【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】

前回:賀曽利隆の「世界一周」(1971年~1972年)アメリカ編

キリマンジャロ挑戦のきっかけ

バイクでアフリカ大陸の最高峰、キリマンジャロに挑戦しようと思いたったきかけは、なんともたわいないものだった。『月刊オートバイ』で「峠越え」の連載をしていたが、その連載を始めた頃、編集部に風間深志さんが入ってきた。風間さんはぼくの「峠越え」を面白がり、「カソリさんがどんな風に峠越えしているのか、同行取材をさせてもらいたい!」ということで、1975年の晩秋に甲州と信州の境をなす奥秩父連峰の峠を越えた。賀曽利隆28歳、風間深志25歳のときのことだった。

雪の降る標高2360メートルの大弛峠を越え、信州峠を越えて一晩、甲州の温泉地、増富温泉に泊まった。温泉宿では、湯上がりのビールを飲みながら、話のボルテージをどんどんと上げていく。
「オレはね、日本中の林道を全部、走破したいね。自分の走ったコースを地図上に赤く塗ってさ。日本地図をまっ赤にしてやる!」とカザマ。
「ぼくはね、日本中の峠を全部、越えてやるんだ。何年かかっても絶対にやってやる!」とカソリ。
「でもさ、カソリさん、日本なんて小っちゃいよ。どうせやるなら、世界で一番高いところにバイクで登ろうよ。オレたち男なんだからさ」
「カザマさん、でもエベレストは無理だよ。アフリカの最高峰のキリマンジャロならバイクでピークを極められるかもしれないな」
「いいねー、カソリさん、やろうよ、キリマンジャロにバイクで挑戦しようよ!」

この増富温泉でのたわいのない話が、キリマンジャロ挑戦のきっかけになったのだ。

チームキリマンジャロで挑戦開始

▲タンザニアの首都ダルエスサラームが見えてくる

カソリ&カザマに忠さん(鈴木忠男さん)を加えて「チームキリマンジャロ」を結成し、日本を出発したのは増冨温泉から5年後の1980年2月16日のことだった。バイクはホンダのXR200。
タンザニアの首都ダルエスサラームの空港でXR200を引き取ると、キリマンジャロ山麓のモシへ。ここを拠点にしてのキリマンジャロ挑戦の開始だ。

▲ダルエスサラームの空港で3台のXR200を引き取る

▲ダルエスサラーム港を見下ろす

▲ダルエスサラームの海岸を歩く

▲モシの町から見るキリマンジャロ

まずはTANAPA(タンザニア・ナショナル・パークス)の本部に行き、バイクでのキリマンジャロ挑戦の許可を申請する。

TANAPA最高責任者のコンチェラさんに会って許可証を発行してくれるように頼んだのだが、その答えは厳しいものだった。
「キリマンジャロは今はナショナルパークになっている。知っての通り、ナショナルパークには、バイクでは入れない(クルマなら入れる)」
「そこをなんとか…」
と食い下がったが、コンチェラさんは「規則だから」の一点張り。

バイクでキリマンジャロに登れる可能性があるのは、登山ルートの「マラングー・ルート」だけなのだ。それがダメなら、マイナーなルートで登ろうと、キリマンジャロをグルリとまわってみた。

▲モシからムエカ村へ。右が忠さん、左が風間さん

キリマンジャロの真南にムエカ村がある。そこから直登するルートがあるというので、ムエカ村に行ってみた。村の中を通り抜けると山道に変わり、そのまま密林の中に入っていく。人がやっと歩けるくらいの狭い山道は、いまにも密林の中に消え入りそうだった。
直登ルートなものだから急傾斜で、おまけにキリマンジャロは雨期に入っていた。雨でぬかった山道はツルツル滑り、まったく歯がたたなかった。「ムエカ・ルート」は断念するしかなかった。
「よ~し、次は北側のルートにトライしてみよう!」

と、ケニア国境に近いナレモル村を目指し、赤土の道を土けむりを巻き上げながら走った。キリマンジャロの北麓がタンザニアとケニアの国境になっているが、両国関係はその数年前から極度に悪化し、両国間の国境は閉鎖されていた。そのような情勢だったので国境周辺の警備は厳しく、ナレモル村まで行くことも許されなかった。こうして「ナレモル・ルート」も断念せざるをえなかった。

