
【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】
前回:賀曽利隆の「世界一周」(1971年~1972年)アフリカ編
1972年4月5日、アフリカ大陸の一角、スペイン領のセウタからフェリーに乗って、ジブラルタル海峡を渡った。アフリカとの別れだ。
「ナイルの水を飲んだものは、また飲みに戻ってくる」といった意味のアラビアのことわざがある。ぼくはナイルの水を飲みすぎた。
「アフリカには毒がある」というのもよく知られた言葉だ。
その毒にやられると、人はまるで目に見えない力で引っ張られていくかのように、またアフリカに戻っていくそうだ。
ジブラルタル海峡を渡るフェリーの船上で、「ぼくもまた、きっとアフリカに戻るな」と確信した(その時の確信通りというか、それ以降もアフリカ旅を繰り返した)。
アフリカからスペイン、フランスへ
▲ジブラルタル海峡を渡ってアルヘシラスに到着。ここから「ヨーロッパ編」の旅が始まる(スペイン)
セウタから1時間ほどの船旅で、スペインのアルヘシラス港に到着。「ヨーロッパ編」の旅が始まった。
相棒のハスラー250を走らせ、地中海のコスタデルソール(太陽の浜辺)を行く。
マラガの町から内陸に入り、グラナダへ。グラナダではアルハンブラ宮殿を見学した。ここはイベリア半島最後のイスラム王朝の城塞都市だ。
グラナダからスペイン中央部の高原地帯を走り抜け、首都マドリッドへ。マドリッドからはピレネー山脈の国境を越えてフランスに入った。
バイヨンヌ、ボルドー、オルレアンと通り、「花の都」パリに到着。
▲バイヨンヌの町で(フランス)
▲バイヨンヌの町の自動車学校(フランス)
凱旋門をグルリとひと回りしたあとシャンゼリゼ通りを走ってコンコルド広場へ。
誰にも見られてはいないのに、大勢の人たちから拍手喝采を浴びているかのような気分になった(これはその後の話になるが、1982年に日本人ライダー初のパリ・ダカール・ラリーに参戦したときはコンコルド広場が出発点。大観衆のシャンゼリゼ通りを走り抜け、凱旋門から南の地中海に向かった)。
最後はパリのシンボルのエッフェル塔。展望台からパリの町を見下ろした。その中央をセーヌ川が流れている。
パリを出発。フランス最北の町ダンケルクへと、ハスラー250を走らせる。
なつかしのロンドンへ
ダンケルクに着くと、イギリスのドーバー行きフェリーに乗船した。
BR(ブリティッシュ・レイルウェイ)のフェリーは、巨大な胴体に列車や、大型トラック、乗用車を飲み込み、23時、ダンケルク港を出港。
船内のレストランで大奮発してビフテキを食べた。残ったフランスの通貨、フランを使い切るためのビフテキだ。アルゼンチン人の若い女性と同じテーブルになった。彼女とは仲良くなり、コーヒーを飲みながら話した。「ロンドンに着いたら寄ってね」といってノートに住所を書いてくれた。ドーバー海峡での淡い恋!?
