
スズキを世界的メーカーに押し上げた伝説的な経営者、鈴木修氏が12月27日、94歳で死去された。軽自動車を人気ジャンルに成長させたことが有名だが、バイク関連でも数々の名車が世に送り出された。その功績を代表的なモデルとともに振り返りたい。
目次
1978年の社長就任から業績を10倍に伸ばした敏腕経営者
年の瀬の迫った12月27日、自動車産業を代表するカリスマ経営者の訃報が届いた。スズキ元社長であり、相談役の鈴木修(すずきおさむ)氏が2024年12月25日、94歳で病没された。
1978年の社長就任時に約3000億円台だったスズキの年間売上高を3兆円規模にまで成長させた立役者で、数々の手腕を発揮してきた。その功績を改めて振り返りたい。
鈴木修氏は1930年に岐阜県で誕生。スズキ2代目社長である鈴木俊三氏の娘婿で、1958年に同社へ入社した。社長に就任したのは、GS1000(輸出車)がスズキから発売され、第1回鈴鹿8時間耐久レースで勝利した1978年だった。
翌79年、47万円という驚異の価格で発売した軽自動車のアルトが大ヒット。アルトは修氏が発案したモデルで、当時は影が薄かった軽自動車をメジャーな存在に押し上げた。当時の軽自動車は360cc以下。スズキはバイクから出発したメーカーで、当時250cc程度だった二輪エンジンの技術を軽自動車に活かしたという。
数ある功績の中でも大きいのが82年のインド進出。当時、トヨタなどの大手は米国市場への進出を狙ったが、スズキが目をつけたのは将来を見据えたインド市場だった。日本メーカーでいち早く進出し、現在もシェアはトップの41.7%(2023年度)。アジアを中心とした各国でシェアNo.1を獲得しており、スズキの年間販売台数307万台(2023年 世界9位)の原動力となった。
鈴木修氏(写真左)は、2007年にインド国勲章「パドマ・ブーシャン」を受章。当時のアブドゥル・カラーム大統領から叙勲された。なおパキスタンからも勲章を受章している。
1992年にハンガリー初の乗用車を発売した功績から、2020年にハンガリー政府から「大十字功労勲章」を受章。同国の勲章の中で民間人に授与される最高の勲章だった。
カタナ、ガンマ、GSX-R750・・・・・・1980年代に二輪事業を起死回生させた名車が続々
1980年代は、スズキから数々の革新的なバイクが生まれた。
1980年頃はホンダとヤマハによるHY戦争が起きていた時代。スズキの二輪事業部は減益で100億円もの赤字に転落していた。
そんな中、1981年秋に海外でGSX1100Sカタナがデビュー。発売前に当時の鈴木修社長が「こんな仮面ライダーみたいなバイクを出して売れるのか」と開発者に語ったとされるが、結局、市販化にゴーサインが出され、ヒットしたのはご存じのとおり。
さらに、カタナを手掛けた横内悦夫氏(故人)という名エンジニアの元、RG250Γ、GSX-R(400)、GXS-R750など常識破りのスポーツモデルを連発。いずれも他を圧倒するスペックのバイクを世に送り出したが、これも修社長の英断が背景にあるだろう。
HY戦争当時は二輪事業からの撤退も検討したというが、ヒット作を連発したおかげで業績は回復し、現在に至る。
「1ccあたり1000円」を目指したチョイノリも修氏の発案
軽自動車アルトのほかに、修氏が二輪で発案したモデルが「チョイノリ」だ。チョイノリは、2003年に5万9800円という衝撃価格で発売された原付スクーター。スズキの軽自動車と同様、徹底したコストダウンで、バイクにも「価格破壊」をもたらした。
四輪で標榜していた「1ccあたり1000円」という修氏の理想を実現するため、部品点数は30%、ボルトやナット類は50%削減され、当時の一般的なスクーターより40%もの軽量化を達成。リヤサスがなく、樹脂製のカムシャフトとカムスプロケットまで採用し、乾燥重量は39kgに過ぎなかった。
2003年にデビューしたチョイノリは、OHV2バルブの49cc空冷単気筒を搭載し、最高出力2.0psを発生。初期型は距離計がなく、セルスターターなしのモデルもあった。
チョイノリは激安モデルというだけでなく、同年のグッドデザイン賞を獲得した愛らしいデザインも魅力だ。
ジャパンモビリティショー2023には電動のe-チョイノリを出品。ボディは基本的にエンジン版チョイノリと共通だ。市販化には至っていないが、登場なるか?
「軽自動車は芸術品」の姿勢を今後も貫いてほしい
2015年6月には社長職を長男の鈴木俊宏氏に譲り、会長職に。2017年には日本独自規格の50ccバイクについて「いずれなくなる」と発言していたが、この言葉どおり2025年10月末で50ccバイクは排ガス規制に対応できず生産終了となる見込み。これも修氏の観察眼を表すエピソードの一つだ。
2021年には会長職も退任し、相談役に就任。そして2024年12月25日、悪性リンパ腫のために死去された。一昔前には考えられなかったホンダと日産の経営統合に続く、鈴木修氏の訃報に隔世の感を覚える。
2013年の東京モーターショー会場で軽自動車のことを肯定的な意味で「貧乏人の車」と発言したが、「一定の制約の下で挑戦したからこそ技術力は向上する。技術屋から見たら軽自動車は芸術品だ」とも発言している。まさにバイクにも当てはまる言葉で、この姿勢を今後のスズキも守り通してほしい。
一方で修氏は「レース嫌い」として知られる。2022年にスズキはモトGPと世界耐久(EWC)からワークス参戦を撤退しており、今だ復帰していない(2024年の鈴鹿8耐にはサステナビリティ車両で復帰)。どこまで修氏の影響があったかは不明ながら、この風向きが変わる日が来るのかもしれない。
――故人の遺志により葬儀は納骨まで近親者で内々に執り行っており、お別れの会(日時・場所とも未定)が後日、開催される予定だ。
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合掌。
鈴木さん今までありがとうございました。
私はGSX-R1000のK3に乗っていました。とても楽しいバイクでした。
これからスズキバイクを担当されるみなさん、これからもわくわくするバイクを出してください。
お願いします。GSXーS1000に使われているK5のエンジンを積んだ、GSX-10R(GSX-8Rの兄貴分)などどうでしょうか。
待っています。