ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。

YAMAHA FACTORY RACING 監督・吉川和多留さん
全日本時代のライバルであり、ヤマハの先輩ライダーでもある。
出会い・16歳~

【プロフィール】
1990年に国内A級SP750チャンピオンを獲得、その実績を認められヤマハの開発ライダーとなり、1994年に全日本ロードレース選手権スーパーバイクチャンピオンに輝く。1996年にはスーパーバイク世界選手権参戦。1999年に2度目の全日本スーパーバイクチャンピオンとなる。
ヤマハのMoto GP開発でも手腕を発揮、引退後は、ヤマハの全日本チーム監督として中須賀克行の前人未踏の12回のJSB1000タイトルを支えた。

GP500からSBへの乗り換えは苦労しているように見えた

ノリック…。1992年の筑波サーキットで、面白い奴がいるって聞いて、芳賀健輔(YAMAHAライダー)と一緒に見に行ったのが最初。バイクをこれでもかと寝かして突っ込んで、噂通りに面白い走りをしていた。

1993年には全日本でGP500(Honda)に乗っていてチャンピオンになった。そして、この年限りで全日本のGP500が終了する。ノリックは最後の全日本GP500チャンピオンとして1994年にロードレース世界選手権(WGP)日本GP鈴鹿にワイルドカードで参戦した。自分はTVで観戦していたけど、いい走りをしていたよね。1コーナーで転倒してしまうけど、世界を感じさせる走りだったと思う。

あの頃、1992年に全日本500のチャンピオンになったダリル・ビューティーや、全日本GP500で活躍していた伊藤真一もWGP参戦して、世界へという雰囲気が全日本でも強かった時代だったと思う。でも、あの1戦で世界への切符を掴むことが出来るとは思わなかった。そんなに簡単じゃないと誰もが思っていたでしょう。

1994年には全日本最高峰クラスはスーパーバイク(SB)へと代わり、ノリックはSBへとスイッチする。2サイクルのレーサーマシンであるGP500と4サイクルのSBは違うから、苦労しているように見えた。この時に、自分も永井康友(1994年ボルドール24時間覇者、1995年SB世界選手権参戦)、藤原儀彦(1987年~89年全日本500V3チャンピオン)ら先輩と一緒にヤマハからSBに参戦していた。

HRC(Hondaワークス)からは武石伸也(1991年鈴鹿8耐で日本人初ポールポジション獲得)。カワサキワークスからは北川圭一(1993年TT-F1チャンピオン、2004年~6年まで世界耐久選手権王者)、塚本昭一(1992年TT-F1チャンピオン)がいた。

辻本聡(1985年~86年TT-F1チャンピオン)はam/pm、梁明(2001年SBチャンピオン)は阪神ライディングスクール、青木拓磨(1995年~96年全日本SBチャンピオン、その後WGP参戦)はテクニカルスポーツ関東から走っていて、芳賀紀行(1997年SBチャンピオン、その後SB世界選手権のトップライダーとなる)もチームデイトナ、ノリックもブルーフォックスから参戦だった。サテライトチームに、その後のレース界を支える逸材がたくさんいた。

SBを乗りこなすことが難しいというだけでなく、強豪がたくさんいたから、ここで活躍するのは、なかなか大変だったと思う。ノリックはSBで表彰台に登ることがなかった。

ノリックと絡んだレースはそう多くないけど、この年のSUGO戦でノリックが3番手にいて、出遅れた自分は追い上げて中盤にはノリックの背中が見えた。奴を抜いたら表彰台だって…。最終ラップに追いついて、シケインで抜いた。あの時、俺が抜かなければ、ノリックの初表彰台だったんだなって、そのチャンスを奪ったんだなって思うことがある。

ノリックのWGP参戦は「どういうことなのか」と思った

シーズンの途中で、ノリックはWGPに行くことになる。正直「なんでだよ」って思った。YAMAHAには全日本GP500でV3チャンピオンになった藤原さんだっているのに…。Hondaのライダーが、いきなりYAMAHAで、それもWGPって…。「どういうことなんだ」と思った。YAMAHA一筋で、懸命に走っているライダーを差し置いて「そんなことがあるのか」って面白くなかった。

ライダーにとって憧れのGP500のレーサーマシンに乗れるのかと思うと羨ましかった。すさまじい破壊力をもったマシンを操るWGPライダーにはステイタスがあるでしょう。それを一気にノリックは手に入れてしまった。今は、その魅力が奴にはあったということだと思うけど、あの時は、そうは考えられなかった。

YAMAHAのライダーになってから会う機会も増えたけど、こっちの思いなんて関係なくあっけらかんとしていた。WGPライダーになり「億、稼げるようになったから」なんて平気で言う。でも、それが、まったく嫌みがない。子供みたいに素直で、ありのままの自分でいられる人だった。

並外れたガッツを持つ極端な感覚派

ライダーとしては、バイクのこと、何もわかってないんじゃないかと思うことが多かった。一緒にモトクロスやダートトレーニングをしたけど、うまく走れないと、バイクが壊れているんじゃないかって言ってくる。見てみると壊れてなんかいない。「壊れてないよ」って伝えると「調子が悪い」といいながら、速いし、なんだかんだ言いながら乗れてしまう。

それは、バイクトレーニングだけじゃなくて、WGPの現場でも同じだった。なかなかセッティングが決まらなくて、最後には「マックス・ビアッジと同じセッティングにして下さい」って言う。

ライダーにはスタイルがあるでしょう。WGPライダーっていったら、それを極めたライダーたちの戦い。なのに、まったく乗り方が違うライダーと同じセッティングを希望するノリックのことが信じられなかった。でも、それでも乗れてしまう。最後には乗りこなして勢いあるライディングをしてしまう。

セッティングを詰めてマシンを仕上げて行くタイプではなかった。極端なくらいの感覚派で、最後は自分を追い込んでピークに持って行くライダーだった。その強い思い込み、なんとかしてしまう底力みたいなガッツが並外れていた。

ノリックのことを聞かれて思うのは父親の存在。レース参戦の準備から含めて、レース中のフィードバックを含めて二人三脚でレースに向き合っていたこと、そんな親子はなかなかいない。ノリックにとって大事な人だったんじゃないかと思う。

ノリックは、彗星のごとく現れて、ライダーが望むものを、すべて手に入れてしまうエリートライダーだった。世界で活躍する奴は、ノリックみたいな人物なんだと思い知らされた感覚があった。世界に飛び出して、阿部典史という存在を強烈にファンの心に刻んだ。

 

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