ドーバーに着いたのは夜中の2時。港の前にあるエッソのガソリンスタンドの隅でごろ寝し、翌朝、ロンドンに向かった。
A2(国道2号)からM2(モーターウェイ2号)に入る。モーターウェイはイギリスの高速道路で全線が無料。
M2を走り始める頃から天気は急変。嵐のような天気になり、雨が降り始めた。「エープリル・シャワー」の異名をもつ冷たい雨だ。北国の春は遅く、4月になったというのに霙(みぞれ)混じりの雨…。凍てつくような寒さに震えながら、ハスラー250を走らせた。
あまりの寒さに我慢できず、M2のSAに入った。カフェに飛び込み、熱々のスープをすすりながらサンドイッチを食べ、暖をとるのだった。幸いなことにロンドンに到着する頃には雨は上がり、薄日が差してきた。それは日本を出てから9ヵ月後のことだった。
タワーブリッジの隣にあるロンドンブリッジでテムズ川を渡った。
3年前(1969年)とちっとも変わらないロンドンの町にはなつかしさを感じるのと同時に、何かほっとさせるものがあった。ロンドンにやってきたのはバイトするためで、大西洋を渡る船代を得たら、カナダに向かうつもりにしていた。
ロンドンのシンボル、大時計のビッグベンと国会議事堂を見たあと、バッキンガム宮殿、ピカデリー広場、トラファルガー広場を見てまわり、A23(国道23号)を南に下った。
A23沿いのノーベリーの町に着くと、「アエロス・モーターサイクル・ショップ」に行く。ここは「アフリカ一周」(1968年~69年)の途中の「ヨーロッパ一周」で、バイクの修理をしてもらったなつかしのバイクショップ。
「やあ、タカシ!」
ぼくの姿を見るなり社長のオールダーソンさんは驚きの声をあげた。
メカニックのグライアムも、経理のリーンおばさんも、ちっとも変わらない。3年ぶりの再会に、我々は大喜びした。
グライアムは壁に張られた2枚の写真を見せてくれた。リーンおばさんは引き出しから手紙を取り出した。写真は東京から、手紙はアフリカのアンゴラから送ったもの。
「こんなに大事にとっておいてくれたなんて!」
グライアムには、「タカシ、仕事をしたいのなら、ここで働けばいいよ。家には1部屋あいているので、泊まるところも心配いらないし」と言われ、ロンドンに着いたその日から、「アエロス・モーターサイクル・ショップ」で働き始めた。
アエロスのメンバーは、社長のオールダーソンさん、事務のリーンおばさん、パートでタイプを打つジュアンおばさん、メカニックのグライアム、部品を扱うジョンと、オールダーソンさんの息子ドンの6人。ぼくの仕事はグライアムの手伝いだ。
▲ノーベリーの「アエロス・モーターサイクル・ショップ」に到着。ハスラーに乗っているのは社長のオールダーソンさんの息子のドン(イギリス)
イギリスでは古いオートバイを直しながら乗る人が多いので、修理の仕事は忙しい。それもエンジンのオーバーホールといった金額のはる修理が多い。日本だったら、修理代でらくに中古車が買えるほどだ。
ところがイギリスでは新車も高いが、中古車も目の玉が飛び出るほど高い。そのため、ポンコツでも直し直し乗るのだ。
そのような事情があるので、オールダーソンさんは新車の販売にはあまり熱心ではない。アエロスの売り上げの大半は部品の販売で、それに次いで修理、新車販売、用品販売の順になっている。部品販売は客が店に買いにくることもあるが、それよりも通信販売のほうがはるかに多い。
こうしてグライアムの家で居候させてもらいながらの、アエロスでの毎日が始まった。 仕事は9時に始まり、夕方の6時に終わる。昼に1時間、午前中と午後のティータイムに約20分の休みがある。どんなに忙しくても、残業はしない。
仕事が終わるとグライアムのバンで彼の家に帰り、奥さんのジル(ジュリアン)が作る夕食をごちそうになる。
2人は共稼ぎで、彼女は病院の栄養士をやっていて、そのせいか太っている。グライアムの家には家族の一員ともいえる犬のトゥーリーがいる。トゥーリーは人間と全く同じ生活で、缶詰のドッグフードを食べ、枕を使ってベッドに入って眠る。
グライアムのとっている新聞は「デイリー・ミラー」。イギリス最大の発行部数を誇る新聞だが、内容は日本の週刊誌を思わせるいわゆる大衆紙。夕刊はない。日曜版は「サンデー・ミラー」になる。彼が心待ちにするのは、週刊オートバイ紙の「モーターサイクル」と「モーターサイクル・ニューズ」で、紙面のすみずみまで目を通す。
「バリバリバリ……」
すさまじいエンジン音、オイルの燃える特有のにおいがあたり一面にたちこめる。ここはロンドン郊外のダドフォードのモトクロスコース。グライアムはモトクロスが大好きで、ハスラー250の1型を改造したマシンで、坂を飛び越え、急な斜面を駆け登り、荒野を突っ走る。
