ロードレース世界選手権(WGP)で通算3勝を挙げた「ノリック」こと阿部典史(享年32)が2007年10月7日、事故死した。現場(神奈川県川崎市)には、8日、多くの献花が飾られた。強い雨の中、早朝からファンが詰めかけ、ノリックが倒れていた路上が祭壇のようになった。

7日午後6時20分ごろ、片側2車線の市道の走行車線を走っていたトラックが突然Uターンした。追い越し車線を500ccのスクーターで走っていたノリックは衝突を避けようとして大きく右側にハンドルを切るが、トラック前部のバンパーに引っ掛かった。事故で折れたろっ骨が動脈を損傷したことで容体は急変。午後8時52分に帰らぬ人となった。現場はUターン禁止区域だったため、このトラック運転手は起訴され、禁固1年4ヶ月(執行猶予3年)の判決を受けた。

13年ぶりに海外参戦から帰国しロードレース全日本選手権、最高峰クラスJSB1000に参戦し、観客動員増加に貢献していた矢先の事故だった。

2007年10月13日、阿部典史の告別式が東京、港区の青山斎場で営まれた。通夜に3000人が訪れ、告別式にも3200人を超える人が別れを惜しんだ。

斎場の中に用意された椅子は埋まり、WGP、全日本時代のライバルや友人だったライダーをはじめ、入り切れない関係者が、斎場の外に並んだ。斎場に入れないファンは、その外にも連なった。

厳粛な雰囲気の中で、葬儀に参列できなかったウェイン・レイニー(1991年~1992年ロードレース世界選手権WGP500チャンピオン)とバレンティーノ・ロッシ(WGPで9回のチャンピオン獲得)の弔辞が読まれた。

阿部のWGP参戦のきっかけを作ったレイニーは「1994年日本GP、鈴鹿で、私のライバルだったケビン・シュワンツ(スズキ・1993年WGP500チャンピオン)、マイケル・ドゥーハン(ホンダ・1994年~1998年WGP500チャンピオン)と素晴らしい戦いをした雄姿を忘れることは出来ない。黒い髪をなびかせながら、ワイルドなライディングスタイルを誇り、まるで、指先とつま先だけで走るようなスタイルは、数多くのライダーに影響を与えた。500のGPマシンに乗ることが、どれだけ恋しいかと語り合ったのが最後の会話だった。その時を思い出すたびに涙が止まらない」と綴った。

阿部のファンであることを公言し、髪型を真似て長髪にしていたロッシは「貴方の訃報を聞いたとき、僕の心は痛み、深く悲しみました。僕が若かった頃、自分の部屋に貴方のポスターを貼っていたことを今でも覚えています。そして『ロッシフミ』という名前を使うことにしたのは、貴方こそレーサーとしての僕のキャリアにおける数少ないアイドルだったからです。貴方は僕に多大な影響を与えたひとりです。今の僕があるのは貴方の影響といってもいいでしょう。
貴方がワイルドカードで鈴鹿の日本GP(1994年)に初出場したときのことは、今もはっきりと覚えています。貴方はミック・ドゥーハンやケビン・シュワンツと苛烈なレースを繰り広げました。それは稀にみる名レースで、その後の数ヶ月間の間、僕は毎朝早起きし、学校に行く前にそのレースを何度も何度も見ていました。貴方の独特なライディングスタイルと素晴らしいチャンピオンたちとのバトルを僕はいつまでも忘れません。僕は貴方と同じレースに出場できたことを幸せに思います。2001年のヘレスグランプリでは一緒に表彰台に立つこともありましたね。本当に悲しい。貴方のご家族に心から哀悼の意を伝えたいです。典史は僕の心の中でずっと生き続けるでしょう」と伝えた。

集まったファンに配られた2500本の「YAMAHA」の旗が揺れる中で、ゼッケン「81」を付けた「YZF-R1」のエンジン音が響くと「ノリック、ありがとう!」と泣き声まじりのが至る所から上がり、故人を見送った。

その後、阿部の死を悼みライダーや、メカニック、スタッフは、喪章をつけてレースに挑んだ。WGPオーストラリアでは冒頭の時間を使って、葬儀当日の様子と阿部典史を偲ぶ映像が流され、レース前に黙祷が行われた。

 

※写真提供:ヤマハ発動機

 

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