
【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】
相棒のVストローム250で気仙沼の町へ
3月14日。岩井崎の民宿「崎野屋」の朝食を食べ、相棒のVストローム250を走らせて気仙沼の町に入っていく。大津波に飲み込まれ、すさまじくやられた南気仙沼の一帯も土地のかさ上げ工事は終わり、高層の災害公営住宅が完成している。今ではどこが南気仙沼駅だったのかもわからない。
南気仙沼から気仙沼漁港へ。気仙沼の心臓部ともいえる漁港周辺の復興は遅れている。
東日本大震災の直後、気仙沼漁港の一番奥まった一帯には何隻もの大型漁船が乗り上げ、その下をくぐり抜けていくような迷路になっていた。「乗り上げ船」は今回の大津波を象徴するもの。今ではもうその痕跡は見られない。
気仙沼から県道26号で唐桑半島に入っていく。唐桑半島縦貫の県道26号は高台を通っているので、大津波が押し寄せたのにもかかわらず、唐桑半島の被害はそれほど大きくはなかった。
震災直後、唐桑半島の民宿「堀新」に泊まった。ここの庭からは大島がよく見える。民宿「堀新」の女将さんの話によると、大津波が押し寄せたときは巨大な黒い海の壁がすべてを覆い隠し、大島はまったく見えなくなったという。ヘドロを巻き上げて真っ黒になった「海の壁」は高層ビル並みの高さで襲いかかってきたのだという。
唐桑半島の名勝、巨釜・半造を歩き、唐桑半島最南端の御崎に到着。まずは御崎神社を参拝し、御崎突端の八隻曳の岩場まで歩いた。御崎の松林は松くい虫にやられ、大半の松が切り倒され、御崎は裸同然になってしまった。
岩手県・陸前高田に入る
唐桑半島から国道45号に合流すると、県境を越えて岩手県に入る。陸前高田入口の気仙川にかかる新しい気仙大橋は完成している。しかし陸前高田の町跡はまるで荒野のようで、その中に国道45号が延びている。海岸の巨大防潮堤はほぼ完成していた。
気仙川をまたいで対岸の山から市内へ延びる巨大なベルトコンベア「希望のかけ橋」で大量の土石を運搬し、盛り土工事が急ピッチで進んでいた頃は、「どんな町ができるのだろうか」とおおいに期待を抱かせたものだ。しかし、あまりにも時間のかかる復興に夢もしぼんでしまう。
高台に上がったところで国道45号を右折し、県道38号で広田半島に入っていく。この県道38号沿いにはビジネスホテルやスーパー、新しい家々などが次々にできている。 広田半島の広田漁港をとり囲む大防潮堤はほぼ完成しているが、その高さがすごい。見上げるような高さだ。漁港を目の前にする高台には防災公園が完成している。てっぺんまでは91段の階段を登っていくのだが、その途中には明治以降の三陸大津波の波高が表示されている。
3段目のチリ地震津波(1960年5月23日)は高さ2.98m。36段目の昭和三陸大津波(1933年3月3日)は高さ8.50m。51段目の平成三陸大津波(2011年3月11日)は高さ10.68m。67段目の明治三陸大津波(1896年6月15日)は高さ13.63mだ。
1960年のチリ地震津波は三陸海岸のみならず日本列島の大平洋岸全域に大津波が押し寄せ、北海道から沖縄まで百数十人もの犠牲者が出た。チリ地震はM9.5という超巨大地震で、20世紀以降では最大規模の地震だ。そのチリ地震津波と比較しても、明治三陸大津波、昭和三陸大津波、平成三陸大津波の「三陸三大大津波」は桁外れの大津波であったことがよくわかる。
広田漁港をあとにすると、広田半島最南端の広田崎へ。岬の突端に立つと、青々とした青松島の向こうに、10万羽のウミネコの繁殖地として知られる椿島を見る。
陸前高田市から大船渡市に入ると、末崎半島最南端の碁石岬へ。ここでは岬突端の展望台に立ち、対岸の広田半島を眺めた。末崎半島と広田半島の間の海は大船渡湾になる。
碁石岬をあとにすると大船渡へ。町の入口にある大船渡温泉に入る。大浴場の湯につかりながら眺める大船渡湾は絶景。湯から上がると、大津波で壊滅的な被害を受けた大船渡の市街地に入っていく。中心街は復興の真っ最中。
そこからわずかに上がった盛駅の周辺は大津波にやられることはなかった。津波というのは、わずかな高さの違いによってクッキリと明暗を分ける。
JRの盛駅にはもう線路はない。BRT(バス高速輸送システム)に変わっているので線路は撤去され、舗装道路になっている。線路跡の舗装路を気仙沼行きの赤いバスが走っている。
JRの盛駅に隣接する盛駅は三陸鉄道の起点駅。盛駅から釜石駅までは三陸鉄道のリアス南線、宮古駅から久慈駅までは三陸鉄道のリアス北線。釜石駅と宮古駅を結ぶJR山田線は長らく不通だったが、復旧工事が終わると三陸鉄道に移管され、3月23日、盛から久慈までの全線が開通した。総延長163キロの三陸鉄道リアス線の誕生だ。
