
【賀曽利隆:冒険家・ツーリングジャーナリスト】
東日本大震災の発生から8年目の3・11に、「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走った。鵜ノ子岬は東北太平洋岸最南端の岬、尻屋崎は東北太平洋岸最北端の岬になる。東日本大震災によってもたらされた大津波は、日本の歴史上でも最大級の被害をもたらした。
2011年3月11日14時46分、三陸沖で発生したマグニチュード9.0という世界最大級の大地震は大津波を引き起こし、想像を絶する被害をもたらした。我が家は神奈川県西部の伊勢原市にあるが、これがマグニチュード9.0のすごさというもので、震源地から何百キロも離れているというのに、びっくりするような揺れ方だった。
マグニチュード8.0以上を「巨大地震」といっているが、9.0以上になると「超巨大地震」になる。20世紀以降の超巨大地震は1952年のカムチャッカ地震(M9.0)、1960年のチリ沖地震(M9.5)、1964年のアラスカ地震(M9.2)、2004年のスマトラ沖地震(M9.1~9.3)、そして今回の東北地方太平洋沖地震(M9.0)の5例でしかない。
地震発生から1時間もたたずに、高さ10メートルを超える大津波が東北の太平洋岸全域を襲った。最大波高は綾里湾(岩手)で記録した40.1メートル。震災直後のテレビニュースの画面を食い入るようにして見つづけた。真っ黒な壁となって猛烈な勢いで押し寄せる大津波が家々や田畑を飲み込み、道路を飲み込み、ものすごい数の車を飲み込んでいくシーンには言葉を失った。
大津波に追い討ちをかけるようにして、今度は原発の爆発事故が起きた。東京電力福島第一原子力発電所の1号機、2号機、3号機、4号機が次々と爆発。レベル7という史上最悪の原発事故になってしまった。
大津波で壊滅的な被害を受けた東北の太平洋岸を自分自身の目で見てみようと始めたのが「鵜ノ子岬→尻屋崎」なのだ。それ以降、何度も繰り返し、今回の「鵜ノ子岬→尻屋崎」は第22回目になる。
3・11の前夜、2019年3月10日は鵜ノ子岬の南側、茨城県の平潟港温泉「友の湯旅館」に泊まった。同行してくれているtododesuさん、chobidesuさんの若いカップルと同宿。夕食は「あんこう鍋」。「アンコウの七ツ道具」といわれるキモ、トモ、スノ、エラ、柳肉、水袋、皮が入っている。スノは卵巣、水袋は胃のことだ。アンコウは骨以外はすべて食べられる。とくに濃厚な味わいのキモの旨さといったらない。最後は雑炊にして食べたが、いくらでも食べられた。我々は「あんこう鍋」に大満足!
翌3月11日はザーザー降りの雨の中、「友の湯旅館」を出発。カソリの相棒はVストローム250。tododesuさん、chobidesuさんはバンディット1250Fでのタンデムだ。国道6号で県境を越えて福島県のいわき市に入ると、鵜ノ子岬北側の勿来漁港の岸壁にバイクを止めた。ありがたいことに雨は小降りになった。
「さー、北へ!」
まずは小名浜を目指す。植田から県道239号を行く。常磐火力発電所を過ぎると防潮堤は完成し、防災緑地も完成していた。この海沿いの県道239号は長い間、通行止がつづいたルート。
竜宮岬を目の前にする砂浜を歩き、小名浜に入っていく。今ではもう大津波の痕跡は見られない。東北でも最大級の「イオンモール」も完成している。
ここでは人気スポット「いわき・ら・ら・ミュウ」2Fの常設展示、「3・11のいわき東日本大震災展」を見学したあと、海鮮レストラン「いちよし」で昼食。「めひかり御膳」を食べた。メヒカリは「いわき市の魚」になっている。
小名浜からは岬めぐりを開始。この頃になると天気は回復した。まずは三崎。海に突き出た展望台から小名浜の北側に延びる断崖絶壁を見る。
ひきつづいて竜ヶ崎、合磯岬、塩屋崎、富神崎と岬をめぐる。竜ヶ崎の中之作漁港、合磯岬の江名漁港、塩屋崎の豊間漁港、富神崎の沼ノ内漁港というように、岬は漁港とセットになっている。大津波に襲われたこれらの漁港は復興し、港の設備は元に戻っている。しかし原発事故の影響で本格的な操業はいまだにできず、それに追い打ちをかけるような風評被害でどこも水揚量は激減し、漁港とその周辺は閑散としている。
塩屋崎では塩屋埼灯台に登り、南側の豊間海岸と北側の薄磯海岸を見下ろした。大津波で甚大な被害を受けた豊間と薄磯だが、防潮堤は完成し、防災緑地もほぼ完成し、2車線の海岸道路が完成している。塩屋崎は奇跡のポイント。美空ひばりの「みだれ髪」碑は大津波にもやられずに残った。
運命の14時46分は薄磯で迎えた。新しくできた慰霊碑の前で慰霊祭がおこなわれた。鳴り響くサイレンのあと1分間の黙とう。そのあと僧侶の読経。それが終わると参列者は慰霊碑に花を捧げて手を合わせた。
▲薄磯に完成した慰霊塔。ここで3・11の慰霊祭がおこなわれた
三崎から富神崎までの岬めぐりを終えると、新舞子浜を貫く海沿いの県道382号を北上。延々とつづく防潮堤はほぼ完成している。国道6号に合流すると、道の駅「よつくら港」で小休止。ここでtododesuさん、chobidesuさんと「ワンダ」で乾杯。そのあと今晩の宿、四倉舞子温泉の「よこ川荘」に行った。
「よこ川荘」には渡辺哲さんともんがぁ~さんがやってきた。湯から上がると、4人で夕食。さすがというか、カツオの刺身が美味だった。夕食を終えると、tododesuさん、chobidesuさんはナイトランで横浜の自宅に帰っていった。
