
【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】
3月13日。蒲庭温泉「蒲庭館」の朝湯に入り、朝食を食べ、8時に出発。この日もVストローム250に乗る渡辺哲さんと、セローに乗るもんがぁ~さんが同行してくれる。蒲庭温泉からは県道74号で相馬の中心街に向かった。
東日本大震災直後のこの一帯は一面の荒野。目を覆うばかりの風景がつづいた。何戸もの家々のあった集落や緑豊かな田畑はすべて大津波で流された。今、この一帯は福島県内でも最大級の太陽光発電所で、パネルが被災地跡を埋め尽くしている。
相馬の町に入ると中村城跡の中村神社を参拝。ここから勇壮な「相馬野馬追」の騎馬武者軍団が雲雀ヶ原を目指して出発していく。
相馬の町をひとまわりしたあと、県道38号で松川浦へ。松川浦は浜通り有数の観光地。国道6号のバイパスを越えていくのだが、震災直後は6号バイパスを過ぎると突如、世界が変り、大津波による被災地に入っていった。
東日本大震災は大地震による被害よりも、大津波による被害が甚大だった。それだけに大津波の到達したところと、そうでないところが1本の線によってきれいに分けられた。 震災直後の松川浦の惨状は目を覆うばかりだった。漁船が何隻も陸に乗り上げて散乱し、足の踏み場もないような状況だった。それが今では復興が進み、大津波の痕跡は見られない。新しいホテルや旅館も開業している。松川浦をまたぐ松川浦大橋は通れるようになったし、大洲海岸の長い砂州上の道、大洲松川浦ラインも全線が走れるようになった。
松川浦から海沿いの県道38号を行く。
福島県太平洋岸の最北の町、新地に入っていく。震災直後の新地はすさまじかった。JR常磐線の新地駅は流され、グニャッと飴細工のように曲がった跨線橋が無残な姿をさらしていた。線路は枕木のついたまま、駅からかなり離れたところまで流されていた。駅周辺のかつての町並みには1軒の家も残っていなかった。あたりは一面のガレキの山だった。今では山側に移された常磐線の新線が開通し、新しい新地駅もできている。ズタズタにされた県道38号も真新しい舗装の2車線の道になり、ほぼ全線が通れるようになった。
福島県から県境を越えて宮城県に入る。ここでもんがぁ~さんと別れ、渡辺哲さんと2台のVストローム250を走らせる。海岸には万里の長城を思わせるような防潮堤が延々と延びている。一面の荒野に変りはてた被災地にポツンと一軒、中浜小学校が残っている。海のすぐ近くの中浜小学校だが、東日本大震災の大津波では校内にいた教職員や生徒全員が屋上に逃げて無事だった。翌日、全員が自衛隊のヘリで救助された。一人の犠牲者も出さなかった中浜小学校は震災遺構として残されることが決まっている。
県道38号を行く。山元町から亘理町に入ると、亘理名産のイチゴを栽培するビニールハウスが目立つようになる。
県道38号と県道10号の分岐点では右折し、阿武隈川河口の荒浜へ。荒浜では荒浜中学校が建て替えられ、新しい家が次々にできている。ここでは温泉施設、わたり温泉「鳥の海」も再開している。
▲震災直後の荒浜中学校は自衛隊の災害派遣の拠点になっていた(2011年)
荒浜漁港は活気を取り戻している。漁港前の「鳥の海ふれあい市場」を歩く。荒浜を取り巻く巨大防潮堤は完成し、防災公園の慰霊の丘も完成している。 県道10号の亘理大橋で阿武隈川を渡って岩沼市に入り、仙台空港の滑走路の下を貫くトンネルに入る。震災直後のトンネル入口でのシーンは強烈に目に残っている。沼のようになった水溜まりには何台もの車が折り重なって水没し、軽飛行機の残骸も見られた。
仙台空港の滑走路下のトンネルを抜けて名取市に入り、県道10号を右折して名取川河口の閖上へ。閖上の復興は遅々として進まなかったが、ここへきてその速度を上げている。日和山に登る。丘の上には富士姫神社と閖上湊神社がまつられているが、そこから今の閖上を見る。
完成した水産加工場や、造成地に建設された災害公営住宅を見る。伊達政宗が掘らせたという運河の貞山堀の護岸工事もほぼ完成している。閖上中学校は取り壊され更地になったが、小中一貫の閖上小中学校が完成した。
県道10号の閖上大橋で名取川を渡り、仙台市に入った。