キリマンジャロは3峰からなる火山。最高峰のキボ峰が中央にそびえ、東にマウエンジー峰、西にシラ峰がある。3峰の中ではシラ峰が一番古い火山で、すっかり風化し、山全体が高原状になっている。西側からまずシラ峰に登り、そこからキボ峰をアタックするという方法も考えられた。そこでシラ峰の登山口のロンドロッシにも行ってみた。するとナショナルパークのゲートがあり、許可証なしではバイクでは入れず、「ロンドロッシ・ルート」も断念せざるをえなかった。

行けるところまで行ってみよう

このままオメオメとキリマンジャロを諦めて帰国することはできない。そこでいったんは不可能という判断を下した「ムエカ・ルート」を行けるところまで行ってみようということになった。

キリマンジャロ南麓の村々に影響力を持つカティブカタ(村連合の首長)に会い、ムエカ村からバイクでキリマンジャロに登りたいのだと話し、彼の協力を頼んだ。するとなんともありがたいことに快く引き受けてくれ、ムエカ村のチーフのオロタさんを紹介してくれた。XR200を走らせ、さっそくオロタさんに会いに行く。彼の家に着くなり、地酒のンベゲを振る舞われ、茶色く濁った酒をヒョウタンの器についでくれた。

なんとしても話をつけなくてはならないので、オロタさんにつがれるままに、ンベゲをぐいぐいと飲み干した。ぼくたちはムエカでガイドとポーターを雇わなくてはならなかったが、ンベゲを飲むほどにオロタさんは上機嫌になり、「私にまかせておきなさい。必ず人は集めましょう!」といってくれた。

ムエカ村はモシから10キロほど。キリマンジャロの南麓は豊かな農地。家々のまわりにはバナナが植えられ、収入源のキリマンジャロ・コーヒーが大規模に栽培されている。この一帯にはチャガ族の人たちが住んでいる。アフリカでは西アフリカ・ナイジェリアのイボ族と並び、最も勤勉な民族だとの定評がある。

▲ムエカ村の家とバナナ園

ぼくたちは舞台をモシからムエカ村に移した。ガイド兼ポーター頭をクリストファー(31歳)にやってもらう。がっちりした体つきで、英語が話せる。クリストファーは最初はバイクであの密林の中の道を登っていけるわけがないといっていたが、ついに彼を説得した。
クリストファーと相談して、パウル(48歳)、ラファエル(27歳)、ジェローム(17歳)、アイザック(42歳)、カリステ(50歳)、ジョゼフ(24歳)、アントニー(35歳)、ザチャリア(29歳)、マーティン(30歳)、エウセビ(24歳)と、全部で10人のポーターを集めることができた。

ガイド、ポーターといっても、キリマンジャロ登山のマラングーとは違い、ムエカ村には経験者は1人もいない。裸足でくるものもいれば、サンダルでくるものもいる。まともな登山の格好をしたものは1人もいない。一番若いジェロームは山は寒いゾとおどかされたのだろう、母親のピンクのカーディガンをはおってきた。

英語を話せるのはクリストファーだけで、あとのポーターたちは国語のスワヒリ語と彼らの言葉のチャガ語を話した。ぼくたちはポーターたちとはカタコトのスワヒリ語と、あとは身振り手振りで意思を通じ合わせた。

トゥエンデ!さあ、行くゾ!

1980年3月1日、ムエカ村を出発。快晴。青空を背にしたキリマンジャロを眺める。南側の斜面にはかなりの雪が積もっている。

バイク担当チーフの忠さんは、3台のXR200の整備に余念がない。ポーターのまとめ役の風間さんは、天性のパフォーマンスでポーターたちとおもしろおかしくコミュニケーションをとっている。

ポーターたちは食料や衣類、キャンピング用品、ガソリンと水のポリタン、バイクのスペアーパーツ、そして彼ら自身の食料や鍋、毛布などの荷物を分担してかつぐ。
「トゥエンデ!(さあ、行くゾ!)」

▲ムエカ村の子供たち

クリストファーが大声を張り上げると、村人総出の見送りを受ける中、ポーターたちは一列になって歩きはじめる。そのあとをぼくたちの乗る3台のXR200がつづく。バイクの後から子供たちが「ピキピキ、ピキピキ」と歓声をあげながらついてくる。「ピキピキ」はスワヒリ語でバイクのことだ。なるほどバイクのエンジン音は「ピキピキ」と聞こえる。

