ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。

元ヤマハ広報・宮本義信さん

出会い20歳~

プロフィール
1985年 ヤマハ発動機入社
1999年 広報宣伝部着任。二輪車を中心としたヤマハ製品及び国内・海外レースの社会へのアピール、国内外モーターショー運営業務を担う。
2013年 国内販売会社におけるマーケティング責任者
2017年 同安全普及推進本部副本部長を経て、現在に至る。

「宮本くん、すごいライダーがいるんだよ」

1985年にヤマハに入社して、1991年くらいまでは東京都葛飾区にあった営業所でバイクショップ担当のルートセールス業務の営業マンをしていました。

その担当ショップの中に「スポーツショップISHII」さんがありました。私の入社前から「SP忠男」さんと並ぶ関東の名門ヤマハレーシングショップであり、SP忠男さんがライダー育成が得意だとしたら、ISHIIさんはそれに加えてマシン開発も得意だった印象でした。

そのスポーツショップ ISHIIさんの番頭の方から「宮本君、すごいライダーがいるんだよ。スライドがすごくて、これまでのライダーとレベルが違う。半端じゃない才能を感じる。」という話を当時聞きました。そのライダーが黄色と黒のカラーリングのTZ250に乗っていた阿部典史さんでした。

当時は私が東京の本部へ異動の時期だったこともあり、会う機会はありませんでしたが、ISHIIさんで走っていればいずれは頭角を現してくるのだろうと思っていました。

その後、私はヤマハ東京本部のレース普及担当になり、1993年に彼のレースを見る機会ができたのですが、全日本選手権の500ccにチームブルーフォックスからホンダNSR500での参戦で「あれ? ヤマハじゃないの?」と思いました。その年のチャンピオンになって、やっぱりすごいライダーだというのは本当だったなと思いましたね。

その後、モトクロスマシンYZ80のエンジンを積んだミッション付きレーシングカートの市場導入の担当を始めたころ、仕事で埼玉県のサーキット秋ヶ瀬に出かけたことがありました。4輪レースで有名な本山哲さんのご実家で、カートやミニバイクレースのメッカとして有名なサーキットです。

ここで、まだ無名時代の阿部選手や加藤大治郎さん、本山さんもバイクで走っていたと聞きました。彼らはお互いの家に泊まり、練習を重ねて切磋琢磨した仲間だったことを知り、サーキット秋ヶ瀬は若い才能が育った大切な場所なのだと感慨深かったです。

圧倒的なオーラと存在感

1999年にはヤマハ発動機本社の広報宣伝部へ異動して、ヤマハのGPライダーとして活躍していた阿部選手といよいよ一緒に仕事をするようになります。会った時から、圧倒的なオーラというか存在感がありました。

ヤマハのPRに彼は本当によく協力してくれました。その中で印象に残るのは、2005年だったか、富士スピードウェイがトヨタさん系列として新しく経営が変わる時のイベントです。阿部選手にはヤマハ発動機創業50周年記念カラーである赤白のスペシャルカラーのYZR-Ⅿ1で、同コースをF1マシンと共に走行してもらったことがあります。派手なことが大好きでした。

そうそう、2004年には2輪専門誌さん向けのイベントがヤマハのテストコースで行われ、阿部選手に最新型YZF-R1のデモ走行をお願いしたことがあります。

彼には事前テストも無く、ぶっつけ本番でリリースしたばかりのR1に乗ってもらったのですが、スタートの際にはピットレーンで高々と前輪を空に向け、ウィリーで一気に駆け抜けました。テストコースにいた皆さんから「ウォー」と物凄い歓声が上がったシーンでした。

こちらから特にお願いしたわけではなく、打ち合わせもなしに阿部選手自身が考えた走行だったのですが、どうしたらメディアの皆さんにインパクトを持ってもらえるのかを瞬時に考え、バッチリやってのけてしまうのが阿部選手でした。

持って生まれたスター性というのか……。誰もが驚くことを自然にやってしまうんですね。イベント運営側の我々も本当に驚いて、皆さんの笑顔やビックリする顔を見て「阿部選手にお願いして良かったー!」と思うわけです。

阿部選手の人気はアジア圏でも非常に高く、台湾のアイドルグループF4(2001年に放送された大ヒットドラマ『流星花園』に登場する4人)が出演する映画に阿部選手が出演したことで、その存在は一般の方にもさらに知られるものとなりました。

アジア圏でのレースやショー等におけるイベントでは、集まったファンの熱気と声援の大きさが違いましたね。他のWGPライダーと比べてもナンバー1と言って良いほどの認知度と人気を誇っていました。

ノリックに一度だけ怒られた、その理由とは

人気の秘密は、ライダーとしての速さや強さももちろんありますが、ファンサービスが素晴らしいということも多分にあったと思います。ファンの気持ちを察して、考えられる以上のサービスをしてくれました。

サインを求められたら、それだけでなく写真を一緒に撮ったり、話しかけたりと、ツボを押さえているというか、ファンの方にこうしてあげたら喜んでくれるだろうというのをよくわかっていたと思います。