復興が進む釜石
大船渡から釜石へ。釜石に到着するとまずは釜石漁港へ。釜石漁港の魚市場は完成しているが、その周辺はまだまだ工事中。ここでは港の防潮堤を突き破って中国船「ASIA SYMPHONY号」(4724トン)が乗り上げた。その貨物船は日本最大級のクレーン船によって吊り上げられ、海に戻された。貨物船が突き破ってできた防潮堤の破壊箇所はもう残っていない。釜石の中心街の復興は大分、進んでいた。
▲小白浜(釜石市)を見下ろす。大津波で破壊された防潮堤を修復中
釜石を出発し、国道45号を行く。両石では海岸スレスレに走る国道45号のかさ上げ工事が終わり、国道の付け替えは完成している。多くの犠牲者を出した集落の跡には何も残っていない。集落は高台に移転した。
次の鵜住居は、釜石市では最大の被災地。ここだけで1000人以上もの犠牲者を出した。悲劇だったのは、津波の避難訓練に使われていた鵜住居地区防災センターに避難した100人以上もの人たちが亡くなったことだ。防災センターは取り壊され、今ではその跡がどこだったのかわからない。鵜住居には新しい家が建ち始め、高層の災害公営住宅や戸建ての災害公営住宅も完成している。三陸鉄道の鵜住居駅も完成している。
鵜住居までが釜石市で、国道45号の古廟坂トンネルを走り抜けて大槌町に入っていく。大槌町の中心街のかさ上げした土地の造成は終わり、町を貫く国道45号の旧道は新しく付け替えられた。この道の完成によって、大槌の復興は一気に進んでいる。道沿いに新しい建物が次々にできている。
大槌町では地震発生時、町役場前で防災会議を開いた当時の町長や町役場の職員40人が亡くなるなど、1300人もの犠牲者を出した。その旧町役場は撤去された。平成三陸大津波の震災遺構として残そうという意見と、見るのもいやなので一日も早く撤去して欲しいという町民の意見がぶつかり合い、結局、撤去された。
大槌を後にし、国道45号に合流。吉里吉里トンネルを抜けると吉里吉里だ。ここでは国道45号のかさ上げ工事は終わり、国道は付け替えられている。国道沿いの新しく造成された土地には、新しい家々が続々と建ち始めている。
不死鳥のように蘇る山田町
大槌町から山田町に入る。山田でも新しい町を建設中。JR山田線の陸中山田駅のあったあたりには高層の災害公営住宅ができている。町中を貫く国道45号は整備されている。町をグルリと取り囲むようにして、ここでも巨大防潮堤が建設中。町全体がかさ上げされているので、高台の町役場前から見下ろす新しい町は、町役場と高低差もなくなり、すぐ下に見えるようになった。といっても山田の町の復興への道はまだまだ遠い。
▲山田の国道45号沿いの防潮堤は一部が完成。まだまだ工事はつづく
山田は大津波に襲われて大きな被害を受けて700人以上もの犠牲者を出したが、鵜住居、大槌、山田と、三陸海岸のこの狭いエリアだけで3000人以上もの人命が奪われた。鵜住居から山田までは20キロほど、バイクで走れば30分ほどの距離でしかない。
高台の町役場の隣にある八幡宮を参拝。参道の入口には「津波記念碑」が建っている。1933年3月3日の昭和三陸大津波の後に建てられたもので、それには次のように書かれている。
1、大地震のあとには津波が来る
1、地震があったら高い所に集まれ
1、津波に追われたら何所でも此所位高い所へ登れ
1、遠くへ逃げては津波に追い付かれる。近くの高い所を用意して置け
1、県指定の住宅適地より低い所へ家を建てるな
町役場は「津波記念碑」と同じ高さのところに建っているので無事だった。それに対して山田の町は「津波記念碑」よりも下にあるので、明治三陸大津波、昭和三陸大津波につづいて今回の平成三陸大津波でも、町は全壊した。
しかし、不死鳥のようにそのたびに蘇っている山田なので、きっと今回も、見事に町の復興を成しとげてくれることだろう。津波にやられても、やられても立ち直っていく。それが「三陸魂」というものだ。
山田から国道45号で宮古へ。ブナ峠を越え、豊間根を過ぎると宮古市に入る。
宮古に到着すると、道の駅「みやこ」の「レストラン汐菜」で昼食。「鱈づくし御膳」を食べた。タラの刺身、タラのフライ、タラ汁と鱈三昧の食事はよかった。
津波災害を後世に伝える
宮古から国道45号で田老へ。三陸鉄道の田老駅前の大規模な太陽光発電所は完成している。かつての市街地の中心部に野球場ができ、それに隣接して国道45号の道の駅「たろう」が完成した。道の駅「たろう」の一角には、「たろう潮里ステーション」がある。
