ノリックこと阿部典史は、プロフェッショナルライダーを夢見て、サーキット秋ヶ瀬で腕を磨き、アメリカ修行に飛び出した。史上最年少で全日本ロードレース選手権チャンピオンとなり、ロードレース世界選手権にデビュー、最高峰クラスのチャンピオンを目指した。
常に前を向き、顔を上げてライダー人生を切り開き、圧倒的オーラを放ち、くったくのない笑顔で、ファンの心を鷲掴みにした。
ノリックの幼少期から、サーキット秋ヶ瀬の仲間、全日本ロードレース、ロードレース世界選手権と、彼が懸命に生きたそれぞれの場所で、出会った人々が、彼との思い出を語った。

 

幼馴染・柴田さん
小料理「有明」店主

出会い・小学校~
小学生の時からの地元の遊び仲間、ノリックがライダーとして活躍するようになってもオフシーズンには一緒の時間を過ごした。

阿部ちゃんは、世界に行ってもずっと変わらなかった

いつも集まる仲間とスキーに出かけた雪の日の写真、柴田さんは左から二人目。

 

最初に会ったのは小学校3~4年生の時。家が近くで、仲の良いグループの中のひとり。学校や公園で自転車にのったり、わざわざガタガタ道を探して出かけたりしていた。阿部ちゃんはいつもニコニコしていて、一緒にいるのが楽しかった。

中学校3年生くらいになると給食だけ食べにくるような感じだったけど、不良とかじゃなくて、先生とも友達とも仲が良かった。高校受験を控えて、これからのことを考える時期には、阿部ちゃんはアメリカに出かけて行った。そのアメリカ行きが、どんなことなのか良くわかっていなかったけど…。すごいって思っていた。

日本に戻って来た時に、近くの公園で話したことを覚えている。「親に心配かけているから、ちゃんとするんだ」って言っていた。まだ、16歳くらいだったけど、阿部ちゃんはプロのライダーになることを真剣に考えてバイクに打ち込んでいるんだなって思った。

スキーに出かけた日、柴田さんは、左端にいるノリックの隣、幼馴染との付き合いは、ずっと続いていた。

 

目立つタイプだったと思う。中学校を卒業してから、阿部ちゃんのことが好きだったって女の子の話が出たりして、意外とモテていたような気がする。

全日本ロードレース選手権を走りだして、みんなで筑波サーキットに応援に行ったことがある。初めて見るレースだったから、すごい圧倒された。ちょっと近よりがたい感じがしたけど「レース前に熱が出ちゃった」って言っていて心配した。デリケートなところがあって、大事な時には熱を出していたような気がする。そのレースが、たぶん、全日本チャンピオンを決めたレースだったと思う。僕たちも都合がつく時には、レースの応援に行くようになった。鈴鹿ともてぎには、お揃いのTシャツを着て出かけた。

「世界に行ってくるよ」と言って、ロードレース世界選手権(WGP)に出かけるようになっても、オフには、必ず一緒に過ごしていた。スキーやスノーボードに出かけ、年頃の子たちが過ごすように遊んでいた。自分たちは、レースのことを聞かなかった。良く知らないこともあるけど、聞いたらダメなんじゃないかと思っていた。皆が独身の頃は、時間が出来るといつも一緒って感じだったけど、それぞれに家族が出来てからは、いつも一緒というわけにはいかなくなったけど、それでも、オフには必ず会っていた。僕たちにとっては、ずっと変わらない阿部ちゃんだった。僕たち仲間をすごく大事にしてくれた。気を使ってくれるタイプで、時間が出来ると会いに来てくれた。

でも、飲む時はとことんって感じだったから、きっと成績がふるわなかったこともあったと思うし、悩みもストレスもあったと思う。酔っぱらって「皆と一緒が、1番安心して飲めるんだ」って言ってくれた。

事故の知らせは、誰から来たのかな。よく、覚えていない。現実感はまったくなかったけど、すぐ、家を飛び出して病院に向かった。病室に入れるのはひとりだけと言われて、おちぼ―(友人)が行って…。自分たちは病室の外にいて…。

遺体が家に戻って来て、阿部ちゃんが可愛がっていた白と黒の猫がいるんだけど、拾って来た猫…。その猫が、阿部ちゃんから離れなくて、ずっと、そばにいて…。それを見ているのも、そこにいるのもきつかった。

今も信じられない気持ちでいる。でも、しばらく会えていないから、やっぱり本当なんだなと思う。会えないのは、ものすごく寂しい。

 

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