【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】
前回の「鵜ノ子岬→尻屋崎」に同行してくれたtododesuさんが我が家に来て、昔の写真をパソコンでも見られるように修復してくれた。tododesuさんはデジタルの専門家。何ともうれしい限りで、お礼の意味をもこめて、今から50年前の「世界一周」(1971年~1972年)をみなさんにも見てもらおうと思う。
1971年8月2日、「世界一周」に出発。羽田空港からタイのバンコクに飛んだ。相棒のスズキ・ハスラー250は船便でパキスタンのカラチ港に送った。タイのバンコクからパキスタンのカラチまでは鉄道などに乗って旅した。
タイのバンコクからはまずビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)に飛び、北部のマンダレーまで列車で往復した。
▲首都ラングーン(現ヤンゴン)の仏教寺院パゴダ(ビルマ・現ミャンマー)
次にインドのカルカッタに飛び、そこからは陸路でカラチに向かった。ネパールに入ると、首都のカトマンズでタクシーをチャーターし、コダリ川沿いに走ってチベット(中国)国境まで行った。そこでは「きっといつの日か、バイクでチベットを走ってやる!」と心に決めるのだった。
▲国境のビルガンジでは馬車に乗ってネパールに入った(インド・ネパール)
▲ベナレス(バラナシ)では、ガンジス川の川舟に乗った(インド)
インドからパキスタンに入り、北部のラホールからカラチへ。カラチ港でハスラーを引き取り、カラチを出発したのは1971年9月17日のことだった。
▲カラチからラホールへ。これが「世界一周」の全装備(パキスタン)
▲ペシャワールの町を過ぎると、前方にはアフガニスタン国境のカイバル峠が見えてくる(パキスタン)
ラホールからカイバル峠を越えてアフガニスタンに入り、首都のカブールからはアジアハイウェイで西部のヘラートへ。その間では大きな事故を起こしてしまった。
9月23日はまさに悪夢のような一日。夜中の1時半ごろに目がさめてしまい、仕方なく起き上がり、寝袋をたたんで2時前に出発した。明りひとつない夜道走りつづけ、夜明けを迎えたときはうれしかった。
7時過ぎに街道沿いの食堂で羊の肉をかじったが、そのころから、ハスラーに乗りながら、うとうとしはじめた。
▲街道沿いの食堂の主人。このあと痛恨の事故を起こす(アフガニスタン)
「あぶないな、すこし止まって寝なくては…」
と思いながらも、アジア・ハイウェイは道幅が広いうえ交通量がきわめて少なく、センターライン近くを走っているぶんには、うつらうつらでも充分走れるので、ついそのまま走ってしまった。
「わ、 ぶつかる!」
と思ったときは、すでに遅かった。
あたりは山がちになり、道は左へ大きくカーブし、中央には正面衝突を避けるためのブロックが点々と埋め込まれてあった。こっくりしながら道の中央を走っていたので、もろに激突。体は大きく投げ出され、二度、三度と道路にたたきつけられて気を失ってしまった。
気がつくと、血まみれになって反対側車線に倒れていた。頭を強く打ったせいで、どうして自分がひっくり返っているのか理解できなかった。それでも、このままでは危ないと感じ、全身の力をこめて立ち上がった。ハスラーを起こして路肩に止め、あたりに散乱したバイク用の工具やスペアパーツを拾い集めた。それだけすると、うずくまるように倒れ込んだ。顔、口、腕、足を切った。左ひざの肉はもげ、ぱっくりと大きく口をあけ、両手首が焼けるように痛んだ。
しばらくじっとしていると、だいぶ落ち着いた。よろよろと立ち上がり、ハスラーにあやまった。まだ序の口ではないか、ハスラーと旅を始めたばかりではないか。
ハスラーのダメージは大きかった。両輪のリムは激しい衝撃でゆがみ、ギアー・シフト・レバー、クラッチ・レバー、フロント・フェンダーが折れ、ヘッド・ランプのレンズ、左のクランク・ケース・カバーが破れ、左側のフート・レスト・ラバーとサイド・バッグが跡形もなく飛び散っていた。
こわれた部品のうち、交換可能なものを新しいのに取り替え、体の中を突き抜ける痛みをこらえてエンジンをかけた。ハスラーはいつもと変わらないエンジン音をあたりに響かせる。すこし乗ってみる。なんとかいけそうだ。
さすが「強運カソリ!」、自分自身もハスラーも、大きなダメージを受けのにもかかわらず、ギリギリのところで致命傷にならずにすんだのだ。
事故現場を出発するとそのまま走りつづけた。ヘラートを通過し、血まみれになって国境を越え、イランの首都テヘランまで1,000キロ以上を走った。テヘランでハスラーの修理をするのだった。
▲行く先々の町でバイクを止めると、大勢の人たちが集まってくる(イラン)
高原のテヘランからイラクの首都バグダッドに下り、メソポタミアの平原を南下。クウェートからサウジアラビアに入った。
