
日本における本格的なオフロードマシンの先駆けの1車として語り継がれているスズキハスラーシリーズを、カタログを交えて紹介いたします。
ハスラーシリーズの先陣を切ったのは、激戦の250ccクラスに投入したハスラー250でした。
1969年3月 ハスラー250が登場
1969年5月発行のハスラー250のカタログ表紙。
迫力のあるウィリー走行が軽快な走りの印象を与えています。
車体色には、鮮烈なキャンディーソフィアグリーン1色を採用。
“男を賭けるダイナミックマシン”のキャッチフレーズとともに、自然の中を颯爽と駆け回る
イメージが膨らみます。
メカニズムを詳細に解説。フレームからエンジンまでほとんどがハスラー250の専用設計です。
主要諸元のページには、スズキCCI(シリンダー・クランク・インジェクション)技術を直接給油方式と紹介しています。これは、2ストロークエンジンの信頼耐久性を飛躍的に高めた技術で、通称「分離給油」と呼ばれています。
専用ポンプで、潤滑用オイルをクランク大端部とシリンダーに直接給油するシステムで、スズキでは、1965年のコレダ250T20のスポーツ車に初採用した後、全車に展開しました。
こちらは、ハスラー250の簡易版カタログです。
スズキのワークスライダーとして、モトクロス全日本選手権で活躍していた矢島金次郎氏の走りを掲載しています。ハスラー250には、モトクロスレース用のキットパーツを豊富に用意していましたから、モトクロスへの興味を高める狙いがあったと思います。
ヘルメットに丸金のマークをあしらい、独特なライディングフォームで人気がありました。
矢島氏は、1969年と1971年の全日本選手権セニア125のチャンピオンを獲得した国内トップライダーでした。
モトクロス世界GPの活動とハスラーの開発
1965年、スズキは日本メーカーでは初めて、モトクロス世界GPの250ccクラスに挑戦しました。ロードレース世界GPで培った2ストロークエンジン技術をベースに造り上げたマシンでしたが、海外メーカーの前では全く勝負にならないレベルでした。
エンジンの出力特性やフレーム構成など、全てにおいてモトクロスは別世界でした。
1965年 スズキが初めて挑戦した250cc用マシン「RH65」写真提供:三樹書房
スズキの挑戦は、1966年、67年と続きますが、世界と戦えるレベルには程遠い状況でした。
転記が訪れたのは1968年でした。トップライダーのオーレ・ペテルソン選手との契約により、マシン開発が格段に向上したのです。同年、ペテルソン選手はシリーズランキング6位を獲得し、世界と戦えるレベルに手が届いたのです。
そして、1969年にはペテルソン選手がシリーズランキング3位、メーカータイトルではCZに次ぐ2位を獲得しました。
1969年「RH69」参戦5年目で世界のトップレベルに近づいた:写真提供 三樹書房
このように、モトクロスレースの活動に意欲的なスズキにとって衝撃的だったのは、1968年に発売されたヤマハトレール250DT1の登場でした。
モトクロス世界GPでは、日本の他社の一歩先を行っていましたが、公道市販モデルでは、ヤマハに先行を許してしまったからです。
モトクロス世界GPで培ったノウハウを注いで開発したのが、ハスラー250なのです。
DT1に遅れる事1年、1969年3月に発売がスタートしました。
DT1、ハスラー250ともに、空冷2ストローク単気筒246ccエンジンを搭載。
タイヤサイズは、両車ともにフロント19インチ、リア18インチ。
最高出力も18.5PSと同じ数値で、193,000円の価格も同一でした。
この2台は、モトクロスレースでもライバル関係にありました。
ハスラーシリーズのラインナップ展開
1970年、シリーズ第2弾としてハスラー90が発売になりました。
250とイメージを合わせたグリーンの車体が目立ちました。
カタログでは、矢島金次郎氏のレースシーンも紹介しています。
1971年は、ハスラー50、125、185が新たにラインナップに加わりました。
1971年のカタログでは、それぞれモトクロスレース用キットパーツと価格を紹介しています。
そして、オフロードランを楽しむ場所の提供として、全国各地に「スズキオートランド」を開設し、モトクロスのスクールや大会も開催して、モータースポーツの普及活動を積極的に展開したのです。
スズキは1970年、モトクロス世界GPの250ccクラスで念願のライダー&メーカーチャンピオンを獲得しました。その偉業をカタログでも紹介しています。
チャンピオンマシンRH70は、鮮やかなイエローでしたから、ハスラーシリーズにもチャンピオンマシンのイエローが採用されました。
1970年「RH70」 ジョエル・ロベール選手がチャンピオンを獲得。メーカータイトルも
獲得し2冠に輝いたマシンでマフラーはダウンタイプ。
1972年 ハスラー400が加わりラインナップ完成
1972年、ハスラーシリーズ最大排気量のハスラー400(TS400)が加わり、50から400までのラインナップが完成しました。
当時のワークスマシンは、ダウンマフラーということもあり、ハスラーシリーズでもダウンタイプを採用する機種が増えていきました。
市販モトクロスマシンとして、TM250とTM400がラインナップに加わりました。
ハスラーシリーズは、各モデルともに熟成を図りながら進化していきました。
1975年は、タンク形状やグラフィックに統一感が見られます。
市販モトクロスマシンは、1970年のチャンピオンマシンRH70から採用している鮮やかなイエローで統一しています。
1975年発行のハスラーと市販モトクロスマシンの総合カタログ
ハスラー90は、1973年発売モデルから、アップマフラーからダウンマフラー仕様に大きく変わりました。
ハスラー125。タンクのデザイン変更と、エンジンには精悍なブラック塗装を施しました。
ハスラー250。前年の74年にフロントタイヤを19インチから21インチに変えて、走破性を
高めました。75年のモデルでは、最高出力を1PS高い23PSに向上させました。
ハスラー400。前年の74年にフロントタイヤを19インチから21インチに変更。
最高出力34PSなどの諸元ははそのままで、カラーリングを変更しました。
市販モトクロスマシンの紹介ページでは、1975年に鈴鹿サーキットで開催されたMFJ日本グランプリで優勝した増田耕二選手の写真を大きく扱い、マシンの優秀性をアピールしています。
1970年代前期のオフロードカテゴリーは、2ストロークエンジンでは、スズキが50から400まで。ヤマハが50から360まで。カワサキが90から350まで揃えていました。
一方、4ストロークのホンダは、SLシリーズで90から350までと、オフロードファンは多様な選択肢から気に入ったモデルを選ぶことができたのです。
ハスラーシリーズは、進化しながら125と250は1983年頃まで販売されました。
それぞれ、1984年に登場したRA125とRH250に引き継がれました。
ハスラー50は、2000年頃まで販売され長寿モデルとなりました。
ハスラーシリーズでオフロード走行やツーリングの楽しさを知った人も多いと思います。
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