1990年代に国内外のロードレースでその名を轟かせた青木三兄弟の次男、青木拓磨氏。全日本で王座に輝いた後、世界グランプリの500ccクラスにステップアップし、これからという時に1998年のテスト中の事故で下半身の自由が効かない身体になってしまいました。

その後4輪レースへ転向し、最近ではル・マン24時間耐久レースにも参戦。また、ハンドシフトのバイクでサーキット走行を楽しむなど、2輪での活躍も再び注目されています。この連載では、青木拓磨さんの今でも溢れ続けるモータースポーツへの情熱を語ってもらいます!

マシンが最高の状態で迎えた最終戦

今年もいよいよMotoGPが開幕しました。どんな熱い戦いとドラマが繰り広げられるか楽しみですね。さて、今回は僕がMotoGPの前身であったWGPに参戦したなかでも思い出のレースについて語りたいと思います。それは1997年最終戦のオーストラリアGPです。

当時の僕は、レプソルホンダのワークスライダーとして所属しており、マシンは2ストV型2気筒のNSR500V。HRCが市販レーサーとして発売するために先行開発ワークスマシンという位置付けで、先輩である岡田忠之さんや伊藤真一さんが開発してきたこのマシンを、この年から僕が引き継いだかたちとなっていました。

この年のレプソルホンダは、ミック・ドゥーハンを筆頭にアレックス・クリビーレ、岡田さん、そして僕と4人もエントリーしており、今になってみると豪華でしたねえ。ちなみに僕以外の3人はすべて4気筒のNSR500。パワーでは圧倒的に500Vはもちろんヤマハ・スズキのマシンよりも勝っており、勝つのに最も近いマシンとなっていました。

そんなわけで、それまで4気筒のNSR500が欲しいと切望していた僕ですが、ことこの最終戦の段階に至っては、その気持ちはなくなっていました。というのも、既に翌98年も継続して500Vに乗ることが決定済みだったので気持ちを切り替えていたこともありますが、何よりNSR500Vの戦闘力が大幅にアップしていたのです。このレースで乗ったのは翌98年シーズンに向けた先行開発仕様。97年シーズンが開幕したころとは抱えていた数々の問題もクリアされて、「勝てるマシン」としての片鱗を現しはじめていました。

予選結果はシーズン自己最高のフロントロー3番手。フィリップアイランドは高低差が激しく中高速コーナーがメインとなるサーキットなので、まあパワーがあるほうが有利なことは誰が見ても明らか。そこで並みいる4気筒勢を相手の予選3番手ですから、我ながら大したものでした。「パワーでは4気筒に劣るも軽量な車体を活かしてコーナーで勝負する」という、2気筒マシンが目指していた姿がようやくかたちになってきたという手応えでしょうか、これは決勝でもいけるとかなりの感触をつかんでいたのでした。


「僕の愛機であったホンダNSR500Vワークスモデル。1年間を通して戦闘力の向上には目覚しいものがありました。写真はマレーシアGPのときです」■写真提供:KIBIKI photo

序盤から全開で行くのが500Vの戦法でした

こうして迎えた翌日の決勝レース。すでに年間チャンピオンはシーズン12勝という新記録を打ち立てる圧倒的な強さでミックが決めていましたが、オーストラリアは彼にとっての母国。凱旋レースも勝利で飾ろうと今回のポールポジションもゲットした彼は絶好調の様子です。僕と言えば最終戦スタート前での年間ランキングは6位となっており、ヤマハYZR500に乗るルカ・カダローラとポイントで鎬を削っていたかたちとなっておりました。

そして、いよいよレーススタート。ノリックこと阿部典史くんのヤマハYZRが予選5番手の位置からホールショットを奪ってみせてくれます。しかし、ミックがオープニングラップ中にそれをパス。ノリックも負けじピタリと後ろにつけて、2台は早くも逃げていこうとします。カダローラも好スタートで僕は前を走るクリビーレに続く4番手あたりという展開。

僕とNSR500Vの作戦は決まっていました。とにかく序盤から全開です。というのも、パワーに劣る500Vでは序盤に貯金を貯めておかないと、タイヤがタレてきた後はジワジワと順位を下げるだけ。かと言ってタイヤを温存する走りをしていても、それまでにつけられてしまった差を後半に挽回するのはもっと難しい。やっぱり最初から全開でいく真っ向勝負が500Vと僕には似合っていたわけです。