▲ムエカ村を出ると大密林地帯に突入。これがキリマンジャロへの道

ムエカ村を出ると石のゴロゴロした山道になり、そのまま密林地帯に突入。ムエカ村の標高は1500メートルなので、このキリマンジャロ南麓の密林地帯というのは標高1500メートル地点から始まった。狭路の山道を登っていく。何しろツルツル滑るので、エンジンの回転を目いっぱい上げても後輪がからまわりし登れない。仕方なくバイクを降りて半クラッチを使いながら、全身の力をこめて押し上げる。

▲倒木を越えていく

山道が川になっているところもあった。山道の片側はえぐれ、溝ができている。深いところだと、体がすっぽり入ってしまう。バイクを降りて押し上げているときに、その深い溝にバイクごと落ち、死に物狂いでバイクを引き上げたこともあった。

▲倒木越えはさらにつづく

そんな山道が際限なくつづく。心臓が口から飛び出しそうになるほど息づかいが荒くなる。全身から汗が吹き出し、もう苦しくてヘルメットをかぶっていられない。長ソデのシャツを着ていられないので、半ソデのTシャツにする。すると密生したイバラに突っ込んでいくので、腕はたちまちイバラの棘でかきむしられ、無数の傷口から血がにじみ出る。
あまりの苦しさにへたり込み、湿った地面に顔を押しつけているときは、なんともいえない気持ちのよさ。そのままフーっと意識が遠くなっていくかのようだった。

XR200のエンジンは焼けている。またしても溝の中に落ち、バイクを引き上げようと大格闘しているとき、ついうっかりとエンジンにペタッと腕をくっけてしまった。腕のエンジンにさわった部分は火傷で皮がペロッとむけてしまったが、極度の疲労で神経が麻痺しているからなのだろう、まったく熱いとか痛いといった感覚がなかった。

夕方、わずかな広さだったが、密林の中の平らな場所に出た。そこでキャンプすることにした。明るいうちにすこしでもバイクを先に進めておこうと、日暮れまでバイクを走らせた。そこからキャンプ地までは歩いて下った。空模様が怪しいので、急いで食事をつくる。カレースープとパン。だがパンとはいってもすっかり崩れ、粉のようになっている。仕方なくカレースープに粉風のパンを入れて食べた。

その夜は雨。豪雨の様相。稲妻が夜空を縦横に駆けめぐった。バイクが雨で流されてしまったのではないかと本気で心配した。ぼくたちはテント内で寝たが、気の毒なのはポーターたち。大木の下に集まり、頭の上から毛布をかけてじっとしている。雨は夜中になってやんだが、ポーターたちはずぶ濡れで、夜明けまで一睡もできなかった。

翌朝はまだ暗いうちに朝食をすませ、夜明けとともに出発する。ポーターたちは荷物を持って先に行った。力持ちのジョゼフだけが残った。彼にはぼくたちと一緒になってバイクを押し上げてもらうのだ。

心配したバイクは無事だったが、一晩降りつづいた雨で山道は一段とぬかるみ、とてもではないが3台のバイクで登っていくのは不可能だと判断した。そこでバイクは忠さんの乗る1台だけにして、ぼくと風間さん、ジョゼフの3人で1台のバイクを押し上げることにした。

▲バイクを押し上げる風間さん

忠さんのパワーはすさまじい。渾身の力をこめてヌタヌタの山道を登っていく。さすがに日本のモトクロス界を切り開き、引っ張ってきた人だけのことはある。登りきれなくなると、前からロープで引き上げ、後から押した。やっかいなのは倒木だ。大木がドサっ、ドサっと倒れている。キリマンジャロの南面は雨が多く、湿度が高いので自然の倒木が多いのだ。

枝をいっぱいに広げて倒れている大木が目の前に現れたときは、もうダメだと観念した。逃げ道がない。しかし窮すれば通ずとはよくいったもので、前輪にロープをくくりつけ、太い枝を使ってつり上げて、大きな難関を突破した。

▲巨大な倒木はロープを使ってバイクを吊り上げた

大密林地帯はもう切れるだろう、もう切れるだろうというぼくたちの期待をあざ笑うかのように際限なくつづいた。キリマンジャロの山の大きさをいやというほど思い知らされた。もうヘトヘトヘロヘロ。水も食料もない。失敗したのだが、ポーターたちがすべての荷物を持って先にいっている。この大密林の中では、バイクは人の足にはとうていかなわない。ポーターたちに追いつけないのだ。

