ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。

サーキット秋ヶ瀬で出会ったお兄ちゃん・本山知己さん

出会い12歳~

プロフィール
本山知己の弟が4輪ドライバーの本山哲。
武田誠、雄一兄弟、加藤大治郎、亀谷長純、阿部典史らの兄貴分。
小学校高学年でポケバイを始め。
1982年16歳で免許所得しロードレース開始。
20歳でレース活動を終え、サーキット秋ヶ瀬の運営に本格的に取り組み始める。
サーキット秋ヶ瀬のオーナーとして加藤大治郎が始めた「大治郎カップ」を継続開催
ポケバイ、ミニバイクレースを支えている。
サーキット秋ヶ瀬 http://www.akigase.co.jp/

特別なオーラがあった

父が金属加工の工場を経営していて、そこで働いていた、ちょっと不良ぽい従業員の人がポケバイの存在を教えてくれた。荒川の河川敷で父と兄弟(弟の哲)で乗り始めたのが小学校高学年くらいだったかな。あの頃は河川敷でバイクを使って遊んでいる人がたくさんいた。

でも、規制が出来て河川敷でバイクに乗れなくなり、父が「走れるところを造ろう」とサーキット秋ヶ瀬が出来たのが1981年くらい。定かではなくて、1981年と書かれたステッカーが残っているので、たぶん、それくらいじゃないかと…。バイクブームの兆しはあったと思うけど、そんなに盛り上がっているというわけではなくて自由にコースを兄弟で走り回っていた。将来、ライダーになろうとか、そんな思いは微塵もなく、ただ、ただ、楽しい、面白いってバイクに乘っていた。

そこに3歳か4歳くらいの小さい加藤大治郎が父親に連れられて来て走り始める。後に平(忠彦)レプリカヘルメットを被るけど、最初は赤いジェットヘルメットを被っていた。ヘルメットが走っているみたいで「可愛いなぁ~」と見ていた。その2~3ケ月後には大治郎の従兄の亀谷長純も走り始める。そして、武田兄弟(誠・雄一)がやって来た。

数年するとバイクブームが到来して、レース人気も高くなり、バイクに乘っている人たちにとって、スターライダーの平忠彦、ノービスの星の宮城光は憧れの人になる。秋ヶ瀬で走る人もグングンと増えて行った。自分は16歳になるとバイクの免許を取り峠に出かけるようになる。でも、峠は危ないからサーキットで走った方が良いと周りの人たちにアドバイスされてロードレースを始める。先輩には清水雅広、同期には本間利彦とホンダやヤマハのワークスライダーになるライダーがいた。

レースをやりながら、秋ヶ瀬では「ちゃんと子供たちの面倒を見なさい」と親に言われて、弟と大治郎、純、武田兄弟とはいつも一緒にいたような気がする。そこに、大治郎の父ちゃんが阿部光雄さんのファンだったことで、その息子が走りに来るからと「一緒に面倒を見るように」と言われたのがノリック(阿部典史)だった。自分は光雄さんのことは知らなくて、川口オートの偉いさん、社員かと思っていたくらい無知だったが、お父さん(光雄さん)が忙しいからとの説明でノリックだけがやって来た。

ノリックは、ひょうひょうとした痩せた背の高い男の子で、自分たちとはノリが違うなって感じがしていた。でも、親がいなくても泣きごと言わず、一生懸命に真剣にレースに取り組んでいることが伝わる特別のオーラがあったような気がする。

仲間内の大将は大治郎で、ノリックは自己主張のない大人しい子だったけど、いつも一緒にいるようになって、いつの間にか、みんなと同じように「ともにい」と呼んで、何かあると頼ってくる可愛い奴になっていった。センスがあるのが大治郎で、それの真似をしているのが雄一、センスないのが長純、へたくそだけど速いのがノリックっていうのが、あのころ、秋ヶ瀬にいた人達の共通の認識だったと思う。

