ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。

ヤマハWGPチーム監督・桜田修司さん

出会い:18歳~

プロフィール
中学生の時にスティーブ・マックイーンの映画『栄光のル・マン』に感動。ラリーやモトクロスを経験。大学卒業後、2年間の会社勤めを経験。

1981年、ヤマハ発動機に入社。
1983年よりロードレース担当となり、1994年~2003年、GP監督として歴代のヤマハライダーたちを支えた。

アメリカではすでに知られた存在だった

阿部典史を認識したのは、1993年の全日本ロードレース選手権で500ccクラス参戦を始めた開幕戦・鈴鹿だった。

ヤマハの本間利彦が勝ち、阿部が2位に入った。「こんなライダーがいたのか?」とスタッフと話をしていたら、阿部がアメリカにダートトラック修行へ出かけていて、ケニーの親父(ロバーツ)やウェイン(レイニー)も阿部のことを知っている。「アメリカでは有名だ」と教えられた。

そんなライダーが日本にもいるのかと思ったのが最初だった。それにしても、「17歳の若いライダーをいきなり500に乗せたな」とホンダの決断には驚いていた。この年、ノリックのレースを見たのは開幕戦だけで、その後は海外に出てしまったため、彼の活躍は見ていない。

1994年のWGP日本GPは、ピットでケニーやウェインと一緒に見ていた。衝撃のWGPデビューレースだった。阿部はサテライトチームからのワイルドカード参戦だったので、「どうしてホンダは阿部と契約しないのかな」と思った。

しかし、ヤマハは原田哲也がWGP250で海外参戦を始めており、500には全日本でV3を達成した藤原儀彦もいて、そのご褒美の意味もあって海外参戦を考えていた時期でもあった。そうした背景から、他社のライダーである阿部に強い興味を惹かれることはなかった。

だが、ウェインは自分のチームを始めていて、ライダーを探していたことで阿部が候補に上がった。レイニーが阿部に来季の参戦を打診したことがきっかけとなり、阿部側の意思も確認できたことで、最初は「ケニーのチームで250がいいだろう」という案が上がっていた。ただ、シーズン途中での移籍は考えておらず、あくまで1995年度に向けての話だった。

ところがチーム・ロバーツ・ヤマハのダリル・ビーティが第9戦ル・マンで怪我を負い、その代役に阿部が決まった。この辺は上の方で調整が行われたようで、日本GPから3か月後、イギリスのドニントンに阿部がやって来た。

上司から「頼む」と言われたが、レースウィークの水曜・木曜はチャリティイベントがあり、いつものGP以上に忙しく、バタバタと準備を進める中で金曜日のフリー走行が始まった。

「慣らしって何ですか?」

阿部の日本GPでの印象は海外スタッフにも鮮烈で、メディアの注目度も高く、複数のカメラが阿部の動きを追いかけていた。阿部の誕生日は9月7日。あの時は19歳になったばかりで、いきなり最高峰のプロフェッショナル集団に投げ込まれたようなものだった。少し心配もあったが、メンタルの強さなのか、阿部は堂々としていた。

まず阿部に「エンジンの慣らしから」と言うと、「慣らしって何ですか?」と返ってきた。

「うーん、知らないの?」と驚いた。全日本チャンピオンで、ワイルドカードであんな走りをしたライダーなのに……。いったい、どんなキャリアを積んでここまで来たのかと思った。

だが知らないものは仕方がない。「3周は様子を見て、4周目から全開で」と伝えた。阿部は初めてのコース、初めてのヤマハYZRで走り出し、3周を終えて「さて、ここから」と思った矢先、最終コーナーでクラッシュした。

手の指を縫う怪我を負い、救急車で病院へ搬送され、そのまま手術となった。一晩付き添った。手が使えないため、自分がスプーンで食事を食べさせた。まだ会って数日しか経っていないのに、家族のような距離の近さだった。

イギリスの片田舎の病院で、あまり知らない大人と向き合い、きっと辛かったと思うが、泣き言を言わず気丈に振る舞っていた。とてもしっかりしていて、「日本の男の子だな」と頼もしく、好感を持った。

ヤマハの日本人ライダーたちは、地方選から全日本まで一緒に過ごすことが多く、良くも悪くも仲が良い。頼り合う関係が強いが、阿部はひとりで歩いてきた生え抜きのライダーなのだと思った。

