ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。

ヤマハエンジニア・猪崎次郎さん
出会い17歳~

プロフィール

1974年ヤマハ入社。
操安設計で商品開発実験に従事。
1980年代後半から1990年にかけて、2ストロークから4ストローク化へと変化する過渡期にFZ750、FZ400などの開発に関わり、キットパーツの制作からレース現場も訪れた。
FZR400では若手ライダーのレース参戦を支え、1994年にはYZF750で吉川和多留のタイトル獲得を後押しした。
ワールドスーパーバイク選手権(WSBK)では、芳賀紀行が勝ったYZF-R7などを手がける。阿部のWSBK参戦も支えた。
世界耐久選手権では、海外チームとキットパーツの開発を進め強い絆で結ばれる。5年前にヤマハを退社したが、チームから声がかかるとサーキットを訪れている。

出会った頃から礼儀正しかった

阿部がアメリカから戻り地方選を走り始めた頃からヤマハに乗っていたこともあり、「面白い小僧がいる」と噂を聞いていました。

直接会ったのは、1993年に全日本ロードレース選手権(全日本)に参戦するようになった時です。鈴鹿サーキットのダンロップのタイヤサービスにいたら、ホンダのブルーフォックスチームの紺色のウェアを着た髪の長い子がやってきて、ヤマハのジャケットを着た自分に「阿部です」と頭を下げて、ちゃんと挨拶をした。

ライバルメーカーの人間に若手ライダーが挨拶するのは、なかなかないことで、少し驚きました。それからも阿部は、どこで会ってもきちんと挨拶をする子で、敵ながら親御さんの教育がいいのだな、という印象を持ちました。

その後、阿部は活躍して、1995年にはヤマハのライダーとなり、今度はホテルのロビーにいるヤマハスタッフの集団に、ヤマハのウェアを着て「おはようございます」と頭を下げて来た。「ヤマハのライダーになったのか」と驚きました。

ホンダからヤマハに移ったばかりのフィリップアイランドのテストでは、ロードレース世界選手権(WGP)責任者の桜田修司に「ホンダNSRはこうだった。こうじゃなかった」と話す阿部に、桜田がぶちぎれて「これはYZRだぁ~!」と叫んでいました。どうなることかと思いましたが、阿部はしっかりと成長してYZRを乗りこなすようになります。ヤマハのスタッフも、なんだかんだ言いながら阿部を可愛がっていました。

WGPが500ccからMotoGPへと変わることになった2001年、500最後のシーズンを終えて、「4ストロークに慣れたい」と、阿部のテストに付き合ったことがありました。

自分はスーパーバイク(SB)を担当していたので、桜田から「阿部が練習したいとのことで、マシンを貸してくれないか」と相談されました。

バイクを準備することになり、「メカニックはいますか?」と聞くと「いない」と言う。いないと走らせるのは難しいので、自分が行くしかなく、1月~3月の鈴鹿を2回、もてぎと筑波を一度ずつ付き合いました。

バイクを用意して、部品を詰めるだけ詰めてサーキットへと向かいました。阿部と父親の光雄さんが待っていて、阿部は出会った頃と変わらずに礼儀正しく「お願いします」と頭を下げた。光雄さんも帯同して、スタッフとしてなりふり構わず動いていました。とにかく乗り込むことを優先し、走り込みました。

もてぎの時も、筑波の時も、路面は凍るほどの低温で、グローブをしていてもサインボードを出す自分の手はかじかんで、思うように動かせないほどでした。それでも光雄さんはスクーターでさまざまなポイントでライディングを録画して回っていた。阿部が戻ると、ピットロードで立ったまま光雄さんと撮影した映像を見ながら短く話をし、またコースに出て行く。震え上がるような寒さでも、ふたりは暖を取ろうとはせずに走行を繰り返していました。

