
フラミンゴ(flamingo)はアフリカ、南ヨーロッパ、中南米の塩湖や干潟に生息する。塩湖やアルカリ性の湖といった特殊な環境に適応しており、数千羽から百万羽程度の巨大な群れを形成する。フラミンゴという名前はラテン語で炎を意味するflammaに由来しているとされる。
1980年代後半から1990年代初頭、ロードレースが華やかな輝きを放っていた時代を若井伸之は生きた。180cmと長身で手足が長く痩せていた。その身体を折りたたむようにGP125ccマシンに密着させ、激しいコーナリングを見せ、イン側の肘や膝を擦った。その姿が優雅なフラミンゴのようだった。
今も、スペイン・へレスサーキットの1コーナーアウト側に、若井の死を悼み、フラミンゴの像がたっている。
■文:佐藤洋美 ■写真:赤松 孝 ■写真提供:若井十月バスケと恋に打ち込むも……
兄・紀良から譲り受けたヤマハ・タウニーは、伸之にとって何より大事な宝物になった。だが、目前に迫っていたのは高校受験だった。バスケットに明け暮れ、バイクに目覚め始めていた伸之にとって、勉強は後回しだった。「このままでは、どこの高校へも行けない」と伸之を可愛がっていた担任と校長が頭を抱える。担任は「渋谷教育学園幕張高等学校(2023年現在偏差値76、千葉県内偏差値ランキング1位、東大進学者多数で知られる超難関校)が新設される。新設校なら生徒を欲しがるはず」と奨めた。紀良は「お前の取り柄はバスケットだけだろ、とにかく、学校で一番偉い爺さんのところへ行って“バスケット部を作ってインターハイに行くから入学させろ”って言ってこい」と伸之を激励する。
伸之は冬空の下をバスケットのユニフォームを着てボールをドリブルしながら、手書きの願書を持って、渋谷幕張の校長室に出かけた。風変わりな訪問者に校長は驚くが、「学校に入れてください。バスケット部を作って強くします」と頭を下げる伸之の話を聞き、願書を受け取ってくれた。
「そんなことしたって、入れるわけがないでしょう。返って逆効果だったんじゃないの」と母・義子も姉・十月も心配した。だが、伸之にとっては大まじめな約束だった。試験を受け、合格発表を待った。懸命な思いが通じたのか、見事、合格。伸之は大きくガッツポーズした。
1983年、ソ連は領空を侵犯されたとして戦闘の意志がない大韓航空機を撃墜、日本人28人を含む死者269人も出て世界的なニュースとなった。飛行機に乗るとロシアの戦闘機ミグが襲ってくるのではないかといいようのない不安が広がり、海外便は空席が目立った。
国内では横浜市でホームレス3人を暴行死させた少年10人が逮捕された。愛知県の戸塚ヨットスクールで過度の訓練で生徒3人を死亡させたとして戸塚校長が逮捕と、日本は豊かさの中で、その恵みを甘受しながら、子供たちの教育のゆがみが、表面化されたころでもある。
『め組のひと』(ラッツ&スター)の♬いなせだね 夏を連れてきた女 渚までうわさ走るよ めッ!♬ と流行歌に乗り、伸之は希望に瞳を輝かせ晴れて高校の門をくぐった。
理想の教育を掲げレベルの高い学校を目指す渋谷教育学園幕張高等学校は、勉強も難しく伸之は「やべ~」と言いつつ、バスケットに精を出す。上級生がいず、何もかもが0からのスタートだった。
「やるなら、とことんやる。でも、カッコも大事だ」とキャプテンになった伸之は、皆の士気をあげるためにユニフォーム制作にかかる。ファッション雑誌を山のようにかかえ、ユニフォームデザインに黙々と取り組んだ。デザインを決め、部員のOKが出ると、特大の名刺を作る。
部費は限られているため、それを有効に使おうと、目立つ名刺を持ちいくつかのスポーツ店を回って見積もりを出してもらう。女子バスケ部、ソフト部などに話をつけ、大量注文として値引きを約束させ、八千代台のスポーツ店に発注、更にコミッションを取り、部費に充てた。次にとりかかったのは応援歌。自身で作詞、作曲し応援歌を作った。家族は声を張り上げて応援歌を歌う伸之を見守りながら、その行動力と何かを生み出そうとするエネルギーに圧倒された。
情報提供元 [ WEB Mr.Bike ]
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