ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。

STRIKER 新 辰朗さん
出会い 17歳~

プロフィール
高校卒業後18歳より鈴鹿に向かいロードレースを始める
国際A級昇格後、OVERレーシングよりTTF1クラスに参戦
1990年アメリカAMA,WERAに参戦。7勝を挙げ帰国
1991-93年全日本ロードレース選手権
伊藤園レーシングより YZR500でGP500ccクラス参戦
1993年ランキング5位、最高位2位
1994年 同選手権スーパーバイククラス参戦 翌年引退
引退後モーターサイクルパーツブランド”STRIKER”、フィッシングパーツブランド”DLIVE”を立ち上げ。現在は両ブランドの法人、有限会社カラーズインターナショナル/株式会社apd 代表取締役を務める。

自分には理解不能な異次元の走り

ノリックと最初に会ったのは全日本500ccクラス参戦の初年度だった。私はヤマハでノリックはホンダ。繋がりがなく、あまり話をしたことがなかった。理由はそれだけでなく個人的にサーキットで友達とか、ライダー仲間とかはいらないと思っていたこともある。慣れ合うみたいな関係が好きではなかったから、ライダーとの必要以上の付き合いはなかった。

ノリックには衝撃を受けた。残念ながら彼の方が速いからコース上ではいつも後ろにつくことが多かった。鮮明に覚えているのはSUGOの1コーナー、2コーナーに一緒に入って行くと明らかに動きが違う。見たことも、もちろん、経験したことのない動きをする。それはSUGOだけでなく、いろんなサーキットで感じて、その度に衝撃を受けていた。その感覚は、直感的なもので説明が難しいのだけど「やばい」って感じる。彼は自分の持っていないものを持っていて真似することは難しく、自分には出来ないことをしていたからだ。

見た瞬間に「やばいな」って自分の中の感覚の対比で感じるもので、ブレーキが上手だとか、立ち上がりが上手いとかそういう技術的なことではない。コーナーへ入っていった瞬間や抜かれたときのちょっとしたことで感じることだった。

ノリックが日本人として初めて“滑らせて“タイムに繋げるっていう走り方をしたんじゃないかな。ダートの技術をタイムに繋げていくっていうことをできたのがノリックだったと思う。今では、そんなライディングが普通になっているけど、あの当時はちょっとおかしな挙動で、リヤだけでなくフロントも滑っている。マシンの向きが異次元だなと思った。それは自分には理解不能で、見たこともないものを見せられた感じがしていた。

こんなふうに走りを見て強い衝撃を受けたのは、ノリックと今の小椋藍くらい。こいつやばいなって思うのは皮膚感覚。うまく説明できないけど、プロライダーの立場として、自分の中ではリスペクトなんて生ぬるい感覚じゃなくて、それを超える特別なものだった。

鈴鹿8耐でワイン・ガードナーなどをはじめとする、どんな世界トップライダーと一緒になっても、ついていける。やってやると思うのがライダーだろう。これはついていけないと思ったら、プロとしてやっていられない。もう、その時点で負けている。だから、ノリックに脅威を感じていることは口には出したくなかったし、自分の中で認めるのが現役時代は嫌だった。

ノリックとのバトルで感じた「目線の違い」

1993年第7戦SUGOでのノリックとのバトル

ノリックを追う展開となったが、仕掛けられずに2位に終わった Photo/赤松孝

 

だからこそ、ノリックとバトルした1993年第7戦SUGOの500ccクラスのレースは、自分にとっては忘れられない、一生忘れることの出来ない特別なレースになった。自分のレースキャリアを振り返るときには必ずこのSUGOのレースが浮かぶ。ノリックと一緒に走っている写真が1枚だけある。誰が撮ったかも覚えていない写真を、今も大事に持ち続けている。

あの時、フリー走行で鶴田竜二(カワサキ)と片山信二(ヤマハ)は転倒で欠場する。予選日は豪雨で決勝朝のタイムアタックになった。前日の雨が嘘のような快晴で、本間利彦(ヤマハ)がポールポジション、2番手にケビン・マギー(ヤマハ)、3番手にノリック、そして岩橋健一郎(ホンダ)、高橋勝義(ヤマハ)で、私が6番手。ピーター・ゴダード(スズキ)、藤原儀彦(ヤマハ)、辻本聡(ホンダ)がいた。ノリックは馬の背で転んでしまうが、転ぶ前のタイムでフロントローに並んでいた。

自分は、500㏄3年目でマシンやタイヤへの理解も深くなって乗れていることを実感出来ていた。SUGOは好きなレイアウトでもあって、グリッドは後方だったけど「行ける」という手応えがあった。序盤で本間やマギーが脱落して、トップに立ったノリックの背後に追いついたのは中盤あたり。勝負は最終シケインと決めていた。最終ラップのシケインで抜けるという自信と、ここまで成績を残すことが出来ていなくて、もし、転んでしまったら初めての表彰台がフイになるという不安が仕掛ける瞬間によぎってしまった…。

インに入ると決めていたのに仕掛けられずに2位になった。ノリックの後ろにぴたりとついていけたという嬉しさ、一緒に表彰台に立ったという結果、そして、抜けなかった自分への後悔・・・。悔しさや情けなさが残り一生後悔するレースだが、一生の思い出となった。

1993年第7戦SUGO・表彰台 Photo/赤松孝

このとき、ノリックはまだ17歳だった Photo/赤松孝

 

表彰台でノリックは自分を見て「新さん、後ろにいたんですか?全然気が付かなかった」とあっけらかんと言った。自分のチームスタッフや応援してくれている身内は「なんて失礼な奴だ」って怒っていたけど、これがノリックだなと思った。

自分はレースに憧れて高校を卒業して鈴鹿を目指した。500ccバイクに乗ることが目標でメーカー契約のファクトリーライダーになりたいと思っていた。でも、ノリックは後ろなんて見ていないし、意識もしない。もっと遠く、世界を見ていた。自分とは目線が全く違っただけなんだ。

1993年を最後に500ccクラスが無くなり、最高峰クラスがスーパーバイク(SB)に変わった。俺は500に乗る前にアメリカAMA、WERAに参戦していて、年間35戦くらいレースをこなした。ダグ・チャンドラーやスコット・ラッセルらともやり合って、勝ったこともあって4サイクルのSBの方が、力を出せるかもしれないと思っていたが、うまく行かなくて…。ダメだったのはノリックも同じで、どこか忘れてしまったけど「500が良かったな」とふたりで話したことがあった。その時は、通じ合っているような感覚があったことを覚えている。

ノリックは1994年の日本GPでチャンスを掴んで世界に行き、そこからは、まったく接点がなくなる。交通事故で亡くなってしまい、ライダーの葬儀に出かけることは避けているというか、あまり行かない自分がノリックの時だけは出向いた。みんなもそうだと思うけど、現実感はあまりなく時間が過ぎて行った。

その後、仲の良いレース仲間を通してお父さん(阿部光雄)とお酒を飲む機会があった。初めてお話しし気さくで良い人で、色々話していると胸がいっぱいになって泣きそうになってしまった。その時にノリックが亡くなったことを、これまで直視出来ていなかったんだと感じた。お父さんと話をすることで何十年も経って自分の中でノリックがもういない事実を受け止めて整理ができた気がした。そんなふうに感情的になった自分に驚いて、ノリックに対して特別な思いがあったことに気が付かされた。

その頃から、息子の阿部真生騎、チームノリックのサポートをさせてもらうようになり、ウェビックさんのチーム発表会にも顔を出すようになった。今でもお父さんを通してウェビックチームとは関わりがある立場になれたことに不思議な縁を感じている。

 

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