彼は毎日曜、ダドフォードにやってくる。バンにオートバイを積んで。ジルはモトクロスが嫌いなのだが、そこは夫婦、お弁当を作ってグライアムについていく。彼がダドフォードに行かない日は必ず大会があり、各地から集まった選手とともに、テムズ川河口のシェピー島、ケント州のカナダ・ハイツ、南部のパーナベイなどで行なわれるモトクロス大会に参加する。
「アエロス・モーターサイクル・ショップ」で楽しいのは、ティータイムのひとときである。サンドイッチを食べ、紅茶を飲みながら、ワイワイガヤガヤと話に花を咲かせる。グライアム、ジョン、ドン(ドナルド)、それとぼくは同年代なので、それだけにいっそう話がはずんだ。
ティータイムでひんぱんに登場する話題は税金。
「ターキー(ぼくは皆からそう呼ばれていた)、どうして毎日、働いていると思う?」
「よくわからないなぁ、なぜ?」
「税金を払うためだよ。一生懸命働いて、給料もらって、それをそっくり国に払うのさ」 グライアムは土曜日は働かない。その理由は土曜日働くと税率がさらに高くなるからだ。収入を増やすよりも、体を休めたほうがはるかに得だという。彼らの税金に対する知識には、ぼくを驚かせるものがあった。
ロンドン市内に流れ込む大量のインド人、パキスタン人も、ティータイムの話題にしばしば登場する。彼らがイギリス人の生活を圧迫していると、誰もが心配している。
「ターキー、アイルランドの首都、知っている?」
「知っているよ、ダブリンだよね」
「残念でした、リバプールです」
「ターキー、リバプールは、イギリス人よりもアイルランド人のほうがはるかに多いんだよ」
「じゃ、ターキー、インドの首都、知っている?」
「ニューデリー」
「残念でした。ウエスト・クロイドン(ノーベリーよりも南のロンドン南部の町。インド人、パキスタン人が多い)です」
「ターキー、あそこに行くのに、ブリティッシュ・パスポートがいるんだ」
と大笑い。
ある日の午後のティータイムでは、オールダーソンさんと、イラクのバスラの話をした。彼は第二次大戦中、メソポタミアでドイツ軍と戦った。
「あのへんの暑さときたら、すさまじいですね」
「そうだね、ターキー。戦車の鉄板に卵をポンと落とすと、目玉焼きができるんだ!」
「オールダーソンさん、バスラのあとはどこだったのですか?」
「ラングーンだよ。ビルマ戦線では、何千、何万のターキーと戦ったよ」
彼は、一瞬とまどった表情を浮かべたが、そう言うと、紅茶を飲み干して事務所に行った。
ビルマのマンダレーからインドのインパールにかけての、日本軍との一連の戦闘は、オールダーソンさんにとっては、言語を絶するひどさだった。そのため戦争が終わってからも、ずっと日本を憎み続けたという。
オールダーソンさんは1968年に日本を訪れたが、そこで目にしたものは想像していたものとはあまりにもかけはなれた日本の姿であった。暖やかな日本人の心に触れ、子供たちの笑顔を見て、日本の文化を知ったことによって、彼の日本に対する感情は決定的に変わったという。
月日のたつのは早い。ふと気がつくと、イギリスを離れる日が近づいていた。
オールダーソンさんの家に招かれ、奥さんご自慢のスコットランド風料理をごちそうになったり、苦心して作りあげた日本風の庭園を見せてもらった。
明日はイギリスを離れるという日の夜は、リーンの家に皆が集まり、お別れパーティーを開いてくれた。夜遅くまで飲んで話した。最後にオールダーソンさんは「アエロスからタカシヘ ロン(ロナルド。オールダーソンさんの名前)、リーン、グライアム、ドン、ジョン、ジョアン」と刻まれたタッカード(錫製の大ジョッキ)を手渡してくれた。タワーブリッジとセントポール寺院が描かれたすばらしいタッカードに胸がいっぱいになってしまった。それがノーベリーでの最後の夜になった。
6月21日の早朝、ノーベリーを出発。初めてグライアムの家に来たころは、庭のリンゴの木はまっ白な花の盛りだった。その白い花びらも散って、青々とした葉になっている。A13(国道13号)でテムズ川河口のティルベリー港に向かった。その途中では、グライアムと毎日曜日にモトクロスの練習をしたダドフォードに寄った。
ティルベリー港に着くと、すでにカナダのモントリオールに向かうロシア船「アレクサンドル・プシュキン号」は桟橋に横づけされていた。クレーンを使ってハスラー250は甲板に吊り上げられた。
20時、「アレクサンドル・プシュキン号」は何度か大きく汽笛を鳴らし、静かにテムズ川の川岸を離れていく。風はほおを刺すほどに冷たかったが、ぼくはデッキで震えながら、夕暮の中に消えていくイギリスを眺めつづけるのだった。
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