
ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。
ヤマハ・モータースポーツ普及担当部長として阿部典史と出会う
出会い。30歳~
プロフィール
1982年ヤマハ入社
2005年~2009年モータースポーツ普及部長
2018年ヤマハ退社
BS BATTERY 日本営業政策事務所 事業戦略統括部長
MRPJ 一般社団法人モーターサイクル・レーシング・プロモーション・オブ・ジャパン 代表理事
ホンダがいいなら、ホンダに行けよ
ノリックと直接、契約を含め、密に話をするようになったのは2005年くらいからです。当時は、モータースポーツ普及部長をやっていて、ライダーの契約などに関わっていました。ノリックがロードレース世界選手権(WGP)を戦い、それが終盤にさしかかったころ、WGPはバレンティーノ・ロッシが活躍していて、ノリックの時代からロッシの時代へと変化していました。
ヤマハモーターフランス社長のジャン・クロード・オリビエから、ノリックを「スーパーバイク世界選手権(WSBK)はどうだろう」と相談があり、中冨伸一や中須賀克行とヤマハが抱える日本人たちの動向を含めて、どこにノリックが落ち着くのが良いかと考えることになりました。
ノリックは人気があり、まだ、ヨーロッパで走らせることが良いのではというのと、ヤマハモーターフランスが面倒を見てくれることになりWSBK参戦となります。スペインラウンドには、応援に行ったりしていましたね。2年間走ってもらいましたが、「日本に戻って来ては?」と話をすることになりました。
本人は「嫌だ」という返事で、それならば仕方がない。なかったことにしようと、その場では「残念ですが、ヤマハとの契約は終わりです」と伝えました。本人も悩んだのだと思います。まだ、世界で活躍したかっただろうし、その力があることを、本人が信じて疑っていなかった。ですが、もう、シートがなかった。
全日本ロードレース選手権を開催していた鈴鹿のラウンジで話し合いの場を持つことになりました。その時、たまたまラウンジに居合わせたホンダの人を見つけると「じゃあ、ホンダに行く」と言って、彼らのところへスタスタと歩いていってしまった。それは世間一般が契約交渉でイメージされる神妙な雰囲気は微塵もなく、フラっと「お久しぶりです」と挨拶に行くような気軽さでした。
「どうして、そんなことができるのか」と啞然としていましたが、「そうか、ホンダに行け、行けばいいよ。サヨナラだな」って思いましたね。
でも、すぐ戻って来て「やっぱりヤマハで走る」って言うんです。そう簡単にホンダへと移籍できるとは思っていませんでしたが、「今、契約解除の準備をしていたよ」って嫌みを言っていじめてやりました。ホンダの人とどんな話をしたのかわからないけど、信じられない言動で漫画みたいだなと思いましたね。でも、憎めない、可愛いんですよ。そういった行動を含めて大好きでしたね。
ノリックが「全日本を走ることにした」と言うので、では、その方向で進めようと動きだしたわけです。彼は、日本でも人気がありましたし、1994年の日本GPの走りは、多くの人の印象に残り、その後も、長い髪をなびかせて、WGPの日本GPやブラジルGPで勝ち、知名度も高く、全日本を走ってもらうことは意味があると考えていました。
ヤマハのアクセサリーを扱うワイズギアもスポンサーとしてプロモーションに協力してもらうことになりました。ゼッケンも81番としたら、日本のファンも喜んでくれるだろうと思いました。
嫌な言い方ですが、ヤマハにとって、ノリックは価値があったということです。契約を続けたのは、ノリックが可愛くて良い奴だからというわけではありません。
ノリックが全日本を走っていたのは、1993年まで、1994年の途中から、WGP参戦を開始しているので、約13年ぶりの全日本でした。テスト期間がとれたわけではなかったですが、それでも開幕戦のもてぎで、ウェット路面を攻めて予選2番手のタイムを記録します。決勝は5位でした。ノリックの登場で、全日本が活気ついたように思いました。たくさんのファンが応援に来てくれたようです。第3戦筑波では3位に入り表彰台に上がってくれました。
8耐は、もう2度と走らない、身体中が痛くてたまらない
プロモーションをする上で、鈴鹿8耐に参戦してもらうことは不可欠でした。本人は鈴鹿8耐にはあまり興味がなかったように思います。それでも、鈴鹿300kmレースに単独参戦して一生懸命に取り組んでくれました。
鈴鹿8耐のピットをのぞくと「加藤さん、この車、ダメ。シフターがやりずらい」とブツブツ、文句ばっかり言っていた。「加藤さんはサイテー! まったくわかってない、シャーシがどうの、これも別のものを使った方がいい」って、やっぱり、私の顔を見ると「加藤さんはサイテー!」ってけちばっかりつけていて、どうなることかと心配しました。
ファクトリーマシンを用意できなかったので、文句も出るだろうと思っていましたが、これで頑張ってもらうしかないので、聞いてやることしかできませんでした。
ペアライダーは、オーストラリアスーパーバイクを走るジェイミー・スタファ―でした。計時予選では6番手で、トップ10トライアル(計時予選10番手までのライダーが、単独で鈴鹿サーキットをタイムアタックする)にも出場し、声援を浴びていました。9番グリッドを獲得して、決勝も9位でチェッカーを受けています。終わった後は「加藤さん、8耐はもう2度と走らないから。身体中が痛くてたまらない」と言っていました。
ですが、翌日に片付けがあり、サーキットで会うと「やっぱり、8耐って面白い。もう一回、走ってもいいかな」と…。一晩寝たら考えが変わってしまうんだと驚きながらも本当に面白い奴だなと…。ノリックを見ているのは、本当に楽しかった。
ノリックは、マイペース、自分の気持ちのままに動く、思いがすぐ言葉になる。裏表がなく、真っすぐで、そこが魅力だったと思います。
ノリックからのダメ出しで、ヤマハのバイクはよくなった
食事に行っても「ふざけないでください」とか「何を言っているんですか」って、私には文句ばっかり言っていた。顔を会わすと「「加藤さん、サイテー!」が口癖でした。それは、私には親しみを表す言葉のように聞こえていました。私とノリックの会話を、周りの人は笑って聞いていた。また、やっているよって感じでしたね。
文句ばっかり言っていたけど、それが、開発にはとても大事なことでした。ノリックの「バイクは感覚が大事なんだよ」というバイクへのダメ出しで、ヤマハのバイクが良くなった部分もあり、ノリックのスピードでマシンを走らせてくれたからこそ、わかることがたくさんあったと感謝しています。
事故のことは、WSBKに参戦していた中冨選手とフランスのマニクールにいて、お父さん(阿部光雄)から昼過ぎに「のりが死んじゃった」って泣きながら電話があって、すぐにホテルをチェックアウトして、シャルルドゴールの空港に向かって帰国しました。
ノリックの家には、ヤマハのスタッフも集まっていて、みんな泣いていました。葬儀の準備に追われて、自分は哀しんでいる時間がなかったように思います。誰もかれもがノリックの死を受け入れられずにいました。
ノリックは、全日本最終戦鈴鹿を走ることなく亡くなり、得意の鈴鹿を走りたかったのではないかと、今でも思います。
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