ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。

チーム監督・岩崎勝さん
全日本ロードレース選手権デビューでGP500クラスに参戦を決行し、史上最年少チャンピオンへとノリックを押し上げた。
出会い・16歳~

【プロフィール】
SUZUKIのマシン開発ライダーから、BLUEFOX Racing監督へと転身。宮崎祥司、武石伸也らをトップライダーに育て、一気にHondaの名門チームとして存在感を示した。地方選を走るノリックを見て、全日本500ライダーへと抜擢、チャンピオンを獲得させた。ノリックのサーキットでの親父としてノリックを応援し続けた。

メチャクチャだけど「こいつは行ける」

1993年、ブルーフォックスの仲間たちと

 

アメリカにSUZUKI時代の先輩だった人がいて「日本人の子供がダートレースで走っている。とびぬけているわけじゃないけど、いい走りをしている」と言っていたライダーがノリックだった。父親の阿部光雄さんはオートレースの有名ライダーで、その息子がロードレースを始めたと話題になっていて、どんなライダーなのかと走りを見る前から気になるライダーだった。

1992年の筑波サーキット、すこし肌寒かったので秋だったと思う。スポーツ走行でノリックの走りを見たのが最初。TZ250に乗っていたんだけど、バイクにはそのマシンに合ったライディングというのがあるが、まったくその走りとはかけ離れた乗り方に見えた。リヤを大きく滑らせてコーナーにアプローチして行くからバイクは暴れているし、なんだ、このライディングは…。メチャクチャだなと思ったが速い。でも、そのセオリー通りではない走りが、実はライディングの理想だった。誰もが出来ることではないけど、こんなふうに乗れたらいいと思う願望を実戦する走りだった。これはすごいライダーになると確信した。走行を終えて光雄さんを交えて話をしたんだけど、子供なのに雰囲気があってすでにオーラがあった。

GP500に乗せなければという使命感

1993年、十勝スピードウェイオープニングイベント

 

「これはGP500でも行ける」と思った。すぐに現場で光雄さんに話をして異存がないことを確認。チームオーナーの入交昭廣さんに「来季阿部を使いたい、500に乗せたいからHRC(ホンダレーシング)にマシンを貸してくれるように交渉してほしい」と頼んですぐにHRCに向かった。

全日本ロードの最高峰クラスのGP500に無名の阿部を乗せたいという申し出にHRCは驚いていた。それでも周りの不安や反対も自分の確信を揺るがすものではならなかった。当時の社長に直談判して了解を取り付けた。ノリックをGP500に乗せたい、乗せなければと使命感にかられていたのか、ものすごい熱意で周りを説得した。だから、NSR500を借りることが出来たことに、自分が1番驚いていた気がする。でも、やってくれると信じていたから不安はなかった。楽しみでしかなかった。

HRCに行ったのは9月か10月で、HRCのスタッフの協力を得て、岡山国際サーキットで初乗り。ノリックは、見事にぶっ飛んで高価なレーサーマシンを廃車同然とした。みんな「えぇ~」と、びくりして、次に拍子抜け。本人はさすがに神妙にしていたけど、ケガがなかったので、大丈夫と声をかけた。

数周ではあったけど、やっぱり「行ける」という思いが強くなった。今の子は、バイクに扱われているなと思ってしまうがノリックはバイクを操っていた。今年の全日本GP500にライバルはいないなと思わせてくれた。

開幕戦鈴鹿は2位だったけど、その後の菅生で初優勝、筑波も勝つ。印象に残っているのは筑波、最終ラップに2ヘアピン立ち上がりでウィリーする余裕で、レースをコントロールするだけじゃなくて、このレースは俺がもらったってオーラをしっかりと出して遊んでいた。

3戦目でGP500を自分のものにしてしまう成長の早さに担当メカニックもびっくりしていて、只者ではないと誰もが思うことになる。ノリックは、そのまま史上最年少でシリーズチャンピオンを獲得してしまう。

1994年日本GPは勝てたレースだったと思う

1994年日本GPにワイルドカード参戦が決まって、このレースをきっかけにノリックは世界に行くという予感めいたものをスタッフ全員が共有していた。このまま日本に置いておいたらダメだという思いがあった。

レースウィークになってノリックの走りを見たミック・ドゥーハン(世界GP500Hondaのエースライダーで1994年から1998年チャンピオン)が「あいつは誰?」と意識していると聞こえてきて、いよいよ始まると思った。決勝前の夜はノリックとの最後のレースだとスタッフと泣きながらマシンにステッカーを貼って遅くまで準備をした。

そうそうチャンスが巡ってくるものではないから、そこに賭けるノリックの意志を感じて、チームはひとつになっていたように思う。「やってこい」と送り出した。転倒してしまうことは、残念だけど、すこし予想していた。レースは不公平なスポーツなので、マシンもタイヤも、トップライダーと同じというわけにはいかない。ノリックのライディングに、マシンもタイヤもついていけなかったのだと思う。条件が揃っていれば勝てたレースだったから、残念ではあったけど充分過ぎる走りだったと思った。

悔しくて、悔しくて、悔しくて泣きながらピットに戻って来たノリックをスタッフも泣きながら迎えた。それでもやるだけやったという爽快感、充実感のようなものがノリックから感じられて良いレースだったと思えた。GP500に乗って1年そこそこのライダーが、あそこまで走るなんて、誰も想像できなかったはず。大きなインパクトを残すことに成功した。願い通りにウェイン・レイニー(世界GP500YAMAHAのエースライダーで、1990年~92年チャンピオン)がチャンスをくれた。

筑波イベント、ライダーは岩崎さん、ヘルパーのノリック

 

世界に出かけてからも、2007年に日本に戻ってからも変わらずに応援していた。最後の会話は、ノリックが事故に遭う前の走行テストだった。ノリックと子供の事を話して、シーズンオフに入ったら東京でお酒を呑もうと約束した。その約束は果たせないままになってしまった。

今でも光雄さんとサーキットで会うことがあれば、昔と変わらず「岩崎さん」と声をかけてもらい話をする。コロナで数年はお墓参りを休んだけど毎年出かけている。世界チャンピオンになっただろう逸材と、密度の濃い時間を過ごし監督としてレースが出来たことは幸せなこと。長い人生の中で、最も輝かしい時間だったのではないだろうかと思う。いつもニコニコして回りを明るくしてくれる可愛いさがあって、バイクも壊したけど、自分のポルシェも廃車にしてしまう豪快なやつで、面白くて、速くて…。あんなライダーは後にも先にも出会えないだろうと思うから、今でもノリックのことを思い出すといなくなってしまった寂しさに泣いてしまう。

 

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