ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。

友人・MIKIOさん
Warner Bros. Discovery Sports Events アジア地区代表役委員 
FIM EWC ロードレース世界耐久選手権 プロモーター

出会い・1995年~
フランスと日本のハーフ、英語、フランス語、日本語を話すトライリンガル。ノリックファンから友人となり、エージェント契約でノリックを支え、かけがえのない友となった。現在はFIM EWC 世界耐久選手権のアジアの取締役を勤めている。

何かを信じ続ければ、思いが強ければ、夢は叶う

1999年、ヤマハファクトリー契約から、サテライトチーム契約となったノリックから「一緒についてきてほしい」と言われて、エージェント契約をするようになった。レース直前はサーキットで見るトップライダーはみんな緊張感があったけど、その中でもノリックは特別で、ピリピリと誰も近寄れないオーラがあった。自分にプレッシャーを与えて自分を追い込んでレースに挑むタイプだった。

2003年WGP鈴鹿・日本GPで、ノリックの子供の頃からの友達で自分にとっても友人の加藤大治郎選手が亡くなった。今までの人生で感じたことがないくらいの、ものすごいショックを受けた。その日、僕は大ちゃん(加藤大治郎)のピット内でレースを見ていた。ノリックに「もう、レースは見ないし、サーキットには行かない」と伝えた。その時、ノリックが「MIKIOには、レース界で出来ることがあると思う」って言われた。その言葉は、ずっと自分の心の中に残ることになる。

WGPの最高峰クラスが、2ストロークの500ccから4ストロークのMotoGPへと完全に変わったのが2003年。ノリックは乗りこなそうとライディングスタイルを変えて挑んでいた。でも、そのせいで、腰も痛めていた。2004年にロッシがヤマハに来て、冬のオーストラリアのテストで同行していた僕にバレンティーノ・ロッシのことを「あいつは本物だ」ってつぶやいた。誰よりも、自分が速いのだと自信を武器に戦っていたノリックが、MotoGPに馴染めなかったのもあるけど、乗りこなしているロッシを認めた瞬間だったと思う。

ノリックは、(優勝したレース以外は)自分のレースを見ない。当然、他のライダーの走りも見ない。そこから学ぼうというスタイルではなかった。自分のことを突き詰めて、追い詰めて、そこで爆発させる。確固たる自分のスタイルを持つ天才だった。それは、誰もが認めていたと思う。だからこそ若きバレンティーノ・ロッシ(世界チャンピオンを9回獲得し、史上最強のライダーと呼ばれている)が憧れ、ノリックの真似をして髪の毛を伸ばして、「ロッシフミ」と名乗った。そのロッシは、他のライダーの走りも、なんでも、研究して見て学んで、進化していく勉強する天才だったと思う。

マイケル・ドゥーハン(1994年~1998年WGP500、5年連続チャンピオン)のことは、もちろん、リスペクトしていた。自分の息子の名前は、マイケルから来ていて「真生騎」だし…。

事故があったあの日は、共通の知人から「ノリと連絡が取れない、事故に巻き込まれたかも」って連絡があった。

ノリックのお母さんも病院に駆けつけたけど…。間に合わなくて…。ノリックはひとりで眠るように亡くなった。信じられなかった 。

大ちゃんの事故後、ノリックはモーターホーム などいつも綺麗にしていた。いつ何が起きても良いように整えられていた。覚悟があってレースに挑んでいたと思う。

大ちゃんが亡くなり、ノリックがいなくなって、もう、レースはいいかなと思った。でも、辻本さんが日本TVの通訳の仕事を紹介してくれた。 同時通訳なんかやった事もなかったし、出来ないと何度も言ったが、勧められて、もうかれこれ15年以上続いている。

2015年には フランスのEurosport Events( 現在は Warner Bros. Discovery Sports) から声がかかり、鈴鹿8耐を含む世界耐久選手権(FIM EWC)の日本取締役として、日本のチームをEWCに参戦を推し進める事になった。このオファーを受けたのもノリックの「MIKIOには、出来ることがある」と言ってくれた言葉があったからだと思う。これも運命だと思った。たくさんのことを与えてくれたレース界に恩返しがしたいという気持ちもあった。不思議なことに自分が見に行ったノリックの最後のレースが2007年のEWCの一戦である鈴鹿8耐だった。

2016年、ホンダ技研本社がある青山のウエルカムプラザでFIM EWCの日本の代表として「F.C.C. TSR Honda」が2016年からフル参戦をすると言う発表会を行った。TSRの藤井正和監督と山本雅史氏さん(元本田技研工業株式会社モータースポーツ部部長)と自分の3人でステージに上がった。その時の記事が、翌日の東京中日スポーツ(モータースポーツの記事を掲載することで知られるスポーツ新聞)に掲載された。その新聞は今でも大切に保管している。なぜなら、その日付が9月7日、ノリックの誕生日だったからだ。偶然ではない、めぐり合わせのようなものを感じた。

間違いなくノリックと出会って、人生が変わったと思う。カリスマ性のある唯一無二の存在は、あまりにも大きくて、影響を受け続けていたと思う。自分の中で、親友というだけでは収まらないノリックという存在を亡くしてしまった喪失感は、何年たっても癒えることはない。そして、同時にたくさんのことを残してくれたことを感じる。

ノリックが僕に教えてくれたのは「夢は叶う」ものだと言う事だ。何かを信じ続ければ、思いが強ければ、夢は叶うのだと。17歳の僕が、TVを通してファンになったノリックは、飲み仲間になり、親友となり、エージェントとして世界に連れて行ってくれた。

今でもノリックの幼馴染みとは連絡を常に取り合っているし、ノリパパ(阿部典史の父)とも良く飲みに行く。そして、レース界にもどっぷりと浸かっている。

今でも、数年に一度ノリックの夢を見る

ノリックが亡くなって、1週間後くらい経った頃に携帯電話が鳴った。画面を見るとノリックからだった。出たけど、繋がらなくて…。ノリックの携帯電話を誰かが間違って鳴らしてしまったのかも知れないと直ぐに掛け直したが、「この電話番号は使われておりません」 と 、メッセージが流れた。

信じてくれなくていいけど、天国から連絡をくれたんだって思っている。嬉しかったんだ。どこかで、まだ、繋がっていると思えることで、少しは、気持ちが楽になった気がするから。

今でも、数年に一度ノリックの夢を見る。一緒にふざけたり、遊んだり、長時間、語り合ったりする。でも、夢の途中でこれが夢だと気が付く。その瞬間、またノリックと離れるのが怖くなる。それでも、また、ノリックと夢で逢いたいと思う。一緒にいられる最高の時間だからだ。そして、夢から覚めて、いつも思う。「また会いに来てくれたんだ」と…。

 

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