1995年からフル参戦となり、マルボロ・ヤマハ・ロバーツ入り。チームメイトはルカ・カダローラだった。カダローラに阿部の先生になってもらいたかったが、ライディングが違い、無理な相談だった。マシンもカダローラ寄りの開発で、阿部は苦労しながら懸命にトライすることになる。

1996年には日本GPで勝ってくれたが、1997年からはマルボロ・ヤマハ・レイニーとなり、2シーズンを過ごす。ここでは勝利に恵まれなかった。

1998年からサテライトチームのアンテナ3・ヤマハ・ダンティンへ移籍する。ファクトリーチームからサテライトへの移籍の際は、阿部に続く中野真矢や芳賀紀行の存在、さらに海外ライダーの状況もあり、阿部を抱えきれなくなった。「アンテナ3に行ってもらう」と伝えた時、阿部は啞然とした表情だった。

その後、これからのことを話し合い、引退という選択肢も出たが、最終的には「勝てる可能性がなくなったわけではない」と、厳しい戦いになることを承知の上で続ける決断をしている。

その阿部が1999年、ブラジルGP・ネルソン・ピケ・サーキットで勝った。田舎町にあるサーキットで、高速レイアウト、リズムが取りにくく、度胸が試されるコース。考えてみれば、阿部にぴったりな場所だったのかもしれない。

予選まではタイムが出なかったが、決勝ではビアッジやロバーツJr.と激しいトップ争いを演じ、常に攻めの走りを貫いた阿部が、彼らしい走りで勝ってくれた。サテライトチームに行った苦労を知っていたこともあり、逆境を跳ね返すような勝利で、これまでの中でも一番うれしいものだった。

阿部は2000年に日本GPで勝ち、2004年までWGPで戦い、その後はスーパーバイク世界選手権、全日本と、ヤマハのライダーとして戦い続けてくれた。

「賭けてみよう」そう思わせるだけの逸材だった

今、振り返っても、阿部のヤマハ入りは異例で、当時としては考えられないことだった。それでも自分たちは、真剣に阿部を世界チャンピオンにしようとしていた。「阿部に賭けてみよう」という気運が、確かにあった。それほどの逸材だったと思う。

ヤマハのWGPの歴史をさかのぼれば、ジャコモ・アゴスチーニ、ケニー・ロバーツ、エディ・ローソン、平忠彦、ウェイン・レイニー、ルカ・カダローラ、阿部典史、マックス・ビアッジ、そしてバレンティーノ・ロッシ、ファビオ・クアルタラロへとつながっていく。

阿部は、ヤマハにとって本当に大事なライダーだった。歴代の中でも、記憶に残るライダーとして上位を争う存在だろう。

世界チャンピオンになるライダーは、無名時代に苦労していることが多い。レース界で上り詰めるライダーには、やはり“引っかかるもの”がある。15歳でアメリカに渡った経験や、この業界に染まっていない生い立ちが、阿部の魅力を形作っていたのかもしれない。

彼はセッティングで乗りやすいマシンを作ろうとするタイプではなく、そのマシンに自分を合わせ、力を引き出すライダーだった。だから最初の1~2シーズンは、セッティングにこだわらず、ひたすら乗り込む時間として阿部のスタイルに合わせたやり方があったのではないかと、今は思う。

世界チャンピオン最大のチャンスは、1996年だったのではないかと、個人的には思う。

自分たちはマシンばかりに目が行き、そこを何とかしようとしてきたが、もっと阿部に寄り添い、話を聞く姿勢があったなら、阿部の走りをもっと活かせたのではないか――。そう思うと、日本人初の最高峰チャンピオンに阿部を押し上げられたかも知れないのにと悔いが残る。

阿部のレースを見ていると、特別な高揚感があり、「やってくれるのではないか」という期待感を煽ってくれた。だから、阿部とレースに取り組むことは、スタッフとの一体感も含めて気持ちが良かった。

喜怒哀楽が激しく、しょっちゅう泣いていたが、それも含めて人間的魅力があった。多くのライダーを見てきたが、不平不満や愚痴の多いライダーもいる中で、阿部は勝っても負けてもバイクのせいにしたことは一度もなかった。責めるのは、常に自分だった。

阿部は潔く、爽やかで、明るいスターだった。阿部と過ごしたシーズンは、いつもエキサイティングで充実していた。叶うならあの頃に戻って、もう一度、阿部とチャンピオンを目指したい。

画像ギャラリー (1枚)

 

この記事にいいねする


コメントを残す