
「バイクは乗ってナンボのもん」
私、和歌山利宏のコラムが、WEBライディングを科学するとなって、新たに連載されることになりました。とは言え、何も変わりません。もともと、ライディングやバイクについて科学的、技術的な考察を展開してきただけに、このへんで新しく銘打って、再出発することになったと考えていただければ幸いです。
お断りしておきますと、科学する対象がライディング中心になるわけでもありません。これまでのように、バイクそのものについても技術的考察を展開していくつもりです。なぜなら、「バイクを科学する」ことは、「ライディングを科学する」ことでもあるからです。
バイクは乗ってナンボのもんです。ですから、ライディングの本質抜きに、バイクを語ることはできないのです。
「創世記の2輪車にライディングの原点を見る」
自転車がこの世に生まれて200余年。それほど長い歴史があるわけではありません。ドライジーネと呼ばれたそれは、地面を蹴って走る足漕ぎ式でした。自転車の形態は進化し、120年前にはエンジン付きのモーターサイクルへと発展してきました。
この2輪車が今日まで進化し、多くの人に支持されてきたことには、根拠のしっかりした理由があるはずです。とにもかくにも、乗って走らせることが面白かったからに他ならないのだと思います。
左右交互に地面を蹴る動作は、脊椎動物由来の身体操作に基づいていると私は考えています。現在、この地面を蹴って走る方式は、子供が自転車に乗ることを覚えるためのバランスバイクに引き継がれています。四つ足歩きにも似た身体操作によって、バランス取りを自然な身体操作の中で覚え込ませることができ、注目されているのです。
四つ足歩きでは、右後肢→右前肢→左後肢→左前肢の順に四肢が進んでいきます。足蹴り自転車で右足で地面を蹴るため踏み出し、次に実際に右足で後方に蹴っているときは、右手に荷重が掛かります。その右手は無意識にハンドルバーを引き付けるようにバランス取りの役目を果たしています。
付け加えておきますと、この一連の操作においてバランス取りの手法とされる逆操舵はありません。このことは、私が基本テクニックとしての逆操舵に否定的であることの理由の一つでもあります。
自転車はそもそも、馬の代用品として生まれてきたこともあって、乗馬との共通点が見出されたようですが、それは偶然でもこじづけでもないと思います。馬のように振る舞うことで、楽しい移動が可能になったのです。
「生物由来の身体操作によってバイクは上手に乗れる」
すると、遺伝子レベルで私たち人間に備わっている身体操作によって、バイクはより生き生きとしてくることになります。つまり、うまく乗れるようになるほどに面白さは広がり、バイクから離れられなくなるのは無理のないことなのです。そして、バイクにうまく乗れるほどに、バイクと自身の潜在部分で通じ合えることになります。バイクが身体の一部になったような感覚が得られるというのはこのことなのです。
私は、このことがバイクの感動の本質ではないかと考えています。バイクの創成期から、ライディングと乗馬には通じるものがあるとされたことにも納得させられます。そして、このことがバイクを科学する上での原点だとと考えます。
「旅の道具としてのバイクも人間の本能に基づいている」
このように、スポーツとしてのライディングとは、いかに人間が生まれながらに備えている本能を引き出すかでもあります。そして、もう一つ、バイクは人間の冒険心という本能に応えてくれる存在でもあります。
数万年前にアフリカ大陸を飛び出したホモ・サピエンスは、2~3万年前には世界中に拡散したと言われます。極悪な環境に挑み、海を越えて新天地を開拓していったのは、この先には何があるのだろうという冒険心があったからに違いありません。
その意味でも、バイクは人間の本能に問いかけてくれるのです。
この記事にいいねする
本能というのは中々複雑ですね。
世界に出て行った人類は常にチャレンジする特性を持っていたと考えています。
なので色々な発明進化を遂げるDNAがどこかに有るのではないかと。
アフリカの大地で生まれた人類ならばアフリカが最も発展して統治しても良い状況です。
しかし地球上ではそんな事はありません。
バイクに乗るのは常にチャレンジではないかと、まぁ車でも自分で操作する乗り物は特にですが。
何時も通る道でも何時も違う同じ事してるのに。
例えば横道から子供が飛び出してきたり、前に初心者や高齢者の運転の車が走ってたり。
だから人間は常にチャレンジとか進化とかもとめてるのではと、、、
最近では会社とかでもあまりチャレンジ出来ない状況ですから趣味的な所でそちらを目指すのではないでしょうかね。