ノリックは中学校を卒業するタイミングでアメリカに行くことになり、ケニー・ロバーツさんとも知り合いだとか聞いて、やっぱり、エリートライダーは、やることが違うなと思ったけど、自分の中ではへたくそなノリックの印象はずっと変わらなかった。

それが、1994年の日本GP(ロードレース世界選手権・WGP)鈴鹿サーキットで当時のトップライダーたちとやりあう、ケビン・シュワンツとバトルするなんて常識ではありえない、考えられないライディングを見せたことに啞然としていた。最後は転んでしまうけど、セオリーなんて関係ないな、へたでもライダーにとって勢いは大事なのだなと認識が変わった。あの時からノリックは秋ヶ瀬のヒーローになったような気がしている。

WGPの最高峰で勝つことが、レースを知る人なら、どんなにすごいことかわかると思うが、それをノリックはやってのけた。大治郎がWGP250ccクラスでチャンピオンになり、それも素晴らしいことだが、やっぱり最高峰クラスで勝つインパクトは大きい。そんな偉業を成し遂げたのにノリックは偉そうにしないし、ずっと変わらなかった。

WGPに行って活躍するようになっても帰国して時間が出来ると「ともにい、いる?」って感じで秋ヶ瀬に訪ねに来てくれていた。ポルシェに乗って、その後はフェラーリだったかな。レースで成功したら、こんな車にも乗れるんだって見せてくれていたように思う。秋ヶ瀬を走るライダーたちに刺激をくれ夢をくれ、お手本になってくれるスーパースターになっていた。

チームノリックの立ち上げは秋ヶ瀬で

2006年に「世界に通用するライダーを育てたい」とチームノリックの立ち上げの発表会を秋ヶ瀬でやりたいと相談に来た。「発表会って会社とかイベント会場とかでやるのが普通だろ」と言うと「秋ヶ瀬で育ったからここがいい。手伝って」と言ってくれた。秋ヶ瀬スタッフ一同、ノリックの発表会を成功させようと準備をした。ノリックのために何か出来ることは嬉しいことだった。

発表会にはメディアの人もたくさん来てくれ、近藤湧也(こんどうゆうや、13歳)、山田誓己(やまだせな、11歳)、そして野左根航汰(のざねこうた、10歳)が第一期生としてノリックと一緒に参加した。まだ、子供だから親同伴の会見だった。強い午後の陽射しを浴びて、皆が満面の笑みで写真に納まったことを覚えている。

チームノリックのライダーたちは秋ヶ瀬にも良く練習に来てくれノリックも同行することがあった。「秋ヶ瀬をちゃんと走れるようになったら、どこのコースでも大丈夫」と言って、光雄さんも一緒に懸命に子供たちの面倒を見ていた。

ノリックがいなくなってからは光雄さんがチームノリックを支えている。来季ヤマハの育成プログラムで海外参戦を始める久川鉄平(2024年MFJカップJP250チャンピオン)もチームノリックでお世話になった秋ヶ瀬育ちのライダー。チームノリックにいた野左根や岡本裕生も世界に飛び出し、世界に通用するライダーが育っていることをノリックは喜んでいてくれるかなと思うことがある。

自分がロードレースをやっていた時期は、スポンサーや支援者がたくさんいて、プライベーターでもお金がかからずにレースが出来ていた。自分がレースを辞めたのはお金が続かなくなったからではなかった。そこには後悔も悔しさもあるが自分で決めたことだった。だが、今は金銭的な問題でレースを続けられないライダーがたくさんいる。

モータースポーツを取り囲む状況は、年々、厳しくなっていることを実感する。苦しいのはライダーだけじゃなくて、サーキットも一緒。それでも続けているのは、発表会の時に「手伝って」と言ったノリックとの約束があるからなのかも知れない。ここがなくなったらノリックの願いも消えてしまうのではないかと思うからだ。

 

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