ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。

ミニバイクレース仲間・武田雄一さん
出会い12歳~

プロフィール
兄・武田誠、加藤大治郎、亀谷長純、阿部典史らとサーキット秋ヶ瀬を中心にミニバイクレースに参戦。
1994年関東選手権GP250チャンピオン、鈴鹿4時間耐久2位。
1995年サンダーバイクシリーズ(欧州)参戦。
1996年ホンダワークス入り。スーパーバイク世界選手権(WSBK)SUGOレース1優勝、日本人初のWSBK優勝を飾る。
1997年全日本スーパーバイクランキング3位。
2001年ST600チャンピオン。
2002年鈴鹿8時間耐久3位。(アレックス・バロス)
2010年以降は後進の指導にあたりならチーム運営やアドバイザーとして活躍
鈴鹿8時間耐久参戦を続ける。
現在は、サーキット秋ヶ瀬で誰でもが気軽にレース参戦出来るTKレンタルバイクを主催している。
問い合わせ rentalbike@office-yu1.com

あの頃はバイクが好きというよりも、みんなと遊ぶのが楽しかった

のり君(阿部典史)と初めて会ったのはサーキット秋ヶ瀬にお父さん(阿部光雄)と一緒にのり君が走りに来た時です。自分は小学生の高学年くらいで兄のまこちゃん(武田誠)大ちゃん(加藤大治郎)純ちゃん(亀谷長純)と、いつものように練習していて、そこに、黄色いヘルメットをかぶったのり君が走り出した。第一印象はめちゃくちゃ下手くそでした。

サーキットにいた人は、だいたいの人がのりパパのことを知っていて、のり君より注目を集めていました。親父(武田父)も「オートレースで活躍するすごい人だからサインをもらって来なさい」って。自分は何が凄いのかもわからずに「サイン下さい」ってもらいに行きました。

それがきっかけで話をするようになったんだけど、中学生の男の子が初対面から仲良くなるって難しいでしょう。それに、こっちは4~5歳から一緒で家族のような雰囲気が出来上がっているんだから、そこに加わるのはなかなかぎこちなかったと思います。のり君が人見知りとか、そういうのではなくて、当たり前ですよね。

親同士が仲良くなって一緒に転戦するようになるんです。一緒に寝泊まりしてレースをするようになって、だんだんお互いに馴染んで行ったという感じですよね。そんなに時間はかからなかったと思います。毎週のようにレースがあって遠征していて空いた時間はサーキット秋ヶ瀬で練習していたのでいつも一緒でした。1日に2~3レースなんて時もあって、多い時は年間72レースくらいしていた。

夜にはお互いのパンツを脱がしてギャーギャー騒いで、本当子供のじゃれあいで、バカバカしく騒いでいました。写ルンですって携帯カメラがあるでしょう。24枚撮りで、お互いに騒いで撮りあうんですが、印刷できたのは2枚だけで「他は無理です」と写真屋さんに言われて「俺たちやばいね~」ってゲラゲラ笑い合っていました。

この頃は、みんなバイクが好き、レースが好きっていうよりも、みんなと遊ぶのが楽しい、みんなとの遠征や泊まるのが面白いって感じだったと思います。みんなと会うための口実がバイクって感じですね。みんなとの時間がメチャクチャ楽しかった。

ミニバイクの頃から、ハマると速い

のり君とは参戦クラスが別だったので競り合った思い出はそんなにないけど、たまにチームを組んで耐久レースに出ると、良いいとこを持って行くのはいつも大ちゃん(加藤大治郎)でした。でも、のり君は下手くそだけどスピードを持っていた。この頃から「ハマると速い」のはみんな認めていました。

サーキット秋ヶ瀬の本山智、哲(4輪ドライバー)の兄ちゃんたちの教えが綺麗に乗るというものだったので、僕たちのライディングはお行儀が良かった。そこに雑草育ちののり君が来た。のり君の走りを見て、そういったアプローチがあるんだ、こんな走り方をしてもいいんだ。荒い走りでもタイムが出るということは、これもありなんだなって子供ながらにライディングの捉え方が広がったというのがありました。いろいろな走り方を覚えることが出来たのはのり君のおかげという所があります。

自分たちは音楽って、アニメの主題歌とか、アイドルの歌を聞いていたのかな?あまり覚えてないけど、のり君はお兄ちゃんがいたからか、ちょっと大人っぽい感じでブルーハーツを良く聞いていました。のり君の影響で、自分たちもブルーハーツを聞くようになりました。今も、ブルーハーツが聞こえてくるとあの頃を思い出します。

のり君がアメリカに行って前のようには会わなくなりました。のり君は年上だったので最初にロードレースに上がって全日本ロードレース選手権GP500チャンピオンになったり、ロードレース世界選手権(WGP)参戦を始めたことも特に驚いたりはしなかった。1994年のワイルドカード参戦の日本GPは衝撃的でしたけど、のり君なら、あれくらいやるでしょうって…。

のり君がやれるんだったら自分たちも行けるでしょうって思っていましたね。ライダーは、基本、自分が1番なので、すごいとかは思ったことがなかった。のり君は2歳年上なので、早く活躍できていいな、ずるいなって思っていましたね。

僕たちの時代は、ミニバイクから青木3兄弟(宣篤、拓磨、治親)の活躍があったりして注目されていた幸運な時代でした。自分もミニバイクの頃には6チームくらいからスカウトが来ました。今の若いライダーのように参戦資金の心配をしなくても良かった。自分は城北ホンダさんにお世話になって、1994年には関東選手権GP250 チャンピオンになり、鈴鹿4時間耐久で2位になって、1995年にはサンダーバイクシリーズに参戦してヨーロッパを走って、ロードレース世界選手権(WGP)と併催だったので、のり君とかぶっています。

僕も大ちゃんもホンダワークスに入っているし、純ちゃん(亀谷長純)もスズキワークス入りしました。みんな、また、世界で会えたらいいなと思っていたし、出来ると思って頑張っていたところがあります。のり君が出来るなら、「自分だって」という思いや願いは心のすごい奥の方で自分を鼓舞してくれていたような気がします。

友達いないから、ごはん行こう!

のり君が全日本に戻って来たのが2007年で、その時は自分も純ちゃん(亀谷長純)も全日本を走っていました。のり君が「友達いないから、ごはんに行こう」って誘ってきて、3人で一緒にごはんに行くようになってサーキット秋ヶ瀬の頃みたいだなって思っていました。

のり君は人懐こいというか、羨ましいキャラでしたね。明るくてニコニコしていて笑っているだけで許されるみたいな…。なんともいえないスター性があった。年下の自分が言うのもなんですが、可愛い人でした。だって、あんなスターライダーが友達いないからごはん行こうなんて誘わないですよ。速くてスター性があって人間味がある。レース界には、とても大事な人だったと思います。のり君のようなライダーはもう、なかなか出てこない気がします。

今も変わらずに大ちゃんのMotoGPでの永久欠番のゼッケン74とのり君のステッカーをヘルメットに付けています。

 

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