さて、カダローラはペースが上がらずにすぐに後方へと順位を下げていき、ノリックもミックから引き離されて僕たちに近づいてくる展開に。クリビーレとノリック、そして僕の3台による争いはしばらく続き、10周目あたりでノリックをパスして再びクリビーレとの2台勝負に戻った時には既にミックの背中は見えないところまで逃げられてしまっていました。

「ゼッケン2はクリビーレで、24が僕。ミックは逃がしてしまったけど、クリビーレは逃がさない!」■写真提供:KIBIKI photo

4気筒NSRを抜くことができた!

レースは中盤に入り、現在のところの順位は3番手。僕はクリビーレの後ろをぴったりマークしてついていきます。500Vは、まだ絶対的なパワー不足はいかんともしがたいものの、コーナーでは差を詰めていけます。シーズン序盤にどんどん引き離されていった悔しさが晴れていくようです。

そして残り10周となったところで、思い切って勝負をかけてみることにしました。右コーナーでインを突くとクリビーレの前に。それからコーナーをいくつか譲らずに走ります。「4気筒NSR相手に、ここまで戦えるようになったんだ」という実感を肌で感じ取った瞬間でした。しかし、クリビーレも負けじと追い返してきました。

「どうする、こちらもやり返すか?」。一瞬悩むも、4気筒NSRの有利さは身に染みて分かっています。それにこの時点で4番手を走るノリックと僕らの差は既に20秒以上。来シーズンに向けた500Vの戦闘力確認としても十分以上で、ここで転んでもしょうがないという現実的な要素が頭の中の計算結果を導きます。

正直なところ「3位表彰台でシーズン終了できれば万々歳かな」という答えとなりました。まあ、今となっては「サーキットによっては勝てるマシンになった」と実感できたことに十分満足したからだろうと思います。再びクリビーレに前を譲った僕は、タイヤがタレた終盤も彼の背中が見える距離をキープし続けることでき、充実気分でそのままチェッカーフラッグを受けたのでした。

「直線で4気筒パワーに差を付けられても、コーナーで巻き返す。ぴったりマークして、ついにはパスすることに成功したのです」■写真提供:KIBIKI photo

「高低差の激しいコースで2気筒が4気筒と互角の勝負をしたのは、大きな意味がありました。」■写真提供:KIBIKI photo

ゴール後にまさかの事実が!

しかし…、ゴールした後にビックリ!! リザルトは2位!…2位? なんと僕がクリビーレをパスした周の直前に、単独トップ走行していたミックが転んでリタイヤしていたというではありませんか。ということは、あのとき僕はこのレースで先頭を走っていたわけですよね。ピットからミック転倒のサインも出ていたのでしょうが、まったく気付いていませんでした…。

「もしかして、あのときもっと頑張っていれば優勝できてたかもしれないのか!」などと思っても後の祭り。もっとも頑張っても勝てたかどうか、今になって思うと難しかったと思います。

ともあれ、当時の僕は、予想外のシーズン最高2位表彰台と年間ランキング5位獲得。それに何より翌シーズンに向けての好感触ゲットで最高の気分となったのが、このレースだったのでした。この数か月後に僕は事故でWGPから降りざるを得なくなってしまったのですが、思い残すことがあったとしたら、この絶好調だったNSR500Vを、翌年に表彰台の頂点まで連れていってあげたかったということですね。マシンも僕もその準備が整っていただけに残念です。

「ゴール後のウイニングラップで『3位表彰台だ~』と喜んでいた僕。まさか2位だったとは!(笑)」■写真提供:KIBIKI photo

「表彰式の様子。優勝はクリビーレ、左が僕で2位、右は3位の阿部くんでした」■写真提供:KIBIKI photo

青木拓磨のモータースポーツチャンネル

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コメント一覧
  1. 虎次郎㋣㋶ より:

    うーん、懐かしい♬2気筒NSRは拓磨によってアソコまでのパフォーマンスが上がったんでしょうね!GPを夢中で見てたこの時代‼️並み居る4気筒乗りのライダーを抑えての表彰台(*^^*)カッコよかったです

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