▲一晩泊まった四倉舞子温泉の夕食。このほかカツオの刺身が出た
翌3月12日は「よこ川荘」の朝湯に入り、朝食を食べて出発。Vストローム250に乗る渡辺哲さんとセローに乗るもんがぁ~さんが同行してくれる。まずは波立海岸へ。国道6号のバイパスが完成したので、海沿いの旧道は県道395号になっている。波立薬師を参拝したが、ここは大津波にも残った。目の前の弁天島の鳥居も残った。
▲波立海岸を通る国道6号の旧道。海岸堤防は完成し、すっかりきれいになった
つづいて久之浜へ。復興が進み、防潮堤は完成し、防災林も完成している。防災林の樹木が成長したときはまた新たな風景が見られることだろう。秋葉神社を参拝。ここも奇跡のポイントで大津波にも、その後の大火事にも残った。波立海岸といい久之浜といい、改めて神仏のすごさを実感するのだった。
久之浜漁港前の殿上崎を見たあと久之浜を出発。国道6号に合流すると、広野町から楢葉町へ。ここでは常磐線の木戸駅に立ち寄ったあと、木戸川河口の天神岬の展望台に立った。東京電力の広野火力発電所がよく見える。そのあと天神岬温泉「しおかぜ荘」の湯に入った。絶景湯で露天風呂の湯につかりながら太平洋の大海原を一望。湯から上がると昼食の「ざるうどん」を食べた。
楢葉町では太平洋岸最北の波倉まで行く。そこからは東京電力の福島第2原子力発電所が見える。大津波によってズタズタにされた防潮堤はきれいに修復されている。今回の東日本大震災での一番の幸運は、この福島第2が福島第1のような爆発事故を起こさなかったことだ。関係者の懸命な努力で、奇跡的に爆発事故を食い止めることができた。より大規模な第2が爆発事故を起こしていたら、周辺のみならず、首都圏は人が住めない不毛の大地に変りはてていたかもしれないのだ。
波倉を出発し、楢葉町から富岡町に入る。常磐線の富岡駅前でバイクを止める。常磐線は今、東京からここまで開通している。きれいな駅舎が完成し、駅前広場が整備され、駅前ホテルもできている。しかし富岡の中心街に入っていくと、いまだにゴーストタウンの様相で人の姿をほとんど見ない。国道6号も富岡町から浪江町の間はバイクの通行は禁止のままだ。
桜の名所、夜ノ森から常磐道の常磐富岡ICへ。そこから浪江ICまでは常磐道を走って国道6号の二輪車通行禁止区間を迂回する。浪江ICからは国道114号経由で浪江の中心街に入り、常磐線の浪江駅前へ。現在、常磐線は浪江から仙台までは開通している。
浪江の中心街から国道6号を横切り、請戸川河口の請戸漁港に行く。漁港の復興はかなり進んでいるが、周辺の集落は跡形なく消え去っている。その中にポツンと請戸小学校が残っている。請戸小学校の生徒93人と教職員19人は全員、無事だった。大津波に直撃された請戸小学校の校舎は震災遺構として残されることになった。福島県では初めての震災遺構になる。
請戸からは海沿いの県道255号で南相馬市に入る。この市町境ではバイクを止めて感慨にひたった。長い間、通行止で南相馬市側から浪江町に入ることができなかったからだ。南相馬市では常磐線の小高駅に立ち寄り、海沿いの県道260号を北上。この道も今では全線、通行可。そのまま県道74号に入り、太平洋の海岸線を北上する。
南相馬市から相馬市に入ったところにある一軒宿の蒲庭温泉「蒲庭館」に泊まった。湯に入り、夕食を食べ終えると、部屋で渡辺哲さん、もんがぁ~さんとの二次会開始。なつかしの「蒲庭館」に胸がジーンとしてくる。
東日本大震災の直後に「蒲庭館」に泊まったとき、若奥さんからは「地震のあと大津波警報が出たのは知ってましたが、どうせ5、60センチぐらいだろうと思ってました。まさかあんな大きな津波が来るなんて…」という話を聞いた。
3・11の大津波襲来の時には高台にある小学校での謝恩会だったという。そこからは巨大な黒い壁となって押し寄せてくる大津波が見えたという。黒い壁は堤防を破壊し、あっというまに田畑を飲み込み、集落を飲み込んだ。多くの人たちが逃げ遅れ、この磯部地区だけでも250余名の犠牲者が出たという。「蒲庭館」は海岸近くにあるのにもにかかわらず、高台にあるので無事だった。
今回の東日本大震災の大津波は東北の太平洋岸の全域に押し寄せたが、仙台以北は何度となく大津波に襲われている。近年だけでも明治三陸大津波(1896年)、昭和三陸大津波(1933年)、そして今回の平成三陸大津波(2011年)とたてつづけだ。ところが仙台以南は1611年の慶長大津波以来、400年間、津波らしい津波には襲われていない。そのような背景があって、大津波警報が出ても「どうせ5、60センチぐらいだろう」と、多くの人がそう思っていた。そのため海岸まで津波見物に行って命を落とした人も少なくない。
「蒲庭館」には翌年(2012年)の3月にも再訪したが、若奥さんからはその時には次のような話を聞いた。
「被災したみなさんは1年たってもまだ現実を受け入れられないのです。悪夢を見ているのではないか、朝、目を覚ませば、また元の村の風景、元の家、元の生活に戻っているのではないかって、思っているのです。あまりにも一瞬にして多くの人命と財産を失いましたからね」
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