
ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。
出会い・12歳~
【プロフィール】
加藤大治郎の従兄、武田雄一、阿部典史らとサーキット秋ヶ瀬を中心にミニバイクレースに参戦。スズキワークス契約ライダーとして活躍。その後は、様々なチームに招かれトップライダーとして参戦して来た。
1995年から2015年まで第一線で活躍。引退後はレースオフォシャルとして、ライダーの安全を守る大役を担う。また、若手育成にも力を注ぎ、Honda Racing School Suzukaの講師でもある。
最初の印象は、暗くて静かだった
大ちゃん(加藤大治郎・2000年ロードレース世界選手権GP250チャンピオン)とは、お互いの母親が姉妹で従兄の関係。幼稚園の頃に、同い年の大ちゃんがポケバイに乗るようになって、誘われて自分も始めた。兄弟みたいに、いつも一緒にサーキットに通うようになった。
通っていたサーキット秋ヶ瀬は、本山家が経営していた。当時はまだ子供だった本山知己(現・同コース社長)&本山哲(フォーミュラ・ニッポン、全日本GT選手権、SUPER GTで合わせて7度のタイトルを獲得)兄弟と僕たちで、モトレーシングを結成した。小学生の頃に武田誠、雄一(全日本ロードトップライダー)兄弟がチームに入って、家族ぐるみで、ワイワイ賑やかに走って、遊んで、やんちゃばっかりして、ゲンコツをもらったりしていた。
今じゃ、虐待とか言われてしまうかもしれないけど、親たちは悪いことをしたり、心配かけたら、普通に怒り、良いことをしたら普通に褒めてくれた。サーキットに通って「バイクに乗る」ということが日常だった。
そこに、ノリックがやって来た。大ちゃんのお父さんが、オートレーサーで有名なノリックのお父さんを知っていたことがきっかけだったと思う。中学に入りたての頃で、いきなり「友達だろう」って、大人は気楽なものだったけど、大ちゃん家や、武田家に寝泊まりして、一緒に行動することが、ノリックは嫌だったんじゃないかな。坊主頭の田舎の子といきなり仲良くしなきゃいけないんだから。ノリックは都会の子って感じで、静かだったし、明らかに馴染めていなかった。だから、大人しくて暗いというのが最初の印象だった。
それが、いつから仲良くなったのか…。覚えてないけど、皆でサーキット秋ヶ瀬、榛名サーキット、新東京サーキットと、レースがあったら、走りに出かけて、一緒に組んで耐久に出たりして、自然に一緒にいるのが当たり前の仲間になって、一緒に悪ふざけして、遊び仲間になった。何回、一緒に走ったんだろう? 転んで、負けて、それ以上に一緒に勝ったような気がする。ライバルとして競り合って、勝敗はどうだったのかな? レースをし過ぎて、夢中で走っていたから、結果をまったく覚えていない。
高校になったら、ノリックはアメリカに行って、秋ヶ瀬の仲間もそれぞれに自分のレースに向き合うようになって、バラバラになった。でも、また、どこかで一緒に走ることが出来ると思っていた。

馴染んできたころのノリック
ノリックの活躍が誇らしかった
ノリックがアメリカから帰って来て、いきなり1993年に全日本の500に乗ってチャンピオンになるんだけど、その事実に圧倒されるような気持ちでいた。いきなり最高峰クラスで頭角を現して、1994年にワイルドカードで出たロードレース世界選手権の日本GPでは、世界に認められる走りをした。秋ヶ瀬の仲間たちが漠然と目指していた世界に、ものすごいスピード感で出て行った。「夢は叶う」とノリックは示した。そんなノリックと仲間であったことを誇らしく思っていた。
ノリックが世界に飛び出して活躍し始めて、自分も1995年にはSUZUKIと契約してもらって、初めてプロフェッショナルライダーとして走り始めた。だけど、ノリックのようにはいかなかった。まず、フル参戦させてもらうまでの壁があり、全日本フル参戦したのは1997年だった。コツコツと積み重ねて、表彰台に登って、ライダーとしての足場を固めて行く自分とは、ノリックはまったく違うライダー人生を過ごしているなと思っていたけど、ノリックの活躍は励みでもあった。俺だって負けられないって…。いつも、心の隅には、そんな思いがあったような気がする。
お互い、大人になり一緒のレースに出たのは2007年の全日本ロードレース選手権JSB1000クラスだった。ノリックは世界から戻って来て全日本参戦を開始した年。ノリックにとっては久しぶりの全日本で、ヘルメットリムーバーの付け方を教えてと尋ねて来たりして、わからないことがあると、ピットにやってくるノリックと話しをしていると、昔にもこんな感じがあったなと懐かしかった。レースでは、少しはバトルが出来て、楽しいシーズンだった。
ノリックの乗り方は独特で、お尻を極端にずらしてコーナーリングする。ちょっとケビン・シュワンツに似た感じ。その走りは、昔から変わっていなくて、ファンもたくさんいて、全日本に応援に来てくれていた。これから、一緒に全日本を盛り上げてくれると信じていた。世界に行ったノリックには、世界の舞台で経験した実績があって、考え方やアプローチの仕方が違うはず。ノリックがいるだけで、全日本の起爆剤になってくれるだろうし、その経験を生かしてほしいと思っていた。
大ちゃんが始めた「大治郎カップ」で子供たちが育っていたし、ノリックは「チームノリック」を作り、若手育成を初めていた。一緒に子供たちのために何かできることがあるのじゃないかなと思っていたんだ。
ノリックの事故のことはTVニュースで知った。これからなのに、って…。出来ることや、やろうとしていたことが、きっと、たくさんあっただろうと思うと悔しかった。
時代と共に、バイクはどんどん速くなって、タイヤの性能も上がり、ラップタイムも上がって行く。コースに求められる安全性も、ライダーのスキルも変化して行く。その上で、安全を考えて行くことは、より大切になって行くはず。だから、大ちゃんやノリックがいたら、やっていたはずのことを、自分はやって行きたいと思う。これからもレースに関わる仕事をやり続けるよ。
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