仙台市内の県道10号のかさ上げ工事はあちこちでおこなわれている。仙台市内の約10キロ間、現在の県道10号の海側に、新たに高さ6メートルのかさ上げ道路をつくり、震災時、仙台東部道路が果たしたのと同じような堤防の役目を果たす計画だ。盛り土には震災瓦礫を使用しているという。
宮城県の被災地最前線の県道10号は現在、大半は片側一車線。交通量は多く、大型トラックが列を成して通るような重要な産業道路になっているので、かさ上げ道路が完成したらずいぶんとスムーズに走れるようになることだろう。
県道10号を右折して仙台市若林区の荒浜に行く。入口の荒浜小学校は震災遺構として残され、大津波に襲われた校舎を見学できるようになっている。屋上からは一軒の家も残っていない荒浜を一望する。以前は道が水中に没していた地点では海岸公園が完成し、きれいな管理棟が建ち、駐車場もできている。
県道10号で仙台市から多賀城市に入る。牛タンのチェーン店「たんや善次郎」で昼食にする。「牛たん定食」を食べたところで、渡辺哲さんと別れた。渡辺さんは福島県のいわき市に戻っていった。
▲多賀城の「たんや善次郎」の「牛たん定食」
多賀城では多賀城跡へ。多賀城跡というのは古代陸奥国の国衙跡。国衙というのは国府の政庁で、今の時代でいえば県庁のようなところだ。多賀城は神亀元年(724年)に造られた。一辺が約1キロの外郭で囲まれ、南・東・西辺には門が開かれ、そのほぼ中央に政庁が置かれていたという。
そのような多賀城は貞観11年(869年)の貞観地震(マグニチュード8.4前後)による大津波で、壊滅的な被害を受けた。今回の東日本大震災(マグニチュード9.0)による平成三陸大津波はこの地点までは到達していないので、その点だけで比較すると、史上最大ともいわれる貞観三陸大津波の方がやはり大きかったということになる。
多賀城から国道45号を北へ。
塩竈では1200年前に創建された奥州の一宮の塩竈神社を参拝し、茶店で名物の「三色だんご」を食べた。「日本三景」の松島では国宝の瑞巌寺を参拝した。
松島からは松島湾沿いの県道27号を行く。
松島町から東松島市に入ったところが大塚で、海岸にはJR仙石線の陸前大塚駅がある。大塚は奇跡のエリアで、大津波の影響をほとんど受けることもなく、駅も駅前の家並みも、そっくりそのまま残った。無傷で残った陸前大塚駅は改修され、線路も新しくなり、海岸の堤防も新しく造られた。
大塚から2キロほど行くと東名で、ここには東名駅があった。この「2キロ」が同じ東松島市の松島湾岸を天国と地獄を分けた。震災の大津波で東名は全滅し、多くの犠牲者を出した。その後、東名駅は駅舎もホームも線路も撤去され、今ではどこが駅跡だったのかわからない。かろうじて線路跡がわかるぐらい。東名駅の次が野蒜駅になる。野蒜も大津波で甚大な被害を受けたところだ。
JR仙石線は高台に移り、新しい東名駅と野蒜駅ができた。駅の周辺には新しい東名と野蒜の町ができた。新しい小学校も開校している。
ところで東名から野蒜にかけて県道27号は川沿いに走っているが、これは自然の川ではなく、全長3.2キロの東名運河だ。
明治15年(1882年)に完成した東名運河は石巻湾に流れ込む鳴瀬川と松島湾を結ぶもの。鳴瀬川から北は北上運河(全長12キロ)で石巻につながっている。松島湾から南は貞山堀(全長36キロ)で七北田川河口の蒲生、名取川河口の閖上を経由し、阿武隈川河口の荒浜につながっている。
貞山堀は伊達政宗の時代に完成した運河で、政宗は石巻から荒浜までの内陸運河網を完成させ、年貢米の安全輸送を実現させようとした。北上運河→東名運河→貞山堀とつづく運河は日本最長で、伊達政宗の執念といえる。
ところが何とも皮肉なことに、これら運河に関係するところは北上川河口(今では旧北上川になっているが)の石巻、東名運河の野蒜、東名、貞山堀の蒲生、閖上、荒浜と、すべて今回の大津波で大きな被害を受けた。これらの運河が大津波を助長したのか、それとも大津波をやわらげたのか、すごく知りたいところだ。
旧野蒜駅は震災遺構として残された。駅舎は建て替えられ、今では「野蒜地域交流センター」になっている。2階の「東松島市震災復興伝承館」には、大津波による東松島市の惨状の写真が展示されている。映像ではすさまじい大津波の襲来を見ることもできる。