▲疲労困憊の風間さん

悪戦苦闘の連続に、時間だけがどんどん過ぎていく。のどの渇き、空腹で目がまわる。昼過ぎに尾根らしきところに出た。その時、水の音を聞いた。あまりにも水を飲みたかったので、風の音が水の音に聞こえたのではないかと疑ったが、確かに水の音だ。水を飲みたい一心で、体がすっぽり入ってしまうようなヤブの中をころがり落ちるようにして下り、谷川に出た。舌がしびれるようなキリマンジャロの雪解け水。うまい水だった。顔を川面につけてキリマンジャロの水をガブ飲みした。

▲さすがの忠さんも「う~ん、まいった!」
▲密林の中での小休止

登るにつれて植生が変わった。木の幹は苔で覆われている。
「忠さん、もう一息ですよ。もうすぐ密林がきれますよ!」
と、励ましの声をかけながら登った。

バイクで登るキリマンジャロの最終到達地点

▲ついに大密林地帯を突破。万歳をするカソリ

こうしてぼくたちは、ついにキリマンジャロ南面の大密林地帯を突破したのだ。このあたりは標高2900メートル。じつに標高差1400メートルにもわたる大密林地帯だった。
木は低くなり、人の背丈ほどになる。その中にトタンで囲った小屋があった。ポーターたちはたき木を燃やし、トウモロコシの粉を熱湯で練り固めたウガリと肉汁をつくってぼくたちを待ってくれていた。むさぼるようにして食べたウガリと肉汁のうまさといったらない。腹にしみ込むようなうまさだった。

▲トウモロコシ粉のウガリで生き返る

小屋からは夕暮れに沈んでいくアフリカの大平原が見下ろせた。夕食後、ぼくたちとポーターたちは一人づつ自己紹介した。チャガ語やスワヒリ語をクリストファーが英語に通訳してくれた。2人の奥さんを持つザチャリア、9人の子持ちのパウル、この2人の自己紹介のときには、ひときわ大きな笑い声がおきた。そのあとでポーターたちはチャガ族の歌を聞かせてくれた。

▲夜明けのキリマンジャロ

小屋の標高は3010メートル。赤道のすぐ南だというのに朝晩はひやっとするほど。夜明けとともに起きると、灰色の雲の切れ間から、椀をふせたような形のキボ峰がその姿を見せていた。雪がすごい。その下ではサウスバレーがパックリと口をあけ、太いツララがたれ下がっている。襲いかからんばかりのすさまじい形相だ。

▲朝食前の歓談。大密林地帯を抜けたのでポーターたちも安堵の表情

▲朝食を食べて、さー、出発だ!

キリマンジャロ挑戦第3日目に出発。ツルツルした泥の山道からゴツゴツした岩の山道に変わる。傾斜はさらに急になったが、車輪が岩をかんでグリップしてくれるので、密林の中よりもはるかに楽に登っていける。木はますます低くなり、まばらになっていく。トロロコンブのようなシダが木の幹や枝にびっしりとからみついている。なだらかな曲線を描くキリマンジャロの稜線を一望。雄大な眺めだ。

▲岩山を登っていく。忠さんも風間さんも余裕の表情

雨期のキリマンジャロはたちまち雨になる。手足が凍りつくような冷たい雨だ。下は一面の雲海。雷鳴が足元で響く。まるで投げつけてくるかのように、雲が激しい勢いで下から吹き上がってくる。空気が薄くなっているので、急な岩の斜面を登っていくときは息苦しくて仕方がない。心臓の動悸も激しくなってくる。岩は一段とゴツゴツしたものになり、木々は岩肌を這うような低いものになる。

▲標高4000メートル地点の岩山のてっぺんにXR200をのせて、ここを最終地点にする。ほんとうによくやったよ、ここまで!

大きな岩の壁が行く手に立ちふさがっている。その先はサウスバレーだ。「ムエカ・ルート」では、バイクでこれ以上登るのは無理。ぼくたちは4000メートル地点の大岩の上にバイクをのせ、そこをキリマンジャロの最終到達地点にした。キリマンジャロのピークを極められなかった悔しさは残ったが、最善を尽くしたという満足感を味わった。

<Webike CAFE Meetingにて「生涯旅人」賀曽利隆さんトークショー開催>

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