
ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。
FIM EWC ロードレース世界耐久選手権 プロモーター
出会い・1995年~
フランスと日本のハーフ、英語、フランス語、日本語を話すトライリンガル。ノリックファンから友人となり、エージェント契約でノリックを支え、かけがえのない友となった。現在はFIM EWC 世界耐久選手権のアジアの取締役を勤めている。
あのレースを見て、自分の中で何かが変わった
1993年から全日本のロードレース選手権や世界選手権(WGP)を見るようになった。日本では16歳にならないと二輪の免許が取れないはずなのに、なぜ17歳という若さでノリックが500ccクラスに参戦しているのか不思議でしょうがなかった。(日本のサーキットライセンスはジュニア枠だと12歳~。ロードレース国内ライセンスは16歳以上で所得可能)自分と同じ年齢で、GP500ccクラスで活躍をしていたノリックがすごくカッコ良かった。
1994年のWGP日本GPは、前日からTV中継があることにワクワクしていた。前夜にノリックが大活躍している夢を見たけど、当時はワイルドカード(推薦枠)の存在も知らなかったから、全日本を走っているノリックが参戦出来るとは思っていなくて、TV画面で、ノリックがグリッドに並んでいるのを見て本当に驚いた。
そして、リアルにノリックがトップ争いをしていて、デジャヴ(予知夢)だと思いすごく興奮した。マイケル・ドゥーハンやケビン・シュワンツ、WGPのトップライダーとのバトルのすごさは、インパクトが大きすぎて言葉にできなかった。転倒してしまったけど、すっかりノリックファンになった。ファンっていう生易しい感じじゃなくて、ノリックにはまった。心を掴まれた感じだった。同じ年の18歳の若者が、自分の力を世界に見せつけたんだ。こんなすごい事があるのか!って。本当に僕の中で何かが変わった瞬間だった。
1995年当時、自分はフランスのパリで工業デザインスクールに通い始めていた。この時も、Eurosport(欧州のスポーツチャンネル)で、WGPの全レースを見逃すことなく見ていた。この年、青木治親選手がWGP125 クラスで世界チャンピオンになる。その年のWGPシーズンが終わり自分も日本に帰国する日、フランスのシャルル・ドゴール空港で、青木治親選手や、その兄の宣篤(WGPライダー)選手にゲートで遭遇した。「チャンピオンおめでとうございます!」と声をかけた。自分の見た目は、外国人だから「えぇ、日本語話せるの?」って聞かれて「はい」と答えた。今思うと青木治親選手が初めて会うGPライダーだった。
その2週間後、全日本ロードレースの最終戦SUGO MFJ GP観戦に出かけた時に、パドックで青木治親選手が自分のことを覚えていてくれていて、嬉しかった。スポーツランドSUGO内に「くぬぎ山荘」というホテルがあったんだけど、そこのラウンジにストリートファイターのゲームがあって、誘われて出かけた。本間利彦選手(YAMAHAファクトリーライダー )とノリックがいて、少し離れて「うわぁ、本物だ」とノリックを見ていたら、ゲームで対戦することになり、俺が勝ってしまった …。ノリックは悔しそうで、意地になっていて、インチキ(ハメ技)をしてでも絶対に勝とうとしている必死さを感じて面白かった。それがノリックと初めての出会いだった。 次の日の決勝日にピットを訪ねてサインを貰った。そのサインは今でも大事に保管している。
1995年末には、日本でレースを始めることにして、工業デザイン学校を辞めた。1970年代、スズキのワークスライダーとして活躍していた安良岡健(アラオカ・ケン)さんが「 EXPERT RT 」というチームを持っていて、友人の紹介で、そのチームに入れてもらった。YAMAHAのTZ250を買って地方選に出て6位くらいまでにはなれた。でも、その後、富士スピードウェイの1コーナーで転倒して強く腰を打ち大ケガをした。それで、レースを辞めてしまう。
でも、レースが好きな気持ちに変わりはなく、全日本のパドックに顔を出すようになっていた。自分が所属していたチームのトップライダーでその年全日本250ccでランキング6位だった椿洋選手(ツバキ・ヒロシ)にSP TADAO(ヤマハの名門チーム)で走っていたライダー(松戸直樹選手や井筒仁康選手)を紹介してもらったり、本間利彦選手、芳賀兄弟(健輔、紀行)や青木拓磨選手とも連絡を取るようになっていった。
ノリックは、やることが派手。カリスマ性があった
自分のレース資金を稼ぐため六本木のバーでアルバイトしていた時に、偶然、ノリックも4輪の本山哲さんたちと来てくれた。この時、ノリックと連絡先を交換し、1ケ月後ぐらいに「幼馴染の友達と六本木に行きたいから、案内してほしい」と連絡があった。幼馴染の友達や、伊藤真一選手、加藤大治郎選手や、辻本聡さんや、ノリックの幼馴染みやライダー仲間たちと飲みに行くようになった。最初の頃は、案内人の遊び友達から、次第に普通の友達になって行った。年間20~30回以上は一緒に出掛けたかな。1996年からパスをもらい、WGP観戦にも頻繁に出かけるようになった。
1996年WGP日本GPは、鈴鹿サーキットで観戦した。衝撃的なノリックのWGP500初優勝だった。最高の瞬間を一緒に体験できた。ノリックが高速道路でポルシェを運転中にスピンしたのは、このレースの帰りだったと思う(笑)。ノリックは、やることが派手というか、六本木でもノリックを知らない人はいないぐらい有名人だった。芸能界の人やハリウッドの俳優などとも良く飲んだ。物おじしないし、魅力的だから、たくさんのファンをつくるのに時間はかからなかった。間違いなく日本人ライダーの中で一番カリスマ性が有るライダーだったと思う。完璧なスターだった。
ものすごくお酒は飲むし、それもモエ・エ・シャンドン(Moet et Chandon) しか飲まない。それも全部、毎回一気飲み。そのお陰で俺もお酒は強くなった(笑)。でも周りをいつも気にしていたし、みんなを楽しませようと考えていた。すごく熱く、エモーショナルな人で、人のためには、とことん尽くす。真剣に相手のことを考えるから、説教したりもして、深く人と結びつくんだ。
最高記録はモエ(シャンパン)を18本!飲み代は、必ず現金でノリックが払っていた。男飲みって言うのか、とにかく豪快な楽しいお酒だった。お酒は強くて、飲んで、飲んで、最後は飲まれちゃう時もあったけど…。3回に1回はヘベレケになり、5回に1回は泣いていた(笑)。カラオケで歌うのが大好きだったなぁ~。それが彼のストレス発散だったんじゃないかと思う。飲みつぶれてしまうノリックを見て、どんな重圧を感じてレースをやっているんだろうって思うことがあった。(Part2に続く)
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