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1992年7月2日 神奈川県横須賀市 生まれ。21歳。 
3歳からポケバイに乗り始め、故・富沢祥也や中上貴晶らと共に毎週末、千葉北サーキットで腕を磨いた。小学6年生までポケバイで走り、その後、ミニバイクレースに転向。

2008年にはFRS(7c)に所属し、全日本GP-MONOクラスに参戦を開始。レース1ヶ月前くらいまでは参戦が決まっていなかったが、急遽の参戦決定だった。シーズンを通してマシンとの相性もよく、国内ライセンスながらランキング2位となる。同世代のライダー達はGP125(2ストローク)が多い中、4ストローク車両に対するバツグンの適応力をみせた。

翌年GP125にスイッチしたが2ストロークの車両があまり合わず苦しいシーズンを過ごす。鈴鹿のストレートエンドでエンジンも焼きついたこともあり、2ストロークに対する苦手意識が強かった。

2011年には高校を卒業し、再度GP-MONOクラスに参戦。シーズンを通してライバルと競り合い、チャンピオンを獲得。GP125時代に結果が出ずに、また高校卒業後の進路も重なっていた時だったので、チャンピオン取れなければ「引退」と考えていたシーズンだった。

高校を卒業したら自分のお金でレースに取り組むと親と約束していた長島は、2011年のレース活動を終えるころには200万円の借金を背負っていた。それに加えて2012年のJ-GP3クラスの参戦にあたっては500万円の参戦費用が必要だった。

チャンピオンを取っても状況は楽になった訳ではなく、昼は引越し会社、夜はバーテンダーとアルバイトに明け暮れた。地元の商店会でもサポートしてもらい、2012年はシーズン最終戦までに3勝でランキング2位。最終戦の鈴鹿はチャンピオンを賭けて臨んだが、決勝が悪天候で中止となってしまった。
色々な人に支えてもらったのに結果が出せなかった悔しさが世界へのチャレンジをよりいっそう意識させることになった。

2013年はMotoGPに少しでも近い全日本のJ-GP2への転向を考えたが、すでに多額の借金を負っていた長島にはどうしても今後のレース活動に限界があった。
そんな折に当時のライダー仲間から携帯ショップを運営する「テルル」を紹介してもらい、テルルで社員として働きながらレース活動する事となった。
不安定なアルバイト生活から一転、安定した仕事を得て、コンディションを整えることが出来た。また、600ccの車両には乗ったことがなかったが、もてぎの初テストでコースレーコードが出たことも自信につながった。

自信を持って挑んだ開幕戦のもてぎラウンドは、コースレコードとホールポジションという最高の状態で決勝へ望んだ。しかし決勝日は雨。600ccの車両でレインコンディションの走行経験が無かった長島は、サイティングラップ(スタート前の整列走行)で転倒。600ccでの雨の経験が無かったこと、そして転倒したことが悪い形で出て結果6位となった。

もてぎ以降の序盤戦から転倒が続き、苦戦するシーズンスタートとなった。長島は今までの軽量級のバイクの乗り方を、600ccにアジャストしながらライディングをどんどん修正していき、終盤の第6戦岡山でついにクラス初優勝。
そしてその後のMotoGP日本グランプリではMoto2クラスで代役参戦が決まり、決勝20位。世界のレベルの高さを強く感じたレースとなった。

2014年はチャンピオンを賭けて全日本J-GP2クラスの継続参戦が決まっていたが、MotoGPのテストが始まろうという時に長島の元にMoto2参戦の話が飛び込んだ。
この話に長島は大いに悩んだが、様々な人々の後押しや応援を受けて、テスト直前にTeluru Team JiR Webikeからの世界GP参戦を決めた。

◆長島哲太公式ブログ

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