
ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。
出会い・12歳~
【プロフィール】
会社員。弟は元ホンダワークスライダーの武田雄一。サーキット秋ヶ瀬を中心に加藤大治郎、亀谷長純、本山智、哲兄弟らと一緒に過ごした。ノリックとは中学生時代に出会い、一緒にミニバイクレースをする仲間でありライバルだった。
のり君は、大切な家族みたいな仲間だった
自分は5歳、弟の雄一は3歳くらいの時に、親父がポケバイを買ってきた。最初は空き地とかで乗り始めたけど、サーキット秋ヶ瀬に出かけるようになった。そこで、みんなに出会う。
自分と弟の雄一、本山兄弟(智、哲)に加藤大治郎、亀谷長純と「モトレーシング」と名乗って、一緒にレースをするようになった。ポケバイ時代は、大ちゃん(加藤大治郎)がぶっちぎりで速かったな。ミニバイクに乘るようになって、のり君(ノリック)が加わったのが中学校に入ったくらいだったと思う。一緒に耐久レースに出たり、競っていた。
バイクに乘る時はのり君のお父さんが連れて来て、大ちゃんの家や自分の家に泊まって、平日でもサーキット秋ヶ瀬に練習に行って、今はやってないけど、コースを逆回りさせてもらったりして、自由に走れた。みんなで競争しながらバイクの練習ばっかりして、週末はレースの日々だった。
俺らはまともに学校に行ってないような気がする。学校行事とは縁がなくて、運動会とか、修学旅行とか、たぶん、参加していない。バイクが中心の生活だった。楽しかったから、さみしいという感じはなくて、学校の友達よりも、バイクの友達の方が大切って言うか、家族みたいな仲間だった。
のり君で思い出すのは、日光サーキットでのトップ争い。ストレート終わりのコーナーが、もてぎサーキットの90度コーナーに似ているんだけど、そこで、お互いにブレーキを我慢する。絶対に負けないって…。ギリギリまでかけないぞってやっているから、ノーブレーキで突っ込んで、コースアウトして…。ぶつかったり、転んだりしていた。それが、一度や二度じゃないから。みんな、また、やっているよって呆れられていたと思う。
自分とのり君は負けず嫌いで、どっちも引かない。今、思うと、本当に危ない走りだったと思う。若かった、うん、幼かったからか、怖いもの知らずで「負けたくない」って気持ちだけで走っていたような気がする。でも、のり君は俺以上に負けず嫌いだった。すごい負けず嫌いだったと思う。
そうやって速く走ることだけ考えて、いつも一緒に切磋琢磨して頑張っていた。中学校の終わりくらいに、のり君がアメリカに行くってことになって、その計画には自分も入っていた。一緒にアメリカで頑張るんだって思っていた。だけど、経済的な理由で自分は参加出来なくなって…。のり君だけがアメリカに行った。羨ましかったし、行きたかったなと今でも思う。
あの頃は、清水雅広さん(1987年全日本GP250チャンピオン。88年~92年ロードレース世界選手権参戦)に憧れてプロのライダーになりたいと思っていたから、悔しい気持ちが大きかった。日本に残って、国内A級に上がったけど、ブレーキをかけるのを忘れてしまうくらいに突っ込む。表現が難しいけど、どこまでも突っ込めるのが自分のスタイルだった。だから、転倒も多くて…。親父に「やめとけ」って言われた。あんな走りをしていたら命がないって…。アメリカに行けなかったのは経済的な理由だけじゃないのかも知れないな。

写真左からノリック、大ちゃん、亀谷長純、武田雄一、誠
レースを辞めることが出来たのは、のり君と大ちゃんがいたから
弟は1994年にはジャハレーシングに所属して、ツナギもヘルメットもグローブもバイクもチームが用意してくれて、スタッフも5人くらいいて、95年にはヨーロッパのレースに参戦し始めていた。なんか、必死に働いて資金を稼いでレースしている自分との違いがちょっと嫌になって、レースを辞めてしまった。
それが17歳くらい。高校に行かずに働いていたから、一人暮らしを初めていて、そこから7年くらいは、まったくレースのことを気にすることもなく過ぎた。雄一がHRCに入って、1996年のスポーツランドSUGOのワールドスーパーバイク選手権の日本人初の優勝者になったことも知らなかったくらい、レースとは無縁の生活をしていた。無縁でいようとしていたんだと思う。あんなに夢中だったバイクもレースも、自分の生活から締め出してしまいたかったのだと思う。不思議と、普通の生活はそれなりに楽しく過ぎて行った。
でも、2000年くらいにもて耐(参加型レース)に玉田誠兄弟(玉田誠は元MotoGPライダー、武田兄弟のように幼少からレースを始めて弟が夢を叶えていた)と武田兄弟で出たら面白いんじゃないかと誘われてサーキットに久しぶりに行った。もう、乗ってもいいなと思ったんだと思う。そこで乗ったのは1000㏄で、まったく操ることが出来なくてショックを受けた。悔しくて、もてぎに1年間通って練習して、翌年は予選2番手タイムを出した。この時、応援に来てくれた彼女と結婚することが出来たらから、ライダーに復帰して良かったなと思えた(笑)
趣味でバイクに乗り始めて、のり君や大ちゃんが活躍しているのを知る。嬉しいなと思った。あのふたりは子供の頃から特別で、絶対に世界で活躍するライダーになると思っていた。あのふたりがいたレースではきっちり勝ったと思えたことがなかったから、才能の違いというか、存在感というか。やっぱり、違うなということを、理解して納得出来た。あぁ~、やっぱりなって…。
あのふたりがいたから、自分はレースをきっぱりと辞められたような気がしている。あのふたりにはかなわないと諦めがついたのだと思う。でも、それを認めるのに長い時間が必要だった。そして、やっと、ふたりの活躍を楽しみに出来るようになっていた。
のり君の事故のニュースは、車のカーラジオから流れて来た。「エッって…、今、なんて言った?」って聞き間違いじゃないのかと思った。事故があったのは川崎付近で、今も、そのへんを通るとのり君のことを無意識に思い出してしまう。
大ちゃんとのり君のことを思うと、今も、なつかしさで胸がいっぱいになる。
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