
ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。
5歳でポケバイ開始
SP忠男出身
1998年全日本選手権GP250チャンピオン
1999年世界選手権参戦GP250ランキング4位
2000年世界選手権GP250ランキング2位
2001年世界選手権GP500ランキング5位
2002年~2008年世界選手権MotoGP参戦
2009年スーパーバイク世界選手権参戦
2008年、モーターサイクルファッションブランド、"56design"をオープン
https://www.56-design.com/
目次
「すごい日本人がいる」日本GPの衝撃
小学校高学年から中学生のミニバイク時代は、千葉県の茂原サーキットを中心に走っていました。その頃、阿部典史さん、加藤大治郎さん、武田雄一さん、亀谷長純さんら秋ヶ瀬軍団が参戦することがありました。秋ヶ瀬の皆さんは速くて存在感がありました。埼玉県の秋ヶ瀬サーキットに行った時には、自分はものすごくアウェーな感じで、敵地に乗り込むような緊張感を持っていました。
阿部さんは先輩だったので直接対決はなかったのであまり印象はないのですが、強烈に覚えているのは日本GPです。1994年はロードレースに上がったばかりの頃で、TVや雑誌でしか見たことのないミック・ドゥーハン、ケビン・シュワンツらとバトルをしている、すごい日本人がいると衝撃を受けました。この時は、ミニバイク時代の阿部さんとは結び付かず、信じられないことが起きている感覚でした。
まだ鈴鹿4時間耐久を目指している駆け出しのライダーでしたが、「ちょっと先を越された」と悔しく、「羨ましい」と思うのと、自分も「頑張らなきゃ」といろいろな感情が混じり合っていました。でも、小学校の卒業作文には「将来は世界チャンピオンになる」と書いています。その目標は漠然としすぎて夢とも言えないものでしたが、阿部さんの走りを見て、輪郭を持ったような気がします。
ヤマハ契約となり、全日本GP250でチャンピオンになり、1999年から世界GPに参戦することになりました。シーズンオフのテスト、マレーシアのシャーラムで阿部さんと会います。阿部さんはGP500のトップライダーでしたから近寄りがたく、自分からは声をかけられなかったのですが、ものすごく気さくに話しかけてくれました。
同じヤマハで先輩と後輩、そしてシート争い。阿部さんは負けられない存在でした
2001年にはGP500に挑戦し、同じクラスを走るようになります。憧れの先輩ですが、負かさなければならない存在になりました。それまでは先輩・後輩の関係でしたが、同じヤマハのマシンに乗っていたこともあり、日本人同士ということもあって比較されました。実際のレースでもぶつかり、「お前、邪魔なんだよ」って。感覚的に日本人じゃないというか…。言葉選びが難しいですが、ものすごくストレートに「危ないんだよ」って言ってくるので、こっちも「関係ないです」って…。まだ若かったから、結構バチバチしていました。
阿部さんのことはライバルだと意識していたので、親しく話をする関係ではなかったのですが、阿部さんのお父さんは「世界で戦うには体力が必要だから、トレーニングを強化しなきゃダメ」とアドバイスしてくれただけではなく、トレーナーまで紹介してくれました。気にかけてもらい、今でも感謝しています。
2003年には阿部さんとのシート争いになり、阿部さんはテストライダーになってMotoGPはスポット参戦に。自分はテック3から阿部さんのいたダンティンチームに移籍します。阿部さんを中心に回っていたチームですし、優勝もされていたので、正直やりにくかった。
それでも、ダンティンは自分を変えてくれたチームでした。1999年から2002年まで所属していたフランスのテック3は、日本人を理解してくれていて、ものすごくアットホームなチームだったので、何から何まで至れり尽くせりでした。それがダンティンでは、スペインのチームですが、多国籍のスタッフが所属し「自分の面倒は自分で見る」スタイル。チームが変わることだけでも不安があったのに、飛行機やレンタカー、ホテルの手配、携帯電話の契約など、何でも自分でやらなければなりません。
阿部さんのチームを、自分のチームとしなければならず、いろいろなことに懸命に取り組みました。最後は阿部さんと同じように愛情を注いでくれ、成長させてもらいました。
ここで、これまで以上に厳しくレースに向き合い、突き詰め、自立することができたから、カワサキへの移籍が決断できたのだと思います。ヤマハに育てられたと思いますし、大事にしてもらい恩義も感じていたので、この移籍は大きな決断でした。あのダンティンで阿部さんの後を引き継いだ経験がなかったなら、自分の殻を破って他メーカーに移籍する勇気を持つこともできなかったでしょう。
情熱的な走りができない? そう言われれば、意識しますよね
カワサキに移籍した2004年、阿部さんはテック3からMotoGPに復帰します。そして、日本GPもてぎでは表彰台争いのバトルをしました。阿部さんはトラブルでリタイヤしますが、もし最後まで競っていたら、自分は3位で表彰台に上がることができなかったかもしれません。
自分は計算して、練習で100%超え、予選で120%くらい無理して頑張って、決勝は98%みたいな感じですが、阿部さんは練習・予選は80%、決勝では120%を超えてくる。
ヤマハ時代には「阿部のように情熱的な走りをできないのか」とよく言われていました。今では、阿部さんは僕にないものを持っていて、同じようには走れないと理解していますが、当時はそう簡単に割り切れません。自分も変わりたいとアグレッシブに攻め、ミスにつながったり転倒したりしていました。結局、自分のスタイルに落ち着くのですが、あの頃は挑戦していたんです。
阿部さんのようなライダーに育ってほしい
阿部さんはチームノリックを立ち上げて育成にも関わっている姿を見ていましたし、親子バイク教室を開催するなど業界に貢献されているお手本でした。その影響もあって、2012年に「56RACING」を始めます。地方選を中心に若手ライダーを助ける形で始めましたが、自分は地方選までが身の丈に合っていると考えていたので、全日本への参戦はしませんでした。
ですが、今年初めて全日本に参戦を開始しました。富樫虎太郎と出会ったからです。彼はポケバイを経験していないのですが、一昨年MiniGPチャンピオンになり、世界戦のファイナルシリーズでは2位になりました。育成には全日本が必要ということで、スタイルを変えて参戦を決めました。
阿部さんのように、想像を超えてくるライダーは、すごいと思いますし魅力がある。虎太郎は、想像を超えて来ています。キャラクターとしては阿部さんのような熱さではなく冷静沈着なのですが、成績が飛びぬけています。ちょっとターミネーターみたいな異次元な感覚があり、規格外なものを感じます。阿部さんのようなライダーになってほしいと願っているんです。
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いいインタビューでした。
かえすがえすもノリックが存命だったらなあと思う。きっと中野さんとも仲良くなって、チームオーナーとしても良いライバルになってんじゃないかな。