ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。
出会い17歳~
プロフィール
1989年ロードレースデビュー、九州選手権SP250 チャンピオン
1990年鈴鹿4時間耐久優勝(ペア柳川明)
1993年ホンダワークス入り、全日本ロードレース選手権国際A級250チャンピオン
1996年~2000年ロードレース世界選手権参戦、GP250最高ランキング2位
2002年MotoGPランキング3位、日本人初のMotoGP優勝を飾る
2003年MotoGPランキング8位
いきなりのGP500。どんなものかと思っていたら…
阿部典史選手のことは、彼が地方選を走っていた1992年から知っていました。走りを見て「すげえ乗り方しているな」と。そんな走り方でタイムが出るのか?と思うくらいめちゃくちゃで、でもタイムが出ているから驚いたのを覚えています。
翌年のシーズンが始まったらGP500に乗るって聞いて、更に驚きました。自分はノービス、ジュニアと段階を踏んで1992年に国際A級に昇格し、ホンダワークス入りしてGP250に参戦。ノリックが全日本GP500に参戦した1993年はGP250参戦2年目でした。
自分にとってGP500のライダーは憧れと言うか、ちょっと手の届かない世界でした。皆いつかはGP500のライダーになりたいと考えていたと思います。ホンダに所属している自分でさえ、テストでも乗らせてもらえなかったですから…。本当に特別なマシンであり、特別な最高峰クラスでした。
あの時、ホンダはダリル・ビーティーさんと辻本聡さん、ヤマハは藤原儀彦さんと本間利彦さんがいて、そこに地方選をちょっと走っていただけの阿部選手でしょう。ちょっと意地悪な気持ちにもなり「乗れるものなら乗ってみろ」って、見ていた人が多かったと思います。少なくとも、自分はどんなものかと思っていましたね。
それが簡単に乗ってしまって、チャンピオンになってしまった。
優勝した日本人ライダーがかすむ、1994年の日本GP
そして1994年にワイルドカード参戦の日本GPです。1993年にオールジャパン構想でロードレース世界選手権(WGP)のGP500に伊藤真一さんが、GP250に岡田忠之さん、原田哲也さんが参戦、青木宣篤さんも世界に出ていた。GP125クラスにもフル参戦している日本人ライダーがいました。
だから1994年の日本GPはWGPフル参戦組、ワイルドカード参戦組にとっても特別に気合の入る戦いでした。自分も世界へのチャンスを掴みたいと思っていました。
GP125は辻村猛選手が優勝し、2位に坂田和人選手、3位はワイルドカード参戦の仲城英幸選手と、日本人が表彰台を独占します。GP250 は先輩の岡田忠之さんがGP初優勝を果たし、2位はロリス・カピロッシ、自分もワイルドカードで3位に入り表彰台に登りました。GP500はケビン・シュワンツが優勝、2位にミック・ドゥーハン、3位に伊藤さんでした。
でも、日本GPのニュースはトップ争いをして転倒してしまった阿部一色でした。悔しいですが、他の日本人の活躍がかすんでしまうほどインパクトのある走りで、誰よりも強烈な印象で勝っていたということです。
そして、その年の途中にはWGP参戦ですから。それもトップチームのマールボロ・ヤマハ・ロバーツでしょう。意味が分かりませんでした。
自分も1996年からWGP参戦させてもらい、2001年にはGP500に乗り、2002年からMotoGP参戦して2005年まで走り続けました。
阿部選手とは、同じクラスを走っていましたが、直接、絡むことはなくて、レースの印象は、あまり残っていません。パドックでも、お互いに、モーターホームにいることが多く、接点は意外と少なかったです。
ライダーが派手に遊んでいた時代
それでも、帰国するとライダー仲間と飲みに出かけるのが恒例でした。自分はあの頃はほとんど飲めなかったのもあるし、運転手要員でした。だから喧嘩の仲裁役ばっかりしていましたね。
阿部選手は絶対に自分の意見を曲げない、頑固なところがあるので…。というよりライダーはみんなそうなので、よく衝突していましたね。どうしてそうなるのか、まったくわからなかったけど、もう本当、意見が対立すれば簡単には折れなかった。殴り合う寸前になり「まあまあ」と皆で止めに入る。だから阿部と聞くと真っ先に「喧嘩」を思い出します。
あの頃は、日本GP開催会見や打ち上げがベルファーレ(巨大LEDビジョンと最先端サウンドを備えた日本最大級のクラブ)で行われるなど、華やかな時代だったように思います。最後は喧嘩するくせによく集まっていました。
阿部選手は契約金が入るとすぐポルシェを買いに行って、その後はフェラーリでしょう。服装にも気を使っていて、何十万もするビンテージデニムを履いていた。劇画や小説の世界に生きている、別次元の人のようでした。少しイメージは違いますが、「汚れた英雄」(大藪春彦原作。天才ライダーの物語)の主人公のように次々と夢をかなえて行った。
自分は32歳で引退して、会社員になる道を選びました。
阿部選手はそんな選択肢を考えなかったと思います。生きていてくれたら、変わらずに常に全開で、周囲の想像を追い越していたのではないか…。そう思います。
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