1989年に日本人として初めてアメリカの自動車殿堂入りを果たした本田宗一郎氏に続いて、ホンダ共同創業者の藤澤武夫氏が7月20日に自動車殿堂入りすることが発表された。作る本田氏を売ることで支え、さらにアメリカに進出を果たしたことが評価された。

藤澤氏によるカブの販売戦略がホンダ躍進の起爆剤となった

1948年9月に本田技研工業株式会社が設立された翌年10月に常務取締役として入社した藤澤武夫氏は、本田宗一郎氏とともに世界一のバイクメーカーになることを目指した。翌月には第1次増資分の4分の1を藤澤氏が出資しておりホンダの経営者としての決意を示している。

鉄鋼材の営業マンからキャリアをスタートさせた藤澤氏は営業と財務を受け持った。本田氏が作り藤澤氏が売るという役割分担がホンダを躍進させたことは広く知られているが、これがアメリカでも認められて自動車殿堂(Automotive Hall of Fame)入りを果たすことになった。

ホンダ創業期で藤澤氏の売る力が最初に発揮されたのは1952年のカブF型。「バタバタ」と呼ばれた自転車用補助エンジンの後継機で従来はサドルの前に置かれていたエンジンを後輪部分に移設し、ベルトからチェーン駆動として衣服の汚れと駆動ロスを解消していた。

このフルモデルチェンジ以上に画期的だったのが藤澤氏の独創的な販売方法となる。関係書類や取り付け金具などを含めたエンジン一式を33×33×60cmのダンボール箱に収めて自転車店に直販し、瞬く間に全国にホンダ販売網を築きあげたのだ。

左が本田宗一郎氏で右が藤澤武夫氏。本田氏の右腕、名参謀などと呼ばれた藤澤氏は本田氏の陰の存在だったが今回の殿堂入りで改めて脚光を浴びることになるだろう。

2017年にホンダが再現したカブF型の発送用荷姿。バイク店が全国に300店、ホンダの代理店が20店ほどという時代に5万店の自転車店にダイレクトメールを送り、一気に5000店規模の販売網を築き上げた。

カブ号 F型 [HONDA] 1952年5月に生産が始まると順調に生産を伸ばし1953年4月には月産1万台に達するヒットでホンダは日本一のバイクメーカーに上り詰めた。カブの名は小熊からきている。

スーパーカブは発売前から5万5000円に藤澤氏が価格を決めていた

ホンダが黎明期に大躍進を遂げたのは、1958年に発売されたスーパーカブC100が決定打となった。現在でも国民的に愛されている同シリーズの商品性が群を抜いていたことが理由となるが、藤澤氏の大胆な価格戦略がなければここまでの歴史的ヒットモデルにはならなかっただろう。

藤澤氏と本田氏は1956年に欧州に出向いて、自転車の補助エンジンに代わるコミューターの視察を行っている。そこから本田氏が当時例のない50ccの4ストロークエンジンを水平マウントさせたスーパーカブを開発したのは有名な話。そしてこのレイアウトは現在に至るまで受け継がれている。

この優れた製品を売るために藤澤氏が仕掛けたのはリテール価格戦略で、最初から5万5000円に小売り価格を決めていたのだ。同時期に大衆車として販売されていたベンリイの約半額という破格値から逆算された生産台数は月3万台に上り、当時の国内二輪月間総生産数の4万台に単一機種で迫るものだった。

さらにカブF型と同じようにダイレクトメールで販売店を募り、今回は2輪業界外の取り扱い店も増やすことで1500店の販売網を再構築し、月3万台を売る体制を整えたのだ。また、広告係長と呼ばれた藤澤氏は大胆な広告展開で販売を後押しした。

1956年に欧州を視察した本田氏と藤澤氏はこれら現地で走っている様々なモペットを参考にし、ドイツのNSUなどをサンプルとして5台くらい買ってきたという。

スーパーカブC100(1958年) [HONDA] 当時例のない4ストロークの50ccエンジンは扱いやすく好燃費なことから、技術面では4スト化こそスーパーカブを成功に導いた決定的な要因となる。

スーパーカブC100は4ストロークで4.5PSを発揮。横型と呼ばれる水平レイアウトは冷却面の課題を克服し、跨りやすい車体を成立させている。1952年のカブF型が2ストで1PSだったのに対し凄まじい進化を遂げた。

アメリカ進出を決めた藤澤氏の武器はスーパーカブだった

そして、藤澤氏はアメリカ進出を決断する。「世界経済の中心であるアメリカで商売が成功すれば世界に広がる。アメリカでヒットしないような商品では、世界に通用するような国際商品にはなり得ない」というのが理由だった。

1959年9月に営業を開始したアメリカンホンダの商品はドリーム(250/350cc)とベンリイ(125cc)、ホンダ50(スーパーカブ)の3モデル。その年の年末までの販売台数はわずか170台ほどと厳しい船出となったが、ここでも突破口を開いたのはスーパーカブだった。

主力のドリームとベンリイにトラブルが発生し、スーパーカブで戦うことを余儀なくされた現地支配人の川島喜八郎氏は、当時アメリカでアウトローなイメージが定着していたバイクを大衆商品としてクリーンなイメージでアピールし大ヒット。

1962年にはアメリカンホンダの年間販売台数は4万台を突破し、販売店数はアメリカでトップとなる750店ほどにまでに増やすことに成功したのだ。

スーパーカブでアメリカでの足掛かりを築いた翌年、1963年始の記念写真。左端がアメリカンホンダ支配人の川島喜八郎氏。右から2番目がアメリカ進出を決めた藤澤武夫氏だ。

1962年の4万台に対し、1963年は20万台という目標を掲げ「YOU MEET THE NICEST PEOPLE ON A HONDA(素晴らしい人々、ホンダに乗る)」キャンペーンを展開し果敢に市場を切り開いた。

デトロイトで授賞式典が開催

7月20日、藤澤武夫氏が米国自動車殿堂に殿堂入りした授賞式典がアメリカ・デトロイトで開催された。本田技研工業からは取締役会長の倉石誠司氏らが参加しスピーチした。

「1959年にホンダがアメリカンホンダモーターを設立した際、藤澤武夫は独立した販売ネットワークを構築することにこだわりました。当時、ほとんどの日本企業は代理店を通じて製品を販売していました。しかし藤澤武夫は、お客様と独自の関係を築きたいと考えていました。これが私たちHondaの成功の鍵でした。

(中略)米国でのホンダのビジネスはホンダ50(スーパーカブの米国での名称)から始まりましたが、彼のビジョンにより、その活動はホンダジェットを含むさまざまな新たなモビリティへと続いています」(倉石氏スピーチ)。

ホンダをアメリカでの成功へと導いたスーパーカブやCVCCエンジンを搭載したシビック、ホンダジェットとともにスピーチする倉石氏。

7月20日に開催された記念式典の様子。

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