田老は総延長2433メートルの巨大防潮堤で囲まれていた。城壁のような巨大防潮堤は「世界最強の防潮堤」といわれ、旧田老町は「津波防災の町」宣言をしたほどだ。この巨大防潮堤が大津波から町を守ってくれると、誰もが信じきっていた。
それが今回の「平成三陸大津波」では、まったく役にたたなかった。高さ30メートルを超える大津波は海側の巨大防潮堤を一瞬のうちに破壊し、内陸側の巨大防潮堤を軽々と乗り越え、185人もの犠牲者を出した。
田老の防潮堤は二重構造で、中心点から東西南北の4方向に延びるX字型をしていた。そのうち残ったのは内陸側の2方向だけ。 田老は「明治三陸大津波」、「昭和三陸大津波」につづいて、今回の「平成三陸大津波」でも町は全滅した。道の駅「たろう」の「たろう潮里ステーション」は、津波災害を後世に伝えるための施設なのだ。
大津波によって破壊された防潮堤の一部は震災遺構として残された。6階建の「たろう観光ホテル」も震災遺構として残され、見学できるようになっている。
付け替え工事の終わった国道45号沿いには店が建ち始め、新しい家も建ち始めている。国道45号を右に折れ、坂道を登って高台移転した新しい田老の町並みを見てまわる。造成地をほぼ埋め尽くして瀟洒な家々が立ち並んでいる。
宮古市から岩泉町の小本を通り、田野畑村に入ると、まずは鵜ノ巣断崖へ。ここから見下ろす「海のアルプス」の眺めはすばらしい。切り立った断崖絶壁がほんとうにアルプスの山並みのように見える。
国道45号から海沿いの県道44号に入る。この県道44号は絶景ルート。田野畑漁港前を通り、三陸鉄道の田野畑駅でVストローム250を止めると、田野畑名物の「飲むヨーグルト」を飲んだ。
ここからは岬めぐり。弁天崎、北山崎、黒崎と3岬をめぐり、三陸海岸の絶景を眺めた。北山崎は一番の観光地。食堂やみやげもの店が並び、ビジターセンターもある。田野畑村から普代村に入った北緯40度線の岬、黒崎には、地球儀型をした北緯40度線のモニュメントがある。カリヨンの鐘を鳴らし、高さ140メートルの断崖上から太平洋を見下ろした。
黒崎から海岸に下った大田名部は防潮堤によって大津波から守られた。巨大防潮堤は高さ11.6メートルの大津波をはじき返し、集落に被害はまったく出なかった。大田名部を過ぎると、普代川の河口から普代の町に向かっていくが、普代川河口の高さ15.5メートルの巨大な普代水門が普代の町を大津波から守った。
普代も大津波の常襲地帯で、明治三陸大津波(1896年)では302人、昭和三陸大津波(1933年)では137人の死者を出している。しかし今回の平成三陸大津波(2011年)では、巨大防潮堤と巨大水門のおかげで大津波による死者はゼロだった。
国道45に合流し、普代村から野田村に入る。大津波で大きな被害を受けた野田村だが、ここでは海岸一帯に町と海を分ける大公園ができている。野田漁港の水門は完成し、長々と延びる巨大防潮堤の工事も完成している。
久慈から国道45号を北上し、青森県の八戸へ。八戸駅前の「東横イン」で泊まった。翌朝は朝食を食べ、8時30分に出発。国道45号→国道338号で三沢へ。
三沢に到着すると、三沢漁港に立ち寄った。ここでも7メートルの大津波に襲われ、漁業施設には大きな被害が出たが、海岸からかなり離れている三沢の町は無事だった。三沢漁港の復旧工事は終わり、今では大津波の痕跡は見られない。
三沢を過ぎると、大津波による被害はほとんど見られなくなる。ラムサール条約登録湿地の仏沼の脇を通り、小川原湖から流れ出る高瀬川を渡って六ケ所村に入った。
灯台のある物見崎でVストローム250を止め、南側の断崖絶壁を見下ろした。北側は白糠漁港。岬に守られたということもあるのだろうが、5メートルの津波が押し寄せた白糠漁港は無傷だった。
活気のある白糠漁港を見たあと、東北電力の東通原子力発電所前、東京電力の東通原子力発電所の工事現場前と、東通の原子力施設前を走り抜け、11時には下北半島北東端の尻屋崎に到着した。ここが東北太平洋岸最北の地になる。灯台のある尻屋崎への道はまだ冬期閉鎖中。冬期閉鎖が解除されるのは4月1日。岬の突端まではいけないので、尻屋漁港の岸壁でVストローム250を止めた。
これにて第22回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」、終了。これからも第23回目、第24回目…と、東北太平洋岸の全域を走る「鵜ノ子岬→尻屋崎」を続けようと思っている。
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