石巻市に入ると旧北上川の河口にかかる日和大橋を渡り、石巻漁港の新しい魚市場を見ていく。ここは日本でも最大級の魚市場。震災直後の魚市場周辺は地盤の沈下が激しく、一面水びたし。まったく近づけないような状態だった。水産加工場や冷凍倉庫はことごとくやられ、あたりには魚の腐ったような強烈な腐臭が漂っていた。石巻の主力産業の水産加工業は壊滅的な打撃を受け、「はたして復興する日が来るのだろうか…」と思ってしまうほどだ。それが見事に復興を果たした。
一晩、石巻の「サンファンヴィレッジ」に泊まり、翌日は牡鹿半島を一周して女川へ。
女川に到着すると、まずは高台の女川町地域医療センター(旧女川町民病院)前から、建設中の町を見下ろした。新しい町の完成にはまだまだほど遠い。盛り土した土地の造成は終わり、かさ上げされているので、病院のある高台が低くなったかのような錯覚を覚える。
次にJR石巻線の終着駅、女川駅に行く。きれいな駅舎の2階にある「女川温泉ゆぽっぽ」の湯に入り、駅前の新しい商店街を歩いた。女川駅の駅裏にはトレーラーハウスの宿泊施設「エルファロ」が移ってきている。
女川を出発し、国道398号で雄勝へ。震災後、まったく見捨てられたような感のあった雄勝だが、ここへきて復興工事のペースは上がり、高台移転の町並みが見え始めている。しかし、かつての町跡には何もないのが現状。雄勝の町は消えたままだ。新しい町を造っている女川と町の消えた雄勝、あまりも対照的な2つの町である。
▲震災直後の雄勝。公民館の屋上に大型バスが乗り上げていた(2011年)
雄勝の仮設商店街「おがつ店こ屋街」で昼食。「伝八寿し」のかけうどんと海鮮丼の「ミニ丼セット」を食べた。
▲雄勝の仮設商店街「おがつ店こ屋街」の「伝八寿し」で昼食にする
雄勝からさらに国道398号を行く。釜谷峠のトンネルを抜けて峠を下り、平成三陸大津波最大の悲劇の現場、大川小学校へ。大川小学校の建物はまだ残っていた。震災遺構で残すようだ。慰霊塔の前で亡くなった先生方や児童たちに手を合わせた。震災直後は、大川小学校の中に入れた。校舎の廊下の壁には先生方と全校生徒の集合写真が張られていたが、それが忘れられない。
大川小学校を後にすると、北上川にかかる新北上大橋を渡り、北上川の堤防上を行く。堤防工事と2車線の新しい道はほぼ完成している。白浜でVストローム250を止め、広々とした北上川の河口を眺めた。
三陸海岸の名勝、神割崎に寄り、南三陸町に入っていく。いかにも津波を連想させるような地名の波伝谷には、高台移転した新しい住宅地ができている。国道398号も海岸から高台に移っている。波伝谷漁港の工事はほぼ終わり、港はきれいに整備されている。
国道45号に合流し、南三陸町の志津川へ。ここも町全体が一大工事現場。その中に大津波のシンボル的存在の防災センターが、まるですっぽりと埋もれてしまったかのように見える。志津川の新しい町の姿はまだ見えないが、町を貫く国道45号は完成した。
南三陸町のもうひとつの町、歌津を通り、気仙沼市に入る。国道45号の道の駅「大谷海岸」のレストランで夕食。「気仙沼カレー」を食べた。気仙沼特産のメカジキがたっぷりと入っている。
国道45号を右折し、潮吹き岩で知られる岩井崎へ。この一帯も震災直後は大津波に襲われ、すさまじい惨状だったが、いまはその痕跡も薄れている。その中に4階建ての旧向洋高校の建物がポツンと残されている。大津波は最上階の4階にまで達したが、約170名の生徒全員は避難して無事だった。旧向洋高校は「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」としてオープンした。
岩井崎を歩く。岬の突端から潮吹き岩の潮吹きを見る。ここには第9代横綱の秀ノ山像が建っている。両国の国技館の壁画にも描かれている秀ノ山は気仙沼出身の大横綱。その秀ノ山像は大津波の直撃を受けても残った奇跡の像なのだ。
▲気仙沼の岩井崎に建つ第9代横綱秀ノ山の像。奇跡の像だ
夕暮れの岩井崎を歩き終えると、岬近くの民宿「崎野屋」に飛び込みで行き、ひと晩泊めてもらった。
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