ヤマハのPRを担う広報からしたら、頼もしいライダーでした。唯一の難点は、取材や打ち合わせの時間にたまにというかよく…遅れてしまうことでしたね(笑)。

そんな彼に一度だけ怒られたことがあります。

2002年に中野真矢選手がトヨタ・カローラのニューモデルCMに起用された時です。「どうして、自分じゃないんだ」と言われたことがありました。

中野選手の真面目で好青年なイメージと新型カローラのコンセプトが合致したという話を広告代理店サイドから後日聞きました。阿部選手を差し置いて中野選手が選ばれたというわけではありませんでした。スポーツカーのような車種なら間違いなく阿部選手だったのだろうと思いますが、そのことをうまく伝えることができなかったことを少し悔やんでいます。

自分がヤマハを代表するライダーなのだという自覚や自負があってのことだと思います。それくらいの貢献をしてくれていましたから…。なので、怒るのも無理はなかったかも。

2007年10月7日、あの日は日曜日だった

2003年に加藤大治郎選手がレース事故で亡くなります。この時、ヤマハのMotoGPライダー一同で、加藤大治郎選手のお別れの会に合わせて、彼らのメッセージを入れたプレートを先方に渡しています。

加藤選手のレース事故後、阿部選手は子供の頃からの付き合いで家族同然の存在だった加藤選手のことをとても心配していました。加藤選手が亡くなった時は、相当ショックを受けていたことを記憶しています。

取材では、阿部選手は強気の発言が多いのですが、流石にこの時は言葉も少なくなりとても沈んでいました。

ヤマハから加藤大治郎選手の遺族に渡されたプレート。当時ヤマハのMotoGPライダーだった、アレックス・バロス、カルロス・チェカ、マルコ・メランドリ、オリビエ・ジャック、中野真矢、そして阿部典史という6名のメッセージが刻まれている。

 

2004年を限りにMotoGP参戦を終え、2005年はスーパーバイク世界選手権を戦い、2007年から全日本を走ってくれることになり、走ることはないだろうと思っていた鈴鹿8時間耐久にも参戦してくれ、阿部選手はこれからの日本のレース界を盛り上げようとしてくれていました。

そんな中だったので、2007年の交通事故は信じられない思いしかなかったです。

あの時、10月7日は日曜日だったんです。自宅でビールを飲みながらテレビを見ていたら、日本テレビのアナウンサーから携帯に電話がかかってきて、「報道部に神奈川県川崎市で阿部典史さん事故死の一報が入ってきたが、これは事実か?」と聞かれました。

ビックリして事実かどうか確認しようと、阿部選手の父親である光雄さんにすぐ連絡したのですが、オートレース開催期間中だったらしく電話が全然つながらない。

そうしているうちに、夜中のTVのニュースで日本GP鈴鹿優勝時のトロフィーを掲げる笑顔の阿部選手の写真と共に事故死のニュースが流れてきた。それでもまだ自分は、「これは夢に違いない」と思っていたんですよ。信じたくなかったからですね。

その後に光雄さんから連絡が来て、「亡くなった」と言うので……。涙が止まりませんでした。

自分でさえ殴り掛かりたい。しかし光雄さんは…

弔問に阿部選手のご自宅へと向かいました。横たわる阿部選手の顔にあざのような傷がありましたが、穏やかな顔でした。

そこに事故を起こしたドライバーとその上司が来て、ご家族に土下座して謝る場面に遭遇します。奥様は取り乱しますが、光雄さんは冷静に対処して奥様をなだめていた。

自分でさえ殴り掛かってやろうかと思うくらいで、奥様の感情に近い憤りを感じずにはいられませんでした。それなのに、自分の分身のような息子を、相手の前方不注意、道交法違反で亡くされた父親の光雄さんが、グッと気持ちを押さえているんです。その姿を忘れることが出来ません。

ヤマハとしては、そこから関係者やファンの皆様にお別れをしてもらう会の準備にすぐ動きださなければなりませんでした。日程や場所に合わせ内容を考え、案内を出し、ウェイン・レイニーやバレンティーノ・ロッシにメッセージをお願いするなどの作業に忙殺され、あの期間の記憶はほとんどありません。

阿部選手はバイク事故で胸部を強く打ち亡くなってしまったことで、ライダーに胸部保護の重要性を示します。あの後、胸部プロテクターを装着するライダーが増えました。最後までこの業界のことを思ってくれていたのかなと思うと、また悲しみが蘇ります。

阿部選手が亡くなってから、もう20年近くの歳月が流れました。

それでもヤマハファンやレースファン向けのイベントを考える時、ふと「阿部選手がいてくれたら…」と思ってしまう。それだけ彼は、ヤマハにとっても日本のレース界にとっても、大きな存在だったのだと思い知らされます。

 

画像ギャラリー (2枚)

この記事にいいねする


コメント一覧
  1. たけちゃん より:

    ノリックが全日本に戻って来た時の筑波、第2パドックから戻ってくるとピットから出て来たノリックと鉢合わせしました。サインを貰っているとあっという間に人だかり。最後の最後までファンサービスしてました。あの時のレースは赤旗で再スタートになったのですが、2回ともスタートダッシュして先頭に立ったのを覚えてます。

  2. sugizoo より:

    ishii-OXで走っていましたね NAの時代
    当時は治親さんもNBで国内転戦していましたが、お二人は完全に別格でした
    亡くなった当時、HITAIRの広告にも出ていましたから、HITAIRフル装備ではなかったことが悔やまれます
    胸部プロテクターとエアバックがあったらもしかしたらと思わずにはいられませんでした

コメントをもっと見る
コメントを残す