▲イラクの首都バグダッドに到着。ここは大統領官邸前(イラク)
▲クウェートに入ったところで給油。ここではガソリンは水よりも安い!(クウェート)
絵具をたらしたようなペルシャ湾の美しい海を見ながらアラビア半島を南下する。この一帯はまさに「石油銀座」。アラムコ(アラビアン・アメリカン・オイルカンパニー)が誇る大油田がつづく。
当時のアラムコはサウジアラビアを支配しているといっても過言でないほどで、国際石油資本のニュージャージー、カリフォルニァのスタンダード、テキサコ、モービルによる合弁会杜。夜になると、空をまっかにこがす巨大な火柱がいたるところで見られた。原油採掘時にでる天然ガスを燃やす炎だ。不気なほどの赤い空が、サウジアラビアを象徴しているかのようであった。
▲ペルシャ湾岸の油田地帯。夜空を焦がす真っ赤な炎(サウジアラビア)
ダーランの町を過ぎると、いよいよ「アラビア半島横断」の開始だ。
アラビア半島横断ハイウェイを西に進んでいると、正面に朝日を浴びて輝くダフナ砂丘が見えてくる。あまりにもきれいな砂の色に一瞬息をのむ。
ハスラーを止めて、砂丘を登る。砂丘には自分の足跡が点々と残っていく。あたりはシーンと静まりかえり、もの音、ひとつ聞こえない。風もない。砂を手に取って、砂の上で寝ころんだ。ただそれだけのことだったが、心に残る砂漠体験になった。北のネフド砂漠と南のルブアルカリ砂漠を結ぶダフナ砂丘の長さは、じつに1,000キロ近くにもなる。
▲一望千里のアラビア半島の砂漠(サウジアラビア)
サウジアラビアの首都リャドを通り、紅海沿岸を南北に走る山脈を越え、イスラム経の聖地メッカに近づいた。
「なんとしてもメッカに入りたい!」
しかし、もし異教徒だということがバレると、首をはねられるという話も聞いた。
山地を下り、平地に下りたところに検問所があった。イスラム教徒以外は左に折れ、メッカを大きく迂回して、紅海のジッダに向かわなくてはならない。
ぼくはトボけることにし、メッカに通ずる道をまっすぐに行った。検問所の警官は、手を上下に振ってストップを命ずる。ハスラーのスピードを落とし、止まろうとした。そのとき警官と目が合った。ぼくは軽く会釈をした。ここで奇跡が起きたのだ。
信じられないことだが、警官はそのままメッカの方向に行ってもいいという。もしだめだったら、いったんジッダまで行って、アラビア服に着替えてメッカに潜入しようと思っていたので、ぼくはキツネにつままれたような思いだった。
メッカに向かってハスラーを走らせる。砂漠のなかに、ぽつんと白い塔があった。そこから先が聖地。白い塔を過ぎると町が見えてくる。町は静まりかえり、ほとんど人の姿は見えない。メッカの手前にあるミーナの町だった。
西はセネガル、モーリタニアから、東はマレーシア、インドネシアまで、地球上の5億を超えるイスラム教徒の一生をかけた大事業がメッカ巡礼である。巡礼の頂点はイスラム暦第12月(ハージ月)の9日目と10日目で、そのときは100万人以上ものイスラム教徒がメッカに集まる。世界最大の集会だ。
イスラム教徒は体を清め、白い布をまとってメッカに入り、カーバの石のまわりを7回まわる。そのあと、あの白い塔近くのアラファットの野で、日没まで経典のコーランを唱える。翌日、ミーナで羊や山羊をいけにえにし、同じくミーナにある石柱に石を投げ、再びカーバ神殿に戻り礼拝する。メッカ巡礼が終わると、北に400キロ、イスラム教第2の聖地のメディナに向かうのだ。
ミーナを過ぎるとすぐにメッカ。リャド、ジッダとほぼ同規模のサウジアラビア最大の町。さすがに活気がある。歩いている人をつかまえては「ハラム(聖なるモスク。カーバ神殿)はどこ?」と聞いたが、もしイスラム教徒でないことがバレたらと、そのたびにヒヤヒヤした。
大きなアーケードを抜けると、そこがカーバ神殿だった。
ハスラーを止め、神殿の中に入っていく。緊張の一瞬。白大理石が敷きつめられた神殿の中央に、「カーバの石」が見えてくる。ぼくはその時、夢でも見ているような気がした。どうしても現実とは思えなかったのだ。
熱く焼けた大理石の上にひれ伏し、3度、祈った。巡礼の季節にはほど遠かったが、それでも様々な民族の大勢の人たちがカーバの石のまわりをグルグルまわっている。
ぼくも立ち上がると、カーバの石をまわり続ける人たちの流れに入っていく。アフリカ人の巡礼者が目立って多い。カーバの石の手を触れるところは油ぎってベトベトしている。口づけをするところもある。
礼拝を終えてカーバ神殿を出るときは、いいようのない疲れを感じた。それはイスラム教というよりも、宗教のもつ圧倒的な重圧感だったのかもしれない。
メッカを後にすると、ハスラーを走らせ、一路、紅海に急いだ。ジッダの町に到着。
紅海の海岸に出ると、まっ赤な夕日が水平線上に沈もうとしていた。東の空を振り仰ぐと、砂漠をうっすらと明るく染めながら満月が昇ろうとしていた。それはアラビア半島横断の旅の最後を飾る美しい夕景だった。
この記事にいいねする