ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。

 

有限会社アクションクルー 代表・難波恭司さん
出会い。20歳~

プロフィール
名古屋を拠点とするヤマハ系有力チームYDS岡部出身。
1987年ヤマハの開発ライダーとして加わり
1993年ロードレース世界選手権(WGP)デビューイヤーでタイトルを獲得した原田哲也が駆るTZ250Mの開発で知られる。
全日本ロードレース選手権GP250クラスのトップライダーとして活躍
1995年タイトル争いを展開しランキング3位となる。
1996年からYZR500の開発に参加
1998年WGP開幕戦日本GPでは予選2位、決勝5位となった。
2005年にはワールドスーパーバイク世界選手権に参戦する阿部のチームメカニックとして支える。
2015年野左根航汰を起用し参戦するYAMALUBE RACING TEAM監督。
1997年より「有限会社アクションクルー」を立ち上げモーターサイクルスポーツ全般に関わる業務を行っている。オートバイの普及・振興活動にもかかわる。

基本から逸脱した破茶滅茶な乗り方

自分は250 をメインで開発しながらレースに参戦していたので、ヤマハTZ250で面白い乗り方をしているライダーがいると噂になっていて阿部典史(ノリック)は話題のライダーでした。実際に彼の走りを見たのは、ブルーフォックスで全日本500に参戦してからで「噂通り」だなというのが第一印象でした。

原田哲也が1993年にロードレース世界選手権(WGP)に参戦するのですが、原田が駆るTZの開発がメインでした。面白いライダーだなという認識はあったけど、関わる機会がなかったです。しかし1994年の日本GPをきっかけに、ノリックは1995年にはYAMAHAのライダーとなり、自分も500の開発に加わることになり付き合いが始まりました。

彼は、一言で言うと「破茶滅茶な乗り方」なんです。眉をひそめるような走りで、バイクの走らせ方というセオリーとは違いました。コーナーのターンインからスロットルを開けていく。データを見ても基本から逸脱している。バイクの向きが変わる前に開け始めてしまうとバイクは曲がらない、ラインが膨らむ、スロットルを開けてスライドさせて曲がろうとするのでタイヤに負担がかかる。リヤのスライドを積極的に使ってコーナーリングするスタイルでした。その走りは、ある意味、とても魅力的でした。新しい乗り方を示し、時代を変えたライダーのひとりじゃないのかなと思います。

ものすごく頑固で、負けず嫌い

スーパーバイク世界選手権(WSBK)の時に、フロントタイヤのテストをしたことがあったんですが、違うコンパウンドのタイヤを3種類、用意して乗ってもらったんです。でも、どれを履いてもリヤタイヤのコメントしかない。フロントタイヤのテストだっていうのにです。「タイムが出ているのが良いタイヤ」ということ。確かにそうなんですが、ノリックの場合はラップタイムにしか興味がない。それだけ純粋ということですが、より良いセッティングを出したい、こちらとしては悩むわけです。

魅力的なライディングではあるけど、もう少し走り方を変えてみようとアドバスしましたが、聞かないんです。ものすごく頑固でした。誰の意見も聞かなかったんじゃないかな。例外はのりパパ(阿部光雄)だけだと思います。自分のスタイルを貫き、信じる者は自分、他の人は入り込む余地がなかった。アクセルを開ければ開けるほど曲がらない部分もあったはずなのに、それでも走る事が出来たのは天性の才能だと思います。速く走りたい気持ちが、そうさせたのでしょうね。当時のバイクやタイヤのパフォーマンスからしたらNGでしたが、それが出来てしまったのは彼に飛びぬけたものがあったからだと思います。

一緒にモトクロスのトレーニングをしたりもしました。他のライダーだったら、コンディションによってタイムが出にくいこともあるのに、ノリックはどんなコンディションでも同じでしたね。リスクが高くても気が付いてないの?って、思うことが多かった。彼はどんな条件でもへっちゃらで、他の人のライディングや状況には興味がないんです。トレーニングでも、己の道を突き進むスタイルは変らなかった。

ものすごく負けず嫌いで、藤原義彦、吉川和多留といったヤマハを代表するライダーたちにも、もちろん、僕にも。ある日フラットダートのトレーニングでレースをした時、何とかして勝ちたくて、イン側にある側溝より更にイン側を通って無理やり抜いていったりね。練習トレーニングだから、そんなにムキにならなくてもと思うくらいの貪欲さがあった。

そして、ものすごく努力していましたね。バイクに乗れない日は、ジョギングをかかさなかった。「世界チャンピオンになる」という純粋な思いが強くあって努力を重ねていました。その思いが彼を支えていたのだと思います。

自分は2002年で開発テストを終えて、モータースポーツのスクールの仕事を始めていました。2004年にヤマハの創成期を支えた方が亡くなり、葬儀に出かけた時に当時ヤマハのGPチーム監督の桜田修司さんに会って「阿部典史をワールドスーパーバイク(WSBK)に送り込もうとしている。だが、チーフメカニックがいない」と聞いて、心配でノリックに電話を入れたら「難波さんにお願いしようと思っていた」と言われた。もう12月というタイミングで、大変なことは分かっていたけど「ノリックのためなら」と決断しました。自分の仕事の調整をして、年明けから準備に取り掛かって、開幕戦に間に合わせるために現場に向かいました。

WSBKでは、ノリックもすべてが揃う環境ではなく苦労がありました。彼の乗り方とタイヤの相性が良くなく、思うようなライディングが出来なった。それでも、トップ争いをして、勝つチャンスもありました。転倒で優勝は出来ませんでしたが、そこまでの力を発揮するまでにはなっていたんです。

フランスのチームだったので、英語を話すスタッフが少なくスムーズにコミュニケーションがとれなくて、大変なことの方が多かったけど、自分にとっては新しい世界を見ることが出来た時間でもあり、ノリックが自分を頼ってくれたことも嬉しいことでした。ノリックからパワーをもらって、勝つことに邁進出来ました。

印象に残るのは1996年の日本GP勝利

彼のレースで一番印象に残っているのは1996年の日本GPです。GP500の開発に関わったばかりで、自分は試行錯誤していた時期でした。ノリックの予選は11番手と決して良いグリッドではなかったのに、スタートは完全にジャンプスタートじゃないの?と思うくらいの絶妙さで飛び出した。予選タイムを上回って、ファーステストラップを更新しながらトップに出て勝ってしまった。「勝っちゃったぁ~」とこれは一大事だぁ~と衝撃でした。この優勝はものすごいインパクトがありました。

今、見返しても、彼の魅力やセンスが1番表に出たレースだったと思います。スイッチがカチッとはまると予想出来ない走りをしてしまう。何をしでかすのかわからない。ノリックそのもののレースだったと思います。

一緒に過ごすことが多くなると気にかかる存在になり、放っておけなくなってしまう奴でした。生まれながらに何か光るものを持っていて、それが見る側からすればとても魅力的に映り、世界中の多くのファンを魅了したのだと思います。

 

この記事にいいねする


コメントを残す