平沢漁港へ。次に漁港の近くにある「TDK歴史館」(無料)を見学。仁賀保は世界企業「TDK」の生まれ故郷。そのあと黒湯の「神の湯」に入り、「キッチンさかなや」で「岩ガキ&刺身定食」を食べた。岩ガキと刺身の盛り合わせは絶品だ。
仁賀保から象潟(にかほ市)へ。ここは芭蕉の「奥の細道」最北の地。象潟に到着すると、国道7号を左折し、JR羽越本線の踏切を渡ったところにある蚶満寺を参拝。この寺が芭蕉時代の干満珠寺になる。
境内には芭蕉像と、絶世の美女、西施像が建っている。しかし今では、『おくのほそ道』にあるような風景は見られない。象潟が潟でなくなってしまったからだ。なんとも残念なことだが、文化元年(1804年)の象潟地震でこの一帯は隆起し、「江の縦横一里ばかり」とある潟が陸地になってしまった。
蚶満寺の境内には舟つなぎ石が残されているが、それが当時は潟の岸辺にある寺だったことを証明している。またここからはポコッ、ポコッと盛り上がった小丘をいくつも見るが、それが当時の九十九島。今では稲田の中に浮かんでいる。
象潟から鳥海ブルーラインで鳥海山を登っていく。
1合目、2合目、3合目、4合目地点を通過し、5合目の鉾立へ。鉾立の手前からは鳥海山の頂上が見えた。
標高1150メートルの鉾立に到着すると、売店のかき氷を食べてひと息入れた。ここには「鉾立山荘」がある。それをしっかりと確認すると、鉾立を出発し、山形県側に下っていくのだった。「また来るぞ、鳥海山よ!」
鳥海山の山頂には出羽の一宮の大物忌神社がまつられている。全国の一宮めぐりをしているカソリだが、大物忌神社の山頂本宮はまだだった。そこでこのあとの東北旅では「鉾立山荘」に泊まり、1日がかりで鳥海山を登り、大物忌神社を参拝したのだ。8月31日のことで、大物忌神社は最後の第104社目の一宮になった
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