伊藤さんの言うことは分かるが、僕にはできない

もてぎの走行には伊藤真一さんが来ていて、阿部の走りを見て懸命にアドバイスをしていました。

「阿部の走り方は4ストロークにはそぐわない。ライディングを変えなければならない。エンジン特性が根本的に違うのだから、合わせていかなければならない」と言っていました。それは、最初のテストから自分が伝えていることと同じでした。

阿部は「伊藤さんの言うことは分かるが、僕にはできない」と言った。そこには、一途に自分のスタイルを守ろうとする阿部がいました。光雄さんも、阿部の意見を優先させていたように思います。

自分のスタイルを変えずに4ストロークを乗りこなそうとしていた。500のように走らせたいという思いが、痛いほど伝わるテストでした。

同じバイクなら、自分が1番という誇り

阿部は2006年~2007年にWSBKへ参戦します。阿部のバイクに関する感覚は、「AとBのセッティングがあるなら、タイムが出るほうが正しい」というもので、基準は“速いこと”。それは、バイクもパーツもタイヤもすべてにおいてです。ある意味正しいのですが、より高みを引き出すためのセッティングを積み上げていくことが難しかった。

当時、ヤマハで活躍していた芳賀紀行がいて、阿部は「芳賀紀行さんのサスセッティングを見てきてください。同じにしてください」と、そのラウンドで速いライダーと同じにこだわった。「同じにはならない」と言っても聞かなかった。

阿部は“ものには頼らない”。同じバイクに乗ったら絶対に自分が1番になると信じていた。そこに向けて努力する闘志は誰にも負けなかった。あんなに“ものに頼らない”ライダーを見たことがない。アメリカ仕込みのダートスタイルを崩さず、唯一無二のライディングを守り続けた。

そこに絶対の自信があり、それが阿部のパワーの源だった。その誇りが、阿部を何倍にも、何十倍にも輝かせていたのだと思います。

スタートが抜群に上手く、一発の速さは誰にも負けなかった。それだけで競う大会があれば、間違いなく世界チャンピオンだったと思います。くじ引きで同じバイクに乗って競争したら、それも阿部が1番になると思います。破格の才能があったのは間違いありません。

真冬のテストに付き合った時の新たな挑戦に取り組む阿部と、息子を速く走らせようと向き合う父親の真摯な姿勢が印象に残っています。阿部にとって父親の存在は絶対だった。光雄さんは、オートレースで一時代を築いた尊敬するライダーであり、阿部にとって最も信頼を寄せる人物でした。

そのふたりが、苦悩しながら新たなバイクと格闘して過ごした時間は何かが始まるという高揚感と緊張感があり、すごい瞬間に立ち会っているという感覚でした。この親子の挑戦に関わることができたことを今でも誇らしく思っています。

そんなふうに、阿部には出会った人の心に訴えかける強さがあり、それが阿部の最大の武器だったと思います。

 

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コメント一覧
  1. かず より:

    当時はバイクに興味が向いてなくノリックの事も良く分からなかったけどこの記事を読んで彼のカッコ良さに涙が出た。カリスマとはまさに彼の事だと思った。

  2. ケツアゲ小僧 より:

    今でも憧れのライダーのままだよ。本当に悔しいよ、、

  3. 八鯛 より:

    ロッシが憧れたヒーローがノリックでした。

  4. クラゲ より:

    ノリックが全日本の500ccレースをNSRで走っているのを観て世界にいけるライダーだと思った。その後YZRに乗るように
    なったが、NSRの時ほど速くなかった。バイクと乗り方が合っていないせいかと思ってもっとパワーアップしてノリックを一番にして欲しいなと思いつつ、世界に行ってもホンダの加藤大治郎に負けていたノリック。全日本に戻ってきてもう一度優勝のリズムを取り戻して世界に再挑戦して欲しいと思っていた矢先に、残念な事故で終わった。最近のMotoGPに日本人ライダーで優勝を狙える人がいないのは寂しいと思っていたらバイクも欧州メーカーに勝てなくなって寂しい限りですね。

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