ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。

 

兄・阿部和正さん
ゴルフインストラクター

阿部典史の1歳上の兄、幼少期は一緒にバイクに乗り、父・光雄氏の「目標に真っすぐに向き合う」という教育方針で、自身はゴルフ、典史はバイクと、お互いにトップを目指し歩んだ。

それぞれに夢を追いかけた

左が兄・和正さん、右がノリック。遊んで喧嘩して共に幼少期を過ごした兄弟は、それぞれに夢を追いかける人生を歩む。

 

ノリ(典史)との思い出は、あらためて考えると、そんなにないかな…。子供の頃は、普通に喧嘩して、仲直りして、一緒に遊ぶ、どこにでもいる男の子の兄弟だったと思います。覚えているのは、父とノリと河川敷で子供用のモトクロッサーのようなバイクに乗ったこと。本格的なものではなくて、家族の休日の楽しみという感じで楽しかったことを覚えています。

あの頃は、自分の方が荒々しいというか、元気いっぱいだったと思う。ノリは慎重なタイプで、自分から見ても上手に乗るなと思ってみていました。スノボーが流行った時に、一緒に遊びに行ったんですが、自分は怖くて滑り降りるのを躊躇するようなところでも、平気で降りて行って「こいつ、すごいなぁ~」と思っていました。自転車にも乗っていたんですが、BMXの世界選手権の代表に選ばれたりしていました。そういった才能はあったんだと思います。自分はバイクで骨折してしまったこともあって、少し、バイクから離れます。治ってから、また乗ったんですが、ノリほどのめり込むことはなかった。

自分は、中学校の終わりくらいからゴルフを始めるようになって、プロを目指すようになります。父は、目標に向かって行くという教育で、勉強しろという感じではなかった。好きなことに向き合えという教育方針で、父が茨城県の建設中のゴルフ場で働きながら練習できる場所を探してきてくれました。まだ、オープン前のゴルフ場で、建設作業の人との生活でしたが、先輩たちはとても上手な人ばかりで、働きながらゴルフの修行をするようになります。なので、そこからノリとは離れてしまう。

父が休みの日には良く出かけた河原。ここでピクニックしながら、バイクを走らせるのが親子の楽しみだった。

 

ノリは中学校を出るとアメリカにテッペイさん(ジャーナリスト)とダートレースの修行に行きます。自分もゴルフの練習で海外留学もさせてもらいました。父はオートレーサーで、母は専業主婦でしたが、母の実家もお寿司屋さんで、周りに会社員という人がいなかったこともあるのかも知れませんが、やりたいことを突き詰めるという環境の中で、自分もノリも自由に育ったと思います。

ノリとは、そんなに頻繁に会う機会はなく、サーキットへ応援に行ったのは2回くらい。鈴鹿ともてぎが一度ずつで、あまり覚えていないのです。印象に残っているのは、初めて出た1994年の鈴鹿の日本GPです。大事なレースだと聞いていたので、そのレースだけはライブで見なければと、時間を作ってTVで観戦していました。最後は転んでしまいますが、ノリの気持ちが伝わるレースだったので、特に覚えています。このレース後に、ノリと話しをして「死ぬ気で行く、くらいの覚悟だった。ここで、目立たなければ後がない…」と懸命に挑んだと言っていました。転んでしまったから、次につながることはないのだなと、残念な気持ちで聞いていました。でも、このレースがノリの大きな転機になり、ノリの覚悟は生かされたのだなと思いました。

大人になってからは、お互いに忙しくしていたので、正月に顔を合わせるくらいでした。普通の兄としてノリの結婚式に出たり、子供が生まれたお祝いをしたりし、そんな普通の兄弟としての付き合いが続くのだなと思っていました。

真生騎はノリ(典史)に似ている

2007年10月7日、ノリの事故の連絡を受けたのは、自分でした。たまたま実家に戻ったタイミングで、病院からの電話を受けました。すぐに父に連絡して、母は旅行中でいなかった。母はノリをとてもかわいがっていて、頼りにもしていたので、ショックで倒れてしまうのじゃないかと思った。だから、伝えることがとても怖かった。

母はノリが心配で、レースを見るのも「怖くて見ていられない」って言っていました。ノリも母をいつも気にかけていた。そのノリがいなくなり、一緒に母も死んでしまうのではないかと本気で思っていました。ノリが亡くなって、地元の友達は母のことを心配して、家によく顔を出してくれていました。他のレース関係者の人も来て、ノリの人との付き合い方の深さや、皆にとても大事にされて好かれていたのだなと感じました。母は、気持ちを奮い立たせるように、典史の7回忌まで頑張っていました。でも、平成25年11月4日、寝ている間に大動脈解離で母は亡くなります。

ノリは、20歳の時に母のために自由が丘に家を買いました。自分のゴルフも応援してくれていました。自分の目標に向かって頑張って、世界で活躍したすごい弟です。ライダーとしてだけでなく、息子としても母の自慢だった。自分のトレーニングルームには、ノリの大きな写真が飾ってあります。それを見ると「負けないように」と今でも背筋が伸びます。なまけたら怒らせそうな気がするんです。ノリの方がしっかりしていて、いつも「頑張れよ」って声をかけられていた。自分にとっては、兄のような存在だったなとも思います。


真生騎のレースを応援に筑波サーキットに出かけた時のグリッド写真。左から父・光雄氏、真生騎、兄・和正。

 

真生騎(まいき)がバイクに乗ることになるとは思っていませんでした。子供の頃からノリに顔だけでなく、しぐさやたたずまいというか雰囲気が良く似ていました。真生騎のレースを筑波に一度、見に行ったことがあります。ピットで隣にいた真生騎が、ノリじゃないかと錯覚するような感覚がありました

でも、ノリはおしゃべりだったけど、真生騎はあまり話さない。無口で、おとなしいところは、自分に似ているのかなと思います。どんなレース人生を歩むのかと心配な部分もありますが、父が自分の時間の全てを賭けて、懸命にサポートしている真生騎のレースを、叔父として、これからも見守っていきたいと思っています。

 

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