ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。

ヤマハエンジニア・中島雅彦さん

出会い 17歳〜

プロフィール
1983年ヤマハ入社。1986年よりロードレース世界選手権(WGP)にエンジニアとして携わり、GP500クラスではプロジェクトリーダーとしてウェイン・レイニーらを支えた。2017年には世界耐久選手権でも野左根航汰をサポートしている。

1994年の日本GP後、レイニーと話し込む姿が記憶に残る

1993年は、ロードレース世界選手権(WGP)と全日本ロードレース選手権(全日本)を、約3か月ごとにローテーションしていた時期でした。阿部典史を初めて見たのは、彼が全日本500クラスにデビューしたシーズンです。

ライディングスタイルが独特な阿部はホンダを駆り、ベテランライダーたちと渡りあって、頭角を現しました。デビューシーズンに17歳でチャンピオンになってしまう。「とんでもない才能を持ったライダーが現れた」そう思わせるインパクトがありました。

翌1994年の日本GPも現場で見ていました。ミスター飲茶カラーのホンダNSR500でケビン・シュワンツやミック・ドゥーハンを追いかけ回し、残り3ラップでの転倒は、ライバルメーカーのライダーでありながら残念に感じたのを覚えています。レース後、ウェイン・レイニーと阿部が熱心に話し込んでいた光景が、今も記憶に残っています。

阿部はダートトラックをするためにアメリカへ行っていたこともあり、ケニー・ロバーツやレイニーと面識があったようです。そこでどんな会話が交わされていたのかは分かりませんが……。

ウェインは1993年イタリアGPでの転倒により重傷を負いました。現場にいた自分にとって、衝撃的な事故でした。もう、レースを続けられないと落胆した自分に「俺は復帰するのに、お前がいなくてどうする」と病院ベッドで横たわるレイニーが励ましてくれたんです。

その言葉通りに、強い意志で復帰を目指してくれました。ライダーとしての復帰は叶いませんでしたが、1994年、自らチームを率いて監督となり活動を始め、現場に残る道を選んでくれました。そんな彼のために力になりたいという気持ちが強くありました。

なので、レイニーが気に入っている阿部のことは気にしていましたが、阿部はホンダのライダーなので、ヤマハは他メーカーからライダーを引き抜くようなことはしませんから、この時点では「昔の知り合いとの再会」くらいに思っていました。

十数段を一気に飛び越え、ヤマハのファクトリーチーム入り

ところがその年、ダリル・ビューティの代役として、阿部がイギリスでのテストに現れた時は、本当に驚きました。私はライダー契約に関わる立場ではなかったので経緯は分かりませんが、「どうして?」と、現場にいたスタッフは皆、言葉を失っていました。

でも、皆、あの日本GPの走りを知っていたので、期待もあって、テストは熱を帯びたものになりました。ですが、阿部はすぐ転倒してしまい、ちょっと、肩透かしのような…。

それでも、1995年から、阿部はWGP500クラスへのフル参戦を開始します。ヤマハの日本人ライダーとしては、平忠彦さん以来の最高峰フル参戦でした。

しかも、日本人ライダーが通常踏むべきステップを、阿部は十数段ほど一気に飛び越えて、ヤマハのファクトリートップチームであるマルボロ・ヤマハ・ロバーツに所属することになります。このチーム入りは、WGPを戦うライダーにとっても決して簡単なものではありません。関係者の多くが驚いた、大抜擢だったと思います。

監督はケニー・ロバーツで、非常に厳しい人物ですし、メカニックも名の知れた精鋭揃い。ヤマハファクトリー直結のチームですから、10代の若者にとっては、相当な緊張と重圧がかかるはずでした。ところが阿部は、まるで長年その場所にいたかのように自然体で、すぐに溶け込んでいました。それどころか、こちらの懐に飛び込んできた。

無口で大人しく、真面目。それまでの日本人ライダー像を覆し、誰とでも分け隔てなく接し、明るく振る舞う。気がつけば、スタッフ全員が阿部を気に入っていました。時間ができると、「テニスやろうよ」とメカニックを誘い、一緒に遊ぶ。その振る舞い自体が新鮮で、「これは大物だな」と感じさせるものがありました。

規格外なのは、走りだけではありません。マレーシアのシャー・アラム・サーキットでのテストの時のことです。阿部に「レンタカーを貸してください」と言われ、キーを渡しました。

すると駐車場で、ドリフト、急ブレーキ、スピン……と、やりたい放題。「レンタカーなのに、いい加減にしろよ」と思っていた矢先、ガッシャーン! 車は横転してゴロゴロと転がりました。肝を冷やしましたが、幸い阿部は無傷。ホッとしましたが、車は大破。頭を抱えました。

レンタカー会社での事務処理を終え、ホテルに戻ると、さすがの阿部もこの時ばかりはシュンとしていました。珍しく大人しかったですね。この話を阿部の父・光雄さんにすると、「フェラーリを知人から借りた時も無茶して。壊したら8000万円だぞ~」って止めました。と笑っていました。

レースで最も印象に残っているのは、1996年の日本GPです。阿部は予選で振るわず、予選後にピストンを交換したのですが、その作業を担当したのが、かつてレイニーのメカニックだった人物でした。彼は勝利を願い、ピストンにメッセージを書き込んで装着しました。

そして――勝った。正直、予想外の優勝でした。

ダメかもしれないと思っていた状況からの勝利だっただけに、喜びは大きく、スタッフ全員でシャンパンを開けて祝いました。メカニックは記念にと、そのピストンに阿部のサインをもらい、大切そうに抱えていました。

WGP500では1982年の片山敬済さん以来の日本人ライダーの優勝で、この時、まだ、阿部は20歳の快挙でした。メーカーを超えて、たくさんの人が祝福してくれた勝利でした。

2002年、MotoGPとGP500が混走となります。私はGP500のプロジェクトリーダーを務めていましたが、社内はMotoGPへと移行していく流れでした。

その頃、阿部はMotoGPの開発ライダーを務め、ワイルドカードでオーストラリアGPに参戦していました。キャブレターからインジェクションへの移行期で、そのテストを阿部が担当していました。

急きょ、そのテストパーツを現地に届ける必要が生じ、部長から「土地勘があって、確実に届けられるのはお前しかいない」と言われました。自分は500のプロジェクトリーダーなので……と断ったのですが、お前しかいないと押し切られ、「仕方ない。阿部のためだ」と引き受けました。

金曜日、塗装の匂いが残る出来立てのパーツを受け取り、浜松から新幹線で成田へ。夜便でオーストラリアに飛び、レンタカーを飛ばしてサーキットへ。「間に合った……」そう思ったら、阿部はメディカルセンターにいました。

「中島さん、何でいるんですか? 何しに来たんですか?」と聞かれ、「お前のために……」と言葉を飲み込みました。幸いケガは深刻ではありませんでしたが、決勝は欠場。顔なじみのスタッフは、せっかく来たんだから、泊まって、レースも見てほしいと誘ってくれたのですが、パーツを置いて、サーキット滞在は1〜2時間。その夜便で帰国しました。

阿部にまつわる思い出は、どれも強烈で、彼のキャラクターそのものだったように思います。

感動と笑顔を世界中に届けてくれた稀有な存在

若くして単身海外に渡り、その後は奥さんが同行しましたが、WGPの生活は、日本人にとって決して居心地の良いものではありません。衣・食・住のストレスは、想像以上に大きい。

それでも阿部は、自分なりの生活スタイルを確立し、レースに集中できる環境を作っていました。これは、ライディングテクニックや才能に匹敵するほど、重要な能力です。

阿部は、自分の才能を生かせる世界を見つけ、「誰も成し遂げていないことを、自分がやる」と信じ、明確に世界チャンピオンを目標にしていました。

その強い思いが、周囲を動かしていたのだと思います。阿部と共に、日本人ライダー、日本メーカーによる世界最高峰チャンピオンの夢を見ました。

阿部と過ごした時間は、本当に楽しかった。

WGPライダーの中でも人気は高く、感動と笑顔を、世界中に届けてくれた稀有な存在だったと思います。時代の寵児として、モータースポーツに大きな足跡を残してくれました。

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