ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。

メカニック・岩田雅彦さん
1998年~2001年までのロードレス世界選手権(WGP)500時代のノリックを支え
1999年ブラジルGP.2000年日本GP優勝に貢献した。

出会い 23歳~

プロフィール
1983年中古の82年TZ250を購入しロードレースを始める。
1987年ヤマハメカニックとなる。
全日本ロードレース選手権では
町井邦生、藤原儀彦、平忠彦、中野真矢ら
ヤマハを代表するライダーを担当
阿部を担当したのは1998年~2001年までのWGP500時代
現在は全日本ロードで中須賀克行を担当している。

阿部が気に入ってくれたアルゼンチン仕様

1997年に全日本ロードレース選手権GP250クラスでヤマハファクトリー入りをしたばかりの中野真矢を担当していて1998年には目標のタイトルを取りに行こうとしていました。それが、1998年にはロードレース世界選手権(WGP)に突然行くことになります。

GP500の経験はありましたがWGPの仕事は初めてでした。マルボロ・ヤマハ・レイニーに所属する阿部と会います。阿部は最初、まったく自分を信用してくれなかった。ピットに入るなりイニシャル変えて、スプリング変えてと指示する。どうして、そうして欲しいのか聞くところから付き合いが始まりました。素直な性格なので、納得すると、そうかと同意してくれるのですが、なかなか難しいなと感じることになります。最終戦アルゼンチンGP、ブエノスアイレスのレースの時の仕様が上手く行って、結果は4位でしたが、その仕様を阿部が気に入り、距離が近くなったように思います。その後もアルゼンチン仕様は、よく話題に上がるようになりました。

1999年に阿部はアンテナ3・ヤマハ・ダンティン所属となります。GP500の経験のないチームだったので、初年度はチームの体制を整えるという所からという状況でした。政治的な部分は自分にはわからないことですが、ヤマハはトップチームに阿部を残したかったのではないかと思いますが、それが難しく、阿部を500で走らせるために、このチームが500を始めたように思います。この時、自分は阿部ではなく、カルロス・チェカの担当になりますが、シーズン中盤にノリックが、ヤマハのオフィストレーラーに乗り込んで、「もう、何とかして下さいよ」と叫んでいた。阿部の声は大きいので、良く聞こえるんですよ。阿部の直談判で、自分と金子直也が阿部の担当になります。

その後に挑んだ第9戦ドイツGPのザクセンリンクで3位に入り、阿部の私たちへの信頼度はぐっと上がりました。もう、自分が嘘を言っても信用してくれるんじゃないかと思うくらいで、この全面的な信頼を裏切れないと、こちらも気持ちが入って行きます。

この年は第15戦リオで勝ちます。もちろん、嬉しいことでしたが、自分的には最終戦アルゼンチンの3位が嬉しかったですね。アルゼンチン仕様が、上手く行って表彰台だったので、昨年のここから阿部が自分を信用してくれるようになったのだなと感傷的になっていました。

印象に残るのは勝てそうだったフランスGP

いつも「ブレーキが、ブレーキが」って言っていました。ブレーキばかり気にすると、「バイクは旋回しない。走りにくいでしょう」と言っても「ブレーキが」と言うのは止まりませんでした。ブレーキで勝負したいのです。2000年の日本GPのグリッドでも「ブレーキがぁ~」と言っているんですよ。あの時の映像を見たら、私と阿部と金子が難しい顔で「うーん」と唸っている顔が写っているはずです。「よし分かった」と、調整するんですが、また、元に戻しています。そんな風にコントロールすることがよくありました。気持ち良くライディングしてもらうためです。この時、阿部は優勝を飾ります。

優勝した時の喜びは一瞬で、「喜んでいる場合じゃない、次のレースだ」と思うので、悔しいレースの方が印象に残ります。第5戦フランスGPル・マンは勝てるレースでした。アレックス・クリビーレとトップ争いをするんですが、最終ラップに「そこで抜くかぁ~、そこで突っ込むかぁ~」という場面があって、作戦ミスと言うか…。阿部の方がスピードを持っていたし、勝てるレースでした。なので、とても残念と言うか、無念と言うか…。勝たせたかったなと今でも思います。

反対にこれは勝てなかったなと思うのは2001年の第3戦スペインGPへレス、バレンティーノ・ロッシとの一騎打ちでしたが、最後の勝負で、スリップの使い合いになり、ロッシの方が上手だった。2位になり戻ってきたら「あいつはずるい」って怒っていました。

思い出されるレースはたくさんあります。阿部は喜怒哀楽が激しくて純粋で裏表がなく一緒にレースをするのが本当に楽しく面白かった。いつの間にかアンテナ3・ヤマハ・ダンティンのスペイン人たちも、阿部のことが大好きになっていましたね。阿部とレースがしたい、あいつのためなら何でもやってやるって、そう思うようになっていました。

思い出のタグホイヤ―

2000年の日本GPで優勝した後に、阿部はスタッフ全員にタグホイヤ―の時計をプレゼントしています。文字盤が白と黒があり、阿部が「岩田さんは白が良い」と選んでくれました。時計をしていないと、阿部が「どうしてしないの?」とすねるので、いつもするようになり、今でも愛用しています。電池式なので3年に一度は入れ替えなければならず、ちょっとお金がかかるのですが大事にしています。先日、あの頃、一緒に仕事をした仲間と飲む機会があり、そいつも同じ時計をつけていました。お互いに顔を見合わせて時計を見て、阿部を思い出して涙目になりながら酒を飲みました。

 

この記事